青い瞳と鉄の香り


 ぱたぱたと滴り落ちた生温かな液体がノーチェの顔面目掛けて降り注ぐ。頬と、口許にも目掛けて黒い液体が容赦なく落ちてきた。
 それほどまでに近く、それほどまでに酷い出血が彼の目の前で広がった。
 ノーチェと終焉の身長差は十五センチほどだ。数字にしても大体の身長差は想像し難いものだが、横に並んで見れば一目瞭然だ。
 ノーチェの頭の先は終焉の首元にある。
 先程男の周りを吹き荒れていた風は、ノーチェの頬を切りつけた鋭利なものだ。俗に言う鎌鼬にも似たようなものだろう。それが単純に人の手で巻き起こされたものに過ぎない。
 ノーチェの首元を目掛けたであろう風は、首輪があることによって目的を変えた。睨みつけるように力強く開いていた瞳が気に食わなかったのだろう。顔を目掛けていたそれは、ノーチェを押し退けた終焉へと標的が変わる。
 ――木の葉をふたつに切り裂くほどの鋭利な風は、終焉の首を目掛けて吹き荒れた。

 ――黒い液体が、風に乗って辺り一体に滴り落ちるのを、彼は茫然と見届けてしまう。

 長い髪がいくらか切れてしまって宙に舞った。風が少しずつ弱まってきたのは、男達も呆気に取られていたからだろう。
 それよりもノーチェが気になってしまったのは終焉の安否だ。
 男が長い黒髪をやたらと大切に思っているのは重々承知の上だが、ノーチェが気にするべき問題はそこではない。彼は終焉との身長差を誰よりも理解していて、誰よりも男の死に対して恐怖を抱いている。辺りに舞い散る終焉の血液の量が尋常じゃないことに、彼は腰を抜かすように地面へ尻もちを突く。
 首が、終焉の首が、半分ほど切れてしまったのが、黒い髪の隙間から見えてしまった。

「あ……ぇ……」

 ノーチェを押し退けて前へと躍り出た終焉の体が、静かに前方へと倒れていく。無抵抗のままに、ド、っと鈍い音を立てて地面へ叩き付けられた。
 彼自身、現状を把握し切れていないように小さな言葉を洩らす。つい先程まで死に対する覚悟ができていたにも拘らず、終焉は身を挺してまでノーチェを庇ったのだ。
 自身を顧みず、死に直面して尚、恐れることもなく命を擲った男。
 そんな終焉を――教会≠フ人間達は苦い顔を浮かべた後、ゆっくりと、くつくつと嗤い始める。

「これが、――これが終焉の者≠セっていうんなら、俺達は殺せたことになるんだよなぁ!」

 案外呆気なかった、と男は大きな口を開いて言った。白い服の隙間からきらりと光る十字架が、日の光を反射する。一人の男が狂喜に満ち溢れたように高く笑うと、それに倣うように仲間達がくつくつと肩を震わせる。何を言っているのかはノーチェには理解できないが、彼らは口々にこう言った。
 「これで奴を見返せる」「これでアイツを街から追い出せる」――と。
 ほんのり冷えた風が頬を撫で、舌の上にやたらと錆びた鉄の味が広がるのを実感しているノーチェは、腰を抜かしたまま耳を、目を疑った。

