白姫幻想

 師走を迎え雪が舞うようになった頃、一通の手紙が私に届いた。作家で何とか生計を立てている私は東京の出版社からだろうと、ろくに確認もせずに封を開けるとそこには私を師匠と仰いでくれている若い作家からのものだった。
この度結婚することになったと丁寧に知らせてくれ、他にも私が東京に置いてきた様々な友人たちや知人たちの近況が綴られていた。
懐かしさとともに込み上げてきた寂しさや悲しみは予想外の力で私を打ちのめした。今更ながらに孤独を感じて、私はやりきれない気持ちになり、文机から離れて山へ行くことにした。いい年をした大人が落ち込んでいる姿をさらすのはみっともないだけだ。山奥には決して行かず、山裾辺りでこっそり沈んでいようと思ったのだが。
 山の天気は変わりやすいと名代さんは私に何度も言ったし、私も雨にやりこめられてからは警戒するようになっていた。
それなのに、私は猛吹雪に身をさらしていた。ずっと雪の少ない土地で過ごしてきたせいで、雪道が歩きにくい。慣れない道を必死に歩いたが、ついに滑って転んでしまう。雪の冷たい感触が頬に当たる。
立ち上がろうと思うのだが、風がすごい勢いで私を押さえつける。
もう駄目かもしれない、ここで死ぬのかもしれない。
諦めてしまおうかと目をつぶると、誰かの笑顔が思い出された。
誰だろう?優しい顔をしている……思い出せないが何だか懐かしい顔だ……私を知ってくれているのだろうか?孤独で頼る身うちもない私を……。
「もし」
 声がした。確かに誰かの声が聞こえた。
「誰か、誰かいるのですか」
 苦しい息の下から声の主を探そうと返事をすると、薄紫色の着物の女性が驚いた顔で私を見下ろしている。
「近くにバス停留所の小屋があります、はやく参りましょう」
 女性が私に手を貸してくれ、情けない事に彼女に肩を預けるようにして何とか小屋に辿りついた。
女性は自分が羽織っていたストールを私にかけてくれた。
小屋は簡素な造りで、壁に木製の板がぐるりと打ちつけられており、それを椅子代わりにして座るだけのものだった。恐るべきことに暖をとる道具は何もなかった。
濡れた衣類が肌に張りついて寒かったが、先程までの風雪にさらされているよりはいくらか良かった。女性が貸してくれたストールを身体に巻きつけて、私は板張りに身体を横たえた。
「お具合はいかがですか?」
 黒髪を上品に結った女性が心配そうに顔を覗き込んでくる。すっと通った鼻梁に切れ長の瞳、美しい女性だった。
「おかげさまで、何とか……。ありがとうございます、貴方が声をかけてくださらなかったら私は凍死していました」
 女性は口元に淡い微笑を浮かべる。
「ここでバスを待っていましたら、あなたの声が聞こえたのでございます」
 往生際よく死を待っているつもりだったのだが、知らずに叫んでいたらしい。人間の生命力はなかなかしぶといものだ、と私は赤くなる。
「吹雪が止むまでバスは来ないかもしれませんね」
「ええ」
 女性は凛とした表情で板戸のガラスから見える猛吹雪に視線を向けている。その美しい横顔を眺めながら、段々と意識が遠のくのを感じた。
このままの状態が長引けば、元々丈夫ではない私は死ぬかもしれない。身体が芯から冷えていく。
「はは、雪女に殺されるならこんな状態かもしれませんね……」
 自虐的に私は呟いた。女性が私の方を振り返る。
「まあ、雪女でございますか」
「寒い雪山で死ぬのなら雪女に殺されたと……そんな考えが浮かんだのですよ。昔は幼子、雪ん子を抱いた雪女が通行人に声をかけて子どもを抱いてくれるように頼んだそうです。それを断ると雪の谷に突き落とされ、子どもを抱くと子どもはどんどん重くなり人は雪に埋もれて凍死したそうです……私は子どもを抱いてはいませんけど」
 自分でも何を話しているのか分からなくなってきた。あれほど恐れていた怪談を見知らぬ女性に話している、私の意識はますます混濁していく。
「どうせ死ぬのなら、ずっと恐れていたことが現実になってくれたら私は」
 ふと、ひやりと冷たい手が私の頬に触れた。女性の悲しそうな顔が私を見つめている。
「寂しいのでございますね」
 そうだ。私は寂しい。ひどく孤独でどうしようもなく人恋しくて、心の支えになるような家族の思い出もない。両親は私が幼い頃に亡くなってしまった。
「本当に恐ろしいのは何も起こらないことで、自分が恐れているものだって現実になれば諦めがつくのです」
 そこまで一気に話すと私は目を閉じた。此処で私が死んでもこの女性が、私が遺した言葉を名代さんに伝えてくれるだろう。名代さんにはすまないことになってしまった。散々迷惑をかけて、沢山お世話になったのに恩返しらしいことは何も出来なかった。
身体がどんどん冷えていき、ついに感覚がなくなった。瞼がひどく重い。思考がまとまらない。
 女性は私の頭を持ち上げると、そっと膝に置いた。ひやりとした感触のあとにじんわりと温もりが伝わってくる。
「では私が雪女になりましょう。こうして雪ん子を、子どもを抱いているのです。誰かが通りかかったら貴方を抱いて下さるようお願いします」
 涙が、ずっと何年間も流したことのなかった涙が零れるのを薄らと感じた。
ああ、私はひとりで死なずに済んだ。このまま雪ん子になって女性の腕に抱かれて雪山をさ迷うのもいいかもしれない。ひんやりと冷たい手が私の頭を撫でてくれる。
「……かあさん……」
 私は意識を失った。


