(転生) 日も昇っていないまだ暗い早朝に、携帯から最近流行のラブソングが鳴り響いた。もごもごと言葉にならない声を出しながら携帯を掴み、アラームの停止ボタンを押す。頭まですっぽりと被っていた布団から顔を出せば、ひんやりと冷えた空気に三冶郎は体を震わせた。 さむい。でたくない。けれどここでもたもたしている暇などない。よし、と意気込み、布団を思い切り跳ね除けてベッドから起き上がった。 冷え切った体は思った以上に冷たく、足を擦りあわせて部屋を見渡す。さすがに、そろそろこの格好は寒いよなあ。椅子にかけておいたカーディガンをパジャマの上に羽織ることにした。 まだ眠っている家族を起こさないように、なるべく足音を立てずに階段をおりる。ぬきあし、さしあし。こういうとき、元忍者でよかったなあなんて思う。 洗面所まで行き、水で顔を洗い歯も磨く。腰まで伸びた髪を櫛で梳いて、寝癖がないか確認。あ、ちょっとはねてる。でもいいか。寝起きと思わせなきゃいけないんだから、これくらいが丁度いい。 これで準備は良し。化粧はしない。顔に油をぬりたくるようなそれが、三治郎は好きではなかった。年頃なんだからそろそろ化粧を覚えた方がいいよと友人は言っていたが、どうしても無理だった。無理してやるものでもないと兄も言ってくれているので、たぶんしばらくは三冶郎はこのままだろう。 携帯のディスプレイを見ると、5時23分だった。いけない、もうすぐきちゃう。 そろり、そろりと玄関まで行き、音を立てないように鍵を開けて外に出る。なんだか悪いことをしているみたいだと苦笑してしまう。そんなんじゃあ、ないのにね。 霧がかった空を見上げて息を吐けば白く、じんわりと侵食する寒さに、かたかたと小さく体を震わせる。それでも三冶郎は家の中に入ろうとはせず、肩にかかったカーディガンをぎゅっと握りしめてその場に座り込んだ。膝を立てて、頬杖をつく。 携帯をぱかりと開けば時刻は5時30分。遠くから、ぎちょんぎちょんとおかしな音が聞こえてくる。もうすこし、もうすこし。気がつけば寒さも忘れて、頬は緩んでいた。 ぎちょん、がしゃん、ぎちょん、もうすこし。 「あれ、またいたの?」 がしゃ、と家の前で止まった壊れかけの自転車。自転車に乗っていた坊主頭にタオルを巻いているジャージ姿の少年は、玄関前に座っていた三冶郎を見つけると目を丸くした。 三冶郎はにっこり笑って、少年に、てとてとと近寄る。 「うん、またいたの。目、さめちゃって。おつかれさま」 「いつも早起きだねえ、さむくない?」 「ちょっと、さむい」 「うん、だとおもった。鼻、まっかだよ」 だめじゃん、女の子がからだ冷やしちゃ。 苦笑して三冶郎の頭をなでる少年の名は、佐武虎若だった。もちろん名前だけ同姓同名なにんげんではなく、間違いなく、室町で六年間共に過ごした虎若本人であり。三冶郎の大好きなひとでもあった。 虎若は自転車の籠から新聞を取り出して、はい、と渡す。三冶郎はそれにすこしだけ、躊躇した。 うけとりたく、ないなあ。 学校も住んでいる地区もなにもかもが違う虎若とのつながりは、朝の、このひと時しかなかった。これを受け取ったら次に会えるのは、また明日の朝で。 それはやっぱりすごくさみしいことだった。 なかなか新聞を受け取らない三冶郎に、虎若は不思議そうに首を傾げた。はっとして三冶郎は笑顔を貼り付けて受け取る。作り笑顔なんて簡単なことだ。昔から、得意だったのだから。 そんな三冶郎に、今度は虎若がむう、と眉を寄せた。どきりとする。虎若はポケットから取り出したそれを、新聞紙を持つ反対側の手に握らせた。 「え」 「これ、あげるよ」 「……珈琲?」 「さっき自販機で買ったからまだあったかいとおもうけど、珈琲飲める?」 「のめる」 「よかった」 なんで、缶珈琲? 目を丸くする三冶郎に、虎若は少し照れくさそうに笑った。 あ、その顔、むかしとそっくり。だいすきなかお。 「いつも座ってるから、今日もいるのかなって思って。最近寒くなったからさ」 「……ぼくのために、買ってくれたの?」 「え、えっと、その、ほら、俺はさ、男だし寒くても平気だけど、女の子はさむいの苦手なんだよってともだちも言ってたし、あ、そのともだちって馬鹿なんだけど女の子のことについてはすっごく詳しくてさ、ほんと馬鹿なんだけどね、それでその……」 「ぼくのために買ってくれたんだあ」 「い、いらなかったら捨ててください、はい」 「捨てないよ、うれしい、ありがと」 今度は心の底から笑えば、虎若も嬉しそうに、また、照れくさそうに笑った。 ああもう、だいすき。虎ちゃん、すき。 あたたかくしあわせなときは続かず、虎若は自転車に乗りなおすと頭に巻いていたタオルを巻きなおす。 三冶郎もカーディガンを肩にかけ直して、にっこり笑った。きょうはもう、おわり、かあ。 「まだ配達あるから、いくね」 「うん、がんばってね」 「じゃあね、夢前さん」 「またね、新聞配達さん」 手を振って、虎若も手をぶんぶんと振ってくれた。 そうして虎若はまた、がしょんがしょんとおかしな自転車の音を立てて、霧がかった街の中に消えていった。 「ゆめさき、さん、かあ」 口に出せばどうしようもなくなって、じゃり、と、転がっていた小さな石を踏む。 いつもいつも、あの言葉を聞くとだめだ。名前ではなく名字を呼ばれると、どうしても堪えられなかった。彼は何も知らなくて、知っているのは自分だけなのだと思い知らされる。 不毛だ。笑ってしまう。どうしてなのと叫ぶことすらできない。だって彼は、なにも覚えてはいないのだから。 過ごした日々も、思いも、名前も、なにもかも。覚えているのは三冶郎だけだ。 貰った缶珈琲に頬をあてれば、じんわりとあたたかさが頬から伝わってきた。やさしい虎ちゃん。そういうとこは変わらない。そういう虎ちゃんだから、ぼくは好き。大好き。泣きたいくらいに、君が好きだよ。 連絡先を聞くことは出来た。学校が違ったって、住んでいる場所が遠くたって、もう三冶郎も高校生だ。バイトだってしてる。心細ければついてきてくれる友人だって居る。虎若と今以上の仲へ歩み寄ることは、難しいことではなかった。 それでも、こうやってなにもしないのは、きっと。 彼が何も覚えていなくて、自分が全てを覚えているからなのだろう。 いっそ、ぼくも覚えていなければ前に進めたのかな。 そんなのは臆病者の戯言だと、誰かが笑った気がした。 透徹/111126 |