 彼には何となく、彼らの言う「化け物」が終焉のことを指しているのは分かった。何せ、男自身が自分のことを「化け物」などと比喩するからだ。
 見た目はどこまでも人間と同じでありながら、ほんの少し常軌を逸脱しているだけ。肌が冷たかったり、血液が黒かったり――常人との違いはそんな些細なこと。
 そんな些細なことを気にして彼らは、男は、終焉の者≠「化け物」などと言い表しているのだ。
 ノーチェからすれば大した違いではないのは明確だ。彼自身もまた常軌を逸脱したような存在であり、見るものから見れば、重宝する生き物だ。夜空を模したように紫の瞳に三日月が浮かんでいる瞳も、黒く染まった強膜も、一般人からすれば「化け物」に近いのかもしれない。
 ――しかし、ルフランで擦れ違う人間は皆、ノーチェを「化け物」として見ることはなかった。
 大半の人間は首元に視線を向けてしまって、奴隷という認識が強く根付いてしまっていたのだろう。商人≠ゥら見れば、ノーチェは質のいい商品に過ぎないのかもしれない。人間として見られることはなかったとはいえ、存在も不明確な名称に喩えられることはなかった。
 何なら彼は、終焉に一人の人間として――少々過保護ではあるが――扱われていたのだ。
 充実した食生活。問答無用で与えられる衣服の数々。掃除が行き届きすぎて手を出しようにもない綺麗な屋敷――どれを取っても奴隷として生きている間は与えられなかったもの。
 それを分け与えてくれたのが、他でもない終焉なのだ。
 彼にとって終焉は人間だ。肌が色白であろうが、血液が黒かろうが、蘇ろうが人間だ。風呂に入れば人並みの体温にはなるし、蘇生することには驚きはしたが至って普通の暮らしができる。食事の味付けに対して一抹の不安を見せるものの、腕前は完璧で、時折変わる表情は人間以外の何になろう。
 ――少なくとも、ノーチェの目には、終焉は人間として生きていた。どれだけ自分を卑下しようとも、誰よりも人間のように見えていたのだ。
 まるで人間に憧れるように。

 そんな命を殺めた彼らを、ノーチェは信じられないものを見るような目で見上げた。数センチ先には終焉の亡骸が俯せで倒れている。室内ではない分、いくらか風に流されているが、強い鉄の香りが所狭しと漂っている。風の力では十分に切り落とせなかっただろうが、動脈がしっかりと切れたであろう首元からは、絶えず黒い血が溢れ出している。
 どくどく、どくどくと。
 まるで水溜まりを作り出しそうなその光景に、ノーチェは恐怖を押し留めるように生唾を呑み込んだ。溢れ出す終焉の血液と同調するように、高鳴る鼓動が嫌で、彼は胸元の服を握り締める。
 どうして庇ったんだと叫びたくもなったが、それを言ったところで今の終焉には届かないのは明白だ。
 止まることを知らない血液と、ピクリとも動かない終焉に恐怖を抱くよりも、彼には言わなければならないことがある。ごくり、と飲み下した生唾がやたらと鉄臭いことも差し置いて、ノーチェは震える足でゆっくりと立ち上がる。

「俺は、……俺には、この人よりも、アンタ達の方が化け物に見える……」

 喉の奥から必死に絞り出した声はみっともなく震えていた。よろよろと覚束ない足取りは、頼りなく、体を支え切れずに一度だけ体勢を崩してしまう。動悸が速まっている以上呼吸は浅く、荒くなっているのが分かる。指先の末端が冷えるほど、血の巡りが悪くなっているのか、酷い寒気をノーチェは感じた。仄かに頬を撫でるそよ風ですら寒いと感じるほどだ。
 そんな彼の様子を男達は怖がっていると捉えたのか、僅かに笑みを浮かべながら小馬鹿にするように「何だって?」とノーチェに言う。にやにやとあからさまな表情は、ノーチェがあくまで「終焉の死に対して恐れを抱いている」のではなく、「終焉を殺した教会≠ノ対して恐れている」と解釈しているようだ。
 ――そう嘲笑う瞳を、彼は幾度となく見てきた。反抗することもできない奴隷を、嘲笑する顔を何度も見てきたのだ。今更見間違える筈もない。
 しかし、だからといってその解釈を訂正することなど、ノーチェはしなかった。

