体術の試合で、鉢屋三郎に賭けをしようと言い出したのは竹谷八左ヱ門だった。
賭けの内容は簡単である。相手に勝てたら食券三枚。上級生の試合となれば、それはよく見る光景であった。
相手は天才と呼ばれる鉢屋三郎ではあったが、天才だろうとなんだろうと、身長はさほど変わらないのだ。というより八左ヱ門のほうが身長も体格もいい。だからというか、相手が天才と呼ばれる者であっても八左ヱ門には勝てない賭けだとは思わなかった。
周りは無謀だと笑っていたけど、無謀なもんか?と逆に不思議がっていたくらいだ。(そういう馬鹿なとこがはちのいいところだよねえと、褒めているのか貶しているのかよくわからないことを言っていたのは雷蔵だ。)

食券三枚、ねえ。
 いまいちやる気の出さない三郎に勝ちを確信した八左ヱ門は、ぐっと拳を握る。これは勝てる。だがしかし、後ろで友人がぼそりと呟いたその言葉がいけなかった。
そういえば今日のごはんはおばちゃんの肉じゃがだったっけ、たのしみだなあ。
そう、雷蔵はおばちゃんの肉じゃがが大層お気に入りであった。丁度腹が減っていたのだろう、なんとなしに呟いた友人の言葉を、三郎は聞き逃しはしなかった。

つまりは、そういうことだ。

枯れ葉が一枚、風に流れた瞬間に勝負はついた。




 数刻前の出来事を思い出しながら、八左ヱ門は痛む腰をおさえてぎしりと音を立てながら廊下を歩く。
普段は音をたてないよう気をつけろと教師や先輩に注意されるのだが、今は知ったことか。秋から冬へと変わる風の冷たさが今は身にしみる。
打ち身か、運が悪ければ折れているな。隣でにやにやと笑う友人に、八左ヱ門は思わず顔を顰めた。ひらひらと見せつけるように食券をちらつかせる様が恨めしい。
覚えてろ、三郎。
いつかやり返してやる。

「じゃあ、食券三枚は私のものということで」
「くそっ、育ち盛りにそんな仕打ちをして楽しいか!」
「お前から言い出したことだろう」
「はち、医務室に行ったほうがいいよ?痣、ひどい」
「え、うそ、まじで」
「うん」
「雷蔵、私も痛いところある。私も心配して」
「どこ?」
「雷蔵を見てると胸が苦しい」
「頭を打ったようだね」
「これは元からだろ」

 三郎を放っておくことにした雷蔵の肩を借りて八左ヱ門は医務室へ向かう。情けないが、そろそろ痛みが限界だった。
三郎は置いていかれそうになると、小さな子供みたいに雷蔵のあとをてとてととついて歩いた。子供というか、あれだ、親鳥についてまわるひよこ。ああ、あれも子供か。
思わず笑うと、三郎は凄い形相で睨んで八左ヱ門の足を思い切り踏んだ。ごき、と骨が軋む。怪我人にすることではない。
いってえ!
叫ぶと、三郎が足を踏んだことに気付いて、雷蔵が三郎の足を同じように思いっきり踏み潰した。容赦のない一撃に八左ヱ門は青褪めるが、三郎の自業自得である。なにより、ざまあみろだ。

 しゃがみ込み雷蔵に踏まれた足をおさえる三郎に、八左ヱ門は振り返った。

「さぶろー、暇ならうちの委員会行って遅れること伝えてきてくれよ」
「ついでに悪戯していいか」
「いいわけあるか、うちの子たち泣かせたらお前も泣かすぞ」
「あ、なら僕もお願いしていい?」
「ああ、私が君の分まで働いてきてあげよう」
「うん、伝えたらちゃんと自分の委員会行くんだよ。僕になりすまして図書の仕事してたら殴るからね」

 にっこりと笑う雷蔵は笑顔だが、しかし纏うそれはまるで般若のようである。思わず八左ヱ門も青褪める。さすが、五年の中で怒らせると一番恐ろしいと言われるだけはある。
雷蔵に怒られては三郎も何も言えず、素直に委員会の部屋が並ぶ校舎へ向かった。とぼとぼと歩く背中が切なげでなんだが可哀相だとも思ったが、奴は甘やかすとつけあがるのだ。可愛い後輩に悪戯をさせるわけにはいかない。
 とはいえ、たまにちらりとこちらを振り返りながら歩く三郎はなんともいえず。面倒な奴め。はあ、とため息をついたのはきっと二人同時だっただろう。

 三郎、と声を上げたのは雷蔵が先だ。
やはり、なんだかんだいっても雷蔵は三郎に甘い。
のちにそれを彼へ告げれば、それは八左ヱ門もだよと雷蔵は笑っていた。そしてい組の二人に言わせれば、雷蔵と八左ヱ門は特に甘いらしい。