 次に意識を取り戻したのは、温かい布団の中で真横に名代さんが座っていた。
「――ここは」
「自分の家だろうがい」
 名代さんがほっとしたような、呆れたような表情で私を見ている。
「廃線になったバス停の小屋の雨どいにストールが巻いてあってな。ちょうど下山途中に通りかかった相沢のにいちゃんがあんたを連れて帰ってきてくれたんだ」
 相沢のにいちゃん……確か近所に住んでいる植物について学んでいる青年だ。
「青い顔して微動だにしないから死んでいるんじゃないかと焦ったそうだぞ」
 やはり危ないところだったようだ。
「あの、一緒にいた女性は大丈夫でしたか」
 彼女が私を見つけ、励ましてくれなかったら私は死んでいただろう。お礼を言いたい、そう思ったのだが名代さんは怪訝な顔になった。
「何だ、また怪異にとり憑かれていたのかい。山小屋にはお前さんしかいなかったそうだよ」
 何と彼女は妖怪の類だったというのか。信じられない気持で私は頭を軽く振った。
「ところで女性は何といってお前を呼んだんだい」
「え?もし、と声をかけてくれて」
 ふうむと唸って名代さんは頭をかいた。
「これは俺の失敗だな。教えるのを忘れていた。いいかい、山言葉っていうのは知っているな?」
「はい。平地では使われない、山で仕事をする人々の言葉ですよね」
「そうだ。岐阜県大野郡の山間部に伝わる民間伝承で『一声呼び』というものがある。山中の妖怪が人間に声をかける時は一声しか声をかけない、このことからお互いを呼ぶ際は必ず二声続けて呼ぶように戒められている。似たような伝承は樺太アイヌや北海道にもあるぞ」
 背中に嫌な汗が流れる。彼女は「もし」と一声だけ声をかけ、私はそれで返事をしてしまった。
「彼女は一体……?」
「雪女かもしれんなあ。季節がちと早いがな。正月元旦や小正月または冬の満月の日に現れるという伝承があるからのう。人間界を訪れる日から雪女は『歳神』的性格をうかがうこともできる。あながち不運ともいえんぞ」
 名代さんは慰めるように話してくれたが、私は彼女が妖怪だったとは信じられなかった。
「雪ん子を抱かせる話もあるが、この雪ん子を無事に抱き終えると雪女がお礼に数々の宝物をくれたという話もある。無慈悲なだけじゃないんだ、雪女は」
 そう、彼女は無慈悲ではなかった。微かに感じたあの温もりはまだ私の額に残っている。
「雪女の話はなあ、ほとんどが悲しい話なんだ。子どもがいない老夫婦、山里で独り者の男、寂しくて侘しい人生を送っている者が吹雪の戸を叩く音から自分が待ち望む者が来たのではないかと幻想することからこの妖怪の話は始まっているんだよ。小泉八雲で有名な雪女の話に似た伝承が各地に残っているのが証拠だ」
 あの凍えるような寒さの中で私は自分が待ち望んだ者が来るのを待った。幼い頃に死んだ、顔すら思い出せない母親が私を迎えに来てくれるのを心の隅で願った。
すうっと涙がこぼれたが、名代さんは何も言わず窓から見える雪を指差した。
「俺も吹雪の音に何かを期待したことはある。でもな、今はもう必要はない。温かい部屋の中で一緒に酒を飲んでくれる人がいるからな」
私は名代さんの言葉が嬉しくて胸が苦しくなり、ただ首を縦に振って頷いた。
もう孤独ではない、私を受け入れてくれた人が今、真横に座って私のとんでもない話に耳を傾けてくれているではないか。
「そうだ、これはお前さんが握っていたものなんだが」
 名代さんが渡してくれたのは雪の結晶の形をしたガラス細工だった。
「これは一体……?」
「子どもでも抱いてやったのかい」
 ははっと笑って笑い話にしてくれた名代さんの優しさに感謝しながら、私はガラス細工を大切にしまっておくことを決めた。名前すら危うく、顔も声も覚えていない母の温もりが伝わってくるようなそんな不思議な雪の結晶だ。
 冷たくて寂しい、侘しくてどこまでも孤独な雪ん子を抱き続けてきた私の人生に、雪女がくれた宝物なのかもしれない。
それは私の空想でしかないけれど。
 今夜も吹雪が戸を叩く。自分が待ち望んだ者がやってきた音かもしれないと、扉を開ける者がどこかで白く続く大地を見ているかもしれない。
そこにどんな幻想を見るのだろうか。
 昔の人々は白く美しい幻想を見た。



                      〈了〉



企画『手帖』様:提出作品
『年がゆく(白姫幻想)』

作者:藤森 凛


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