「この人は、何もしてない筈だろ……それを殺して、笑うアンタ達の方が化け物だって言ってんだよ……!」

 終焉に向けた言葉を撤回してほしいわけではない。ノーチェはただ、理由もなく終焉が「化け物」と呼ばれているのが酷く気に食わないのだ。だからと言って男を殺したことに対して不満を抱いていないわけではないが――、どうにも終焉が悪く言われるのだけは許せないのだ。
 ノーチェは再び彼ら教会≠ノ睨みつけるような視線を向ける。懸命に、力強く。それが抵抗と見做されているのかは分からないが、首元が焼けるようにじりじりと痛み始めるのが分かった。

 それでも彼は、睨みつけるのをやめることはなかった。

 教会≠フ男達は一度眉間にシワを寄せると、不思議そうに首を傾げる。「君は言い伝えを知らないのか?」と、まるで悪意のない表情のまま、純粋に彼に問い掛けた。
 言い伝え――というものが何を指し示すのか分からず、ノーチェは男の問いに答えられずにいる。数秒待って、男が痺れを切らしたように顔を歪め始めると、一人の仲間がこっそりと耳打ちをした。恐らくノーチェがこの街の生まれではないことを言ったのだろう。彼は「ああ、すまなかった」と言うと、懇切丁寧に説明をしだす。

「ルフランでは一般的に『黒』を嫌う傾向がある。それが何故だか分かるか?」
「……?」

 唐突に切り出された男の言葉に、ノーチェは怪訝そうな顔をひとつ。意図も分からない男の問いは、ノーチェ自身が欲しいと思う回答ではない。しかし、切り出された言葉が終焉に繋がる気がするのは、気のせいではないだろう。
 男の問いにノーチェは答えることはなかった。すると、何を思ったのか、男はうんうんと頷き「分からないのも無理はない」なんて言う。

「黒はな、終焉の者≠フ象徴なんだ」

 ――男が言いたいのはこういうことだろう。
 この街では黒が忌み嫌われている。何故ならそれは、終焉のことを示す色だからだと言い伝えられているからだ。
 街では一切見掛けることのない黒を好んで着ていて、見慣れない髪色を持つ終焉は無条件で嫌がられる対象だと言うのだ。

 ノーチェにはその事実があまりにも受け入れ難く、思わず「そんなことあるのか」と呟いた。彼自身が他所から来た人間である所為か、ノーチェは黒を嫌った試しがない。寧ろ好き好んでいて、夜に紛れられるような暗い色を選んでいる節がある。
 それを知っているのか、終焉が買い与えるのも専ら暗い色ばかりで、大して気に留めたこともないのだ。
 更に言えば、ノーチェが知る限りではあるが、魔女を名乗るリーリエでさえも黒を好んでいる。実際終焉と同じような黒髪ではないのだが――、それらをどう認識しているのだろうか。

 説明をしようとする男は、ノーチェの身なりを改めて見ると、酷く怪訝そうな顔をしだした。
 奴隷であることに嫌悪感を抱いているのではない――、黒い色を纏っているのが露骨に気に食わないのだ。
 一人を筆頭に教会≠フ人間はこぞって嫌そうな顔をするものだから、ノーチェの胸に酷い不快感が宿る。
 たった黒い服を一枚着ているだけでこの反応だ。好きなものを着て何が悪いと言うのだろう。
 ――思わず歪んだであろうノーチェの顔を見てか、男は口許に手を当てて「失礼」と咳払いをひとつ。コホン、と小さく吐いたあと、終焉の者≠ェ忌み嫌われている原因について話をする。

 男が恐れられている原因は、この世界を滅ぼす存在であるからだ。

 ――息を吐くように、当たり前かのように紡がれた言葉に、ノーチェは無意識に息を呑む。「世界を滅ぼす」――似たような言葉を聞いたことがあるような気がして、彼は記憶の糸を辿る。