「兵助がね、斉藤さんから芋を貰ったんだって。だから、委員会が終わったらみんなで焼き芋しよう」
「やき、いも」

 え、うそ、俺それ初耳。
雷蔵の思いがけぬ提案に、涎がじゅるりと垂れる。風の冷たくなってきたこの季節にそれはとても嬉しい贈り物だ。
雷蔵の告げた言葉に、三郎は目をぱちくりとさせて立ち止まった。ああ、あいつ、意味わかってねえな。妙なところで鈍い三郎に八左ヱ門は苦笑し、雷蔵はもう、と笑って、今日の学級委員長委員会のおしごとはなんだったっけ?と言う。
一寸考えて、ああ、と三郎は手を合わせた。授業の前に彼が今日の委員会の仕事は学園長の庭を掃き掃除だとかぼやいていたのを、雷蔵は覚えていたらしい。
芋といえばこの寒い季節は焼いて食いたい。それならば必要なのは芋とそれから。

「枯葉、おねがいね」
「わかった!任せてくれ!」

 お使いを頼まれた子供のような顔で三郎は手をぶんぶんと振り、廊下を駆けていった。それでも足音を立てない辺りがさすがいうべきか。いやむしろそんな三郎の機嫌を一瞬で直してしまった雷蔵がさすがというべきなのか。
思わず小さく手を打つと、雷蔵は仕様のないやつだねえと苦笑した。
 うーんと空を仰ぎ、木々を見る。もう周りの木々は禿げていて、地面は赤、黄といった枯葉で埋め尽くされていた。
これなら枯葉の心配はないだろう。
ならば残る心配は。

「なあ、芋ってどんくらいある?」
「うちと学級と火薬と生物委員会に行き渡るくらいには」

 だから、他の委員会には内緒ね?
雷蔵は人差し指を唇に当てて悪戯小僧のように笑う。五年生では目立った悪戯をするのが鉢屋三郎を筆頭に尾浜勘右衛門といった級長組が主であった。だがそんな二人に隠れて目立たないが、雷蔵も実は悪戯が好きなことを知っている人間はどれくらいいるだろう。
きっと自分くらいなのだろうなと、八左ヱ門も同じようににんまりと歯を見せて笑った。
たまには抜け駆けもいいだろう。寒い中、逃げた虫を探す後輩たちにご褒美だ。

 さてまずは医務室へ行こうか。雷蔵に促され、また医務室へ足を進める。兎にも角にもこの痛む腰をなんとかしないことには始まらない。
一年坊主に心配をかけてしまうし、人一倍変化に敏感な後輩を不安にさせてしまう。
そうして腰の手当てをしたら委員会へ行き、こっそり裏庭に集合して焚き火だ。枯葉は三郎と勘右衛門が調達してくれるし、兵助はきっと少し季節はずれの甘酒を持ってきてくれるだろう。
目敏い潮江先輩と七松先輩に注意しなきゃなあと笑う二人の足取りは軽い。

「あ、雷蔵、医務室行ったらお前も手ぇ診てもらえよ。ちょっと赤いぞ」
「平気だよ。そんなに強く殴ってないし」
「うそだあ、泣いてたじゃん、あいつら」
「耐え性がないんじゃあないの?」
「おっかねえのー」

 さらりと言ってのける雷蔵に喉を鳴らして笑う。ぎしり、ぎしりと二人分の体重を乗せた板が鳴く。
はらりと、木から地面へ落ちる葉を目で追いながら八左ヱ門は賭けの最中に影で三郎を非難していた者たちを思い浮かべた。

天才はなにをしても。
以前からそう彼を嘲る数人に二人が手合わせ中、手厳しい一言をお見舞いしていたのは涼しい顔して八左ヱ門に肩を貸す友人だ。一言言ってやるだけだよと笑っていたはずが手が出た辺り、案外短気な雷蔵らしいといえばらしい。
体術の授業でなければお説教ではあったが、手合わせをしていただけですと教師に苦笑していた雷蔵を思い出してぶるりとふるえる。やはり、彼を怒らせるのが一番おっかない。
そう思いつつ、彼らは八左ヱ門もそろそろ鬱陶しいと思っていたので同情はしない。陰で笑わず正面切って堂々と言えばいいのだ。
そんな二人はやはり兵助と勘右衛門から言わせれば、三郎に甘い、らしいが。

 しかしまあ、先程の嬉しそうな三郎の顔といったら。

「あれが天才だ鬼子だって、ねえ」

友達に嫌われることを怖がる、芋一つで喜ぶ、ただの十四の餓鬼じゃねえか。
なんとも笑える話である。








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