壁があると見えないでしょう
コン、コンと控えめなノックの音が聞こえたら、それは彼女が訪れた合図だ。
「やあ、今宵も逢いに来てくれたのだね」
「ええ、カイル様」
柔らかい声音が耳をくすぐり、体中の力が抜けていく。息苦しい王宮の中で、安らげるのは彼女の声を聞いている時だけだ。
白い壁の向こうに彼女は身を潜めて僕の声を待ってくれている。
「毎夜毎夜、君を危険な目に遭わせてしまってすまない。父の怒りを買ったがばかりに、幽閉されてしまって君の姿を見ることすら叶わないなんて情けない限りだ」
僕は精一杯の愛しさをこめて、壁を優しくノックする。
「必ず幽閉の命は解かれますわ、それまで、ずっとわたくしが御傍におります。壁などわたくしには何の邪魔にもなりません」
慰めるような優しい口調に僕は目じりが熱くなった。
勝手気ままに生きてきた、今までの人生が悔やまれるぐらい彼女は神々しいまでの優しさを向けてくれる。
果たして、彼女に報いるだけの価値が僕にあるのだろうか。
横暴で恐れ知らずの僕は父の政治に余計な口を出してしまい、元々の素行の悪さもあって王宮の自室に閉じ込められてしまった。扉の前には衛兵が見張りをしており、いつ解けるか分からない父の怒りに僕は絶望した。
自由な身であるときは、歓楽街を遊び歩いては女遊びとギャンブルを繰り返していただけに、有り余る静寂の時間は拷問そのものだった。
昼と夜を何度も繰り返し、生き地獄のような日々に嫌気がさして死のうかと悩んでいたとき、壁の向こう側から名前を呼ぶ声がした。
「カイル様、カイル様。そこにいらっしゃるのですか?」
室内で刃物を探していた僕は、奇しくも壁に耳をつけるような姿勢になっていたので、美しい声に驚いた。
「誰だ?誰かいるのか?」
「わたくしは壁の向こうにおります。あなた様が閉じ込められていると聞いて、せめてお声だけでもと思い、やって参ったのです」
そっと白くて冷たい壁に手を這わせると、不思議と壁の向こうに温もりを感じられる。誰かが、確かに自分に意識を向けてくれている。
「もう誰も僕を覚えていないのかと思っていたが、君は僕を知っているのか?」
「もちろんでございます。愛しい、愛しいカイル様のことをどうして忘れられましょうか」
久しぶりに聞いた自分を想ってくれる声に、僕は涙を流した。誰かに声をかけてもらえるのが、こんなにも嬉しいことだとは知らなかった。
「君は誰だい?僕を知っているのだね」
「今はまだ、名前を申し上げられません。でも、カイル様の幽閉が解かれたとき、必ず私は傍におります」
何とつつましい女だろうか。僕は歓喜に身を震わせた。
散々、女遊びを繰り返してきたが、そのときに出会った女の中にこれほどの清らかな心を持つ女がいたのだ。
何故、すぐに気がつかなかったのだろうと僕は自分の愚かさを呪った。付き合っていた女は全て捨ててしまい、新しい女に手を出そうとしていた矢先に幽閉されたので、壁の向こうにいる女の正体は見当もつかない。本気で大切にした女などいないから、声だけでは誰なのか思い出すこともできない。
だが、今は無理に思いだすつもりはなかった。
絶望から自分を救ってくれた声だけの救世主に、姿を無理に与える必要はない。しばらくは甘美な空想に浸るのも浪漫があって、胸がときめく。
彼女が言うようにその時がくれば分かるのだから、今は彼女と声だけの逢瀬を楽しめばいい。この妖しくも甘美な逢瀬は、生来遊び好きの僕を魅了して離さない。
辛いだけだった静寂も彼女の姿を想像するだけでやり過ごせるようになった。
「この部屋を出たら、必ず君を僕の花嫁としよう。約束するよ」
「まあ、カイル様……わたくし、嬉しくて、嬉しくて夢のようですわ」
涙声が壁の向こうから聞こえてくる。小さな白い肩が震えている幻想が僕の視界に広がる。
「ああ、今、君を力一杯抱きしめてやれたら僕はどんなに幸せだろう」
「お言葉だけで十分幸せですわ、カイル様」
冷たい壁に額を寄せると、壁の向こうでも何かを当てる音がした。
もしかすると、彼女も僕と同じように額を寄せて僕のことを想ってくれているのかもしれない。
「こんな壁を壊して、今すぐにでも君に寄り添いたいよ」
「わたくしには壁など見えませんわ」
愛しい女だ、僕はいじらしい返事に胸が躍った。
ドンドン、と耳触りな音が入り口の扉から響いて逢瀬の邪魔をした。
夜更けだというのに、食事の時間ではないだろう。僕は苛立って叫んだ。
「誰だ!」
「カイル王子!カイル王子!」
ガチャンと重い音がして、扉の錠が外される音がした。
「うるさい!何だ!」
大きな物音に怯えたのか、壁の向こうから微かな悲鳴がする。
「カイル様、どうなさいましたか?何かあったのですか?」
「分からない、何の用件か知らないが衛兵が入ってこようとするのだ」
真夜中の逢瀬を知られないために、部屋は外の鍵以外にも内側から鍵を閉めていた。それを開けられずに衛兵たちが騒いでいるようだ。
「うるさい奴らだ。どうして僕らの邪魔をする!」
「わたくしの存在が知られたら、もうこうして声を交わすことも出来なくなってしまいます」
声が遠ざかる気配がして、僕は急いで壁にはり付いた。
「行かないでくれ!君がいなくなったら、僕は牢獄でひとりぼっちだ!君を失ったらもう生きて行けない!」
「カイル王子、誰かいるのですか?王子!」
衛兵の怒声が壁の向こう側にいる彼女を怯えさせてしまう。黙らせるために僕はまた声を張り上げる。
「誰もおらぬ!やかましいぞ!」
壁をカリカリ、とか細くこする音がする。
「カイル様、わたくしは恐ろしいです……何が起きているのですか?」
「大丈夫だ、何も起きていないよ。あんな奴らなど放っておこう。ずっとふたりで話し続けていよう、僕には君以外の声など雑音でしかないのだから。僕の世界には君さえいてくれたら、それだけでいいんだ」
「カイル様、わたくし今からそちらへ参りますわ。あなた様の優しいお言葉に、わたくし勇気を振り絞ります」
「本当かい?」
予想外の言葉に僕は心臓が高鳴った。ついに、恋焦がれた彼女に逢えるのだ!
「カイル様、誰かいるのですね?危険ですからお逃げください!あの女の墓が暴かれていたのです!あの女の亡霊が」
うるさい、うるさい。僕と彼女の逢瀬を邪魔するな。
「花嫁衣装のまま、自殺したあの女の亡霊が!」
さあ、姿を現しておくれ。僕の愛しい人よ、僕の美しい花嫁よ。
壁から白い手が現れて、僕の首に優しくまかれる。
金色の髪が揺れる、紺碧の瞳が開く、白い花嫁衣装が闇に映える。
「壁があっては見えないでしょう」
毒花のように禍々しくも美しい声が耳元で囁いた。
〈了〉
酸欠様提出:不条理企画
『壁があると見えないでしょう』
藤森 凛