 それは初めて屋敷にやって来た夜のこと。まだ顔もしっかりと覚えられていないときに、終焉が息をするように彼に告げた言葉がある。
 世界を終焉に導く者――それが終焉が自身を語るのに使った言葉だ。光も、緑も、海も国も全て腹の中に収めるだなんて言って、自分自身をまるで化け物かのように語ったのだ。

 今思い返せばノーチェは終焉自身が紡いだその言葉も嫌で、知らず知らずの間に奥歯で歯を食い縛る。ギリ、と骨が擦れるような音に、彼は咄嗟に口を開いた。
 何故だか理由は分からない。――ただ、終焉が化け物と揶揄されるのが嫌で、先程から不快感が脳を刺激するのがよく分かる。詰め寄って、言葉を撤回させてやろうかと何度も悩みながら、首の痛みに意識が引き戻される――その繰り返し。
 ノーチェ自身そう思っている理由がはっきりとはしないものの、誰よりも人間と同じように接してくる終焉を馬鹿にされるのが許せないのだろう。――そう結論づけることにした。

 一度だけ驚いたような表情をしてしまったのか――、教会≠フ面々は彼の変化を目にするや否や、「どうする?」と問い掛ける。
 教会≠フ人間は悪に染まることはない。絶対的な悪とされている終焉の者≠殺すことはしても、害のない一般人を殺すことなどは禁止されている。それは奴隷が相手とて同じことであって、ノーチェに問い掛けるのだ。

 教会≠ノ身柄を預けてもいいが、ついてくるのか――と。

 その問いに、ノーチェは露骨に嫌悪感を示した。
 自分自身でも分かるほど、表情が歪んでいる。眉間にシワを寄せ、可笑しなものを見るような目付きを向けてしまう。ほんの少し顔の筋肉が痛むような気がすると錯覚するほど、ノーチェは彼らに対して敵意をむき出しにした。
 一体誰が、終焉を殺した男についていくと言うのだろうか。
 気が付けばノーチェの足は震えることを忘れてしまっていた。男が死んでしまう恐怖よりも、男が侮辱されることに対する苛立ちが勝っているようだ。
 頼りなかった足で地面を踏み締めて、彼は教会≠ニの距離を保つ。何かをしでかすとは思えないが、ノーチェは自分が奴隷であることを忘れてるわけではないのだ。

「……おいおい、何だよその顔。まるで俺がこれを殺したみたいな顔をするじゃないか」

 ノーチェが露骨に敵意を向けてきた所為か、男は言い訳にも似た言葉を紡ぐ。「あくまでお前を痛めつけようとしたのであって、殺すつもりはなかったんだ」と。
 どこか砕けた口調になったのは、彼が自分の思う通りに動かないことへの苛立ちだ。見れば僅かに眉間にシワを寄せていて、足元は絶えず地面を叩いている。教会≠ヘ正しい筈なのに、まるでこちらが悪であるかのような態度に、納得がいかないのだろう。
 しかし、ノーチェはあくまで一般人としての区分にあたる。むやみやたらに手をあげてしまっては教会≠ニしての面目が立たない。
 あくまで優しく、正しくあるために男は話をするのだ。

「……確かに、俺の所為でこの人が死んだかもしれない……」

 男の言葉に、ノーチェの意志が微かに揺らぐ。
 確かにノーチェがわざわざ前に出ることがなければ、終焉は命を落とすことがなかったのかもしれない。面倒事だと言っていた終焉も、もしかしたらノーチェが原因で言ったのかもしれない。

 ――それでも彼は、自分が原因であることよりも、終焉を殺して笑っていた男達の方が悪く思えたのだ。

 ――何気なく歩を進め、彼は徐に倒れている終焉の体の前で立ち塞がる。
 確かに自分が原因かもしれないが、先程から陰で未だに嗤う男達の顔が気に食わないのだ。
 ゆっくりと前へ出ることで彼らから終焉の姿を隠す他、自身の視界に留めなくてもいい状況を作る。それで破顔する顔が見られずに済むことに、彼の中の怒りが少しばかりやんだ気がした。

「……あくまでそれの味方をするのか?」
「この人を人だとも思わないアンタ達について行くよりはマシだ」

 苦笑混じりに再三問いかけてきた男達に、ノーチェは自分の意見を言い放つ。じりじりと首元に痛みが走る中、頬を撫でる風が再び鋭さを増したようで、針を刺すような痛みが素肌を傷つけた。
 血が溢れるような傷の深さではない。せいぜい薄皮が剥ける程度の穏やかなもの。それが最後の警告だと分かっていながらも、ノーチェは意志を曲げることはなかった。

「可哀想だがこの奴隷は化け物に魅入られてしまったようだ。この状態で教会へ連れて帰ってもあの方の邪魔になるだけ。仕方がない、殺してしまおう」

 さも当然だと言うかのように、男は軽く微笑んだ。仕方ないとは言いながらも、何らかの理由によりノーチェを教会≠ノ招かないでいられることをやけに嬉しそうな顔で語る。
 結局のところ、この人間は自分の気に食わない人間を傍には置きたくないのだ。
 男は焦らすようにゆっくりと手のひらを、指を彼に向ける。周りの男達も終始口許で笑みを浮かべているが、その瞳の奥には悪意が一心に込められているような気がしてならない。誰もが男を止めようともせず、笑いながら事の顛末を見守るつもりなのだ。

 ――この街は教会≠ノ支配されている。

 ――不意に終焉が紡いだ言葉を思い出してしまう。こんな人間達に街が支配されていると思うと、腐れ切った世の中だと、彼は思った。
 次に襲いくるであろう衝撃に備えて、強く瞼を閉じる。痛みがあってもなくてもいいが、意識がすぐに途切れてなくなってしまうことを願った。

 ――次こそはきっと。

 唐突に頭によぎる言葉にノーチェ自身がハッと瞼を開く。いつどこかで同じ言葉を吐いたのかは分からないが、自分の言葉に強い既視感を覚えたのだ。
 まるで以前からずっと思い続けてきたような、不思議な言葉。ずっと前から願い続けてきたような言葉に、ノーチェ自身が目を丸くする。
 もうずっと前から何かを繰り返してきた違和感が、ノーチェの頭を小突いたように痛みが走った。

「――……?」

 そうして痛みがいつまでもやってこないことに、彼は違和感を覚える。決めていた覚悟が簡単に覆されてしまうような間に、思わず彼らに視線を向けた。
 見れば青い空の太陽の下、教会≠ニ呼ばれる男達の表情が引き攣るのがノーチェの視界に映る。
 驚いたように見開かれた男達の瞳。笑っていた筈の口許は歪んでいて、引き攣った顔は少しずつ可笑しなものを見るようなものに変わっていく。
 それは見た通りの感覚で言えば、恐ろしいものを目にしたような表情だ。夏に肝試しに行って、本物を見てしまったときに恐怖を表すような顔付き。
 それを見て――、彼は「ああやっとか、」と小さく吐息を吐いた。
 恐ろしいものを目にしたときと同じような反応をするのは当然だろう。かくいうノーチェも、恐ろしいとは思わなかったが、驚きを覚えたものだ。
 死んだ筈の人物が息を吹き返すなど、誰が思うだろうか。

 ノーチェはゆっくりと、終焉の体があるであろう背後を振り返る。彼が髪の隙間から見てしまった首と、あの出血の量でどう息を吹き返したのか気になって、男達に背を向ける。
 足元に転がっていた終焉は徐に体を起こし、ひとつひとつの動作を丁寧に確かめるように立ち上がる。ノーチェの意に反して首の傷は塞がっていないようで、体を起こす毎に首からの出血が見て取れた。
 真新しい鉄の香りに、忘れていた恐怖がノーチェの体を支配し始める。足がみっともなく震えてしまって、全身から血の気が引くような感覚。呼吸を忘れて「アンタ、大丈夫なの……」と小さく呟くが、容体が気になるほど悪く見えるのはノーチェも同じだろう。
 彼の問い掛けに終焉は何も答えることはなかったが、一度だけ「あ、」と口を開いた。それは、喉から空気が抜けるようにひゅうひゅうと吹き抜けるような音と混じっていたが、確かに言葉を洩らしていたのだ。

「あ……あー……?」

 空気が抜けるような音が気になるのか、終焉は首元に手を添えて切れた口を塞ぎ始める。相変わらず傷口からは血が溢れているが、その色は黒く、全く普通ではない液体が溢れ出している。さらついていながらも絶えず溢れ続ける。
 その光景が当たり前ではないことはノーチェも十分に理解していたが、漠然とした不安が彼の脳を刺激していた。

 傷の治りが遅いような気がする。

 確証を得てそう思ったわけではないが、胸焼けのように募る不安が少しずつ大きくなっていくのは確かだ。
 何せノーチェが目にしていた光景では、終焉は既に傷口が塞がった後で、悠然とした態度でいることが殆どだったからだ。特別それを目撃し続けたというわけではないが、どうにも傷が塞がらない現状が何よりも不安でしかなかった。
 もしかすると、傷の塞がりは本人の体力に応じて速度が変わるのだろうか。
 もしそうであれば、終焉は酷い疲労感に苛まれている。万が一、傷が塞がらなかったら、男はどうなってしまうのだろう――。

「――……ふ、」

 ――そんなノーチェの不安など杞憂だと言うように、終焉の口許から笑みが溢れる。それを切っ掛けに、ノーチェの背後からは怯えるような言葉がひとつ。咄嗟に振り返ると、リーダー格の男が地面に尻もち突いて、震える手でノーチェの向こうを指差し始める。血の気が引いた顔で「化け物」と呟いた。
 誰もがこの光景を見てしまうと、終焉のことを人として見なくなるのだろうか。
 チクリと針が胸を刺してきたような痛み。その正体が分からないまま、溢れるようにポロポロと口から洩れる終焉の笑いに、ノーチェの気が逸れる。

「はは……首……首、か」

 笑い声を溢す度に溢れる血液が塞がってきた頃、俯いて見えなかった終焉の顔が、ゆっくりと露わになる。

「……あれ……」

 眼前に姿を現したそれに、ノーチェは思わず言葉を洩らす。
 終焉が笑みを浮かべていたことはもちろんのこと。彼は、終焉の獣のように鋭い瞳にそれとなく威圧感を覚えることが多かった。
 血のような赤い瞳。光はないくせに透き通るそれが、見下ろす瞬間にやたらと圧倒されることが多かったのだ。
 もちろんそれは今日とて例外ではない。何なら例外は昼間に見た、終焉の蘇生後の瞳がそうだろう。優しく微笑むようなあの目付きはきっと、意識しなければいけないほどのもの。そうでなければ、獲物を見つけた野生のように鋭い瞳が、向けられるのは間違いない。
 間違いない筈なのだが――その赤い瞳が、何故か彼の瞳に映らなかった。

「なる、成る程――首は、新しいな」

 手に隠されていた終焉の首が漸く露わになる頃に、終焉の首は傷跡が初めからないと言い張れるほど、綺麗に塞がっていた。
 男はそのままノーチェの体を押し退け、教会≠フ男達にゆっくりと歩み寄る。その瞳にノーチェの姿は映らないまま。彼が最後に見たのは口許から覗く鋭利な八重歯と――真昼の空のように青い、終焉の瞳だった。

「う、ああぁぁああ!」

 ト、とノーチェが地面に尻を突くと同時、男達が一斉に騒ぎ立てる。日がまだ昇っているとはいえ、酷く耳障りな声だと、まるで他人事のように思ってしまったのは、終焉がノーチェに敵意を示さないからだろう。
 地面に腰を下ろしてしまった彼の視線の先で、一方的な迎撃が男達を襲う。
 魔法の発動条件は彼が知る由もないが、対象を明確にするためだけに差し出された手が邪魔だったのだろう。男達の足元で脈打つ黒い影が蠢いて、足元から浮かび上がったと思えば、鞭のようにしなやかな動きで腕を弾き飛ばす。
 ボッと破裂したかのような音と共に赤い血液が辺りに飛び散る。緑に萌える草に、相反する色が存在感を増す中、ノーチェの近くに弾き飛ばされた腕が地面に叩きつけられる。
 ドシャ、と血液と落下音が混じる音に彼は嫌気を覚えたが、それすらも忘れてしまうほど目の前の光景は圧倒的だった。
 男が一人、手をあげられたことに呆気に取られた仲間達が、咄嗟に終焉に対して一冊の本を懐から取り出した。
 それは表紙に煌びやかな装飾が施された手帳ほどのサイズの小振な本だ。金の装飾が細部にまで施されたそれは、終焉に対してのみ開かれるもののようで、誰も彼もがその本を手に取った。

 ――それも男にとっては子供が歩くよりも遅い動きだったのだろう。

 先程と同じように影が鞭のように唸ると、男達の腕が容赦なく切り落とされる。辺り一面に広がる赤い色と、錆びた鉄の香りにノーチェは嫌な顔をひとつ。対する終焉は、至極楽しそうに笑いながら教会≠フ人間達に向かって、足を繰り出した。
 終焉の足が、男の脇腹を殴る。同時に黒く汚れた手のひらで男の頭を鷲掴みにして、慌てふためく仲間の顔に強く叩きつける。ノーチェには聞こえなかったが、そこには確かに鈍い音が鳴り響いた筈だ。
 それを見ながら終焉は軽く唇を舐めて、蠢く影の真上へと投げ飛ばす――。すると、男の――男達の体を、棘を模した影が貫いた。
 一度教会≠フ人間の体がびくりと跳ねたのを最後に、それらは一切動かなくなってしまう。
 そんな亡骸に、興味を無くしたように終焉は顔を逸らして生き残る男達へと視線を投げる。終焉の白い顔には赤い返り血が点々と付着していて、誰が見ても恐怖を与えるほど瞳があやしく輝いている。
 尻もちを突いていた男が咄嗟に盾にするよう、終焉に向かって仲間を押し付け始めた。
 肩を貸したたったふたつの命が、化け物と呼ばれてしまう男の前に駆り出されてしまう。その光景を見ていたノーチェが「結局自分の命が一番なんだな」と考えていると――、終焉の腕に黒い影がまとわり始めるのを見た。

 ――あれは何だろう。

 そう思うと同時に、終焉が優しい笑みを浮かべながら男の胸を貫いた。

「……あ……?」

 片手で胸を突き、もう片手で人間の首を飛ばす。
 どう見ても人間技とは思えない所業に、ノーチェは「ああ、」と言葉を洩らした。

 あの腕にまとわりついたのは魔法の類だ。身体能力を向上させる魔法があるのと同じように、体の一部にそれをまとうことで自身の体を鋭利な刃物と同じように武器として扱うことができるのだろう。
 ノーチェ自身過去にそういった行動に出なかった分、終焉が難なくこなしていることが酷く珍しく思えた。

 あの人は一体あれをどこで覚えたんだろうか。

 終焉の顔に再び赤い返り血が降り注ぐ。これでもかというほど顔にかかってしまっていて、自ずと彼は風呂の状態を確かめたくなる衝動に駆られた。
 あれだけの血を浴びて噎せ返らないなんて流石だな、なんて思いながらぼんやりと男を眺める。終焉はやはり亡骸には興味がないと言いたげに、突き刺したそれを呆気なく振り払った。
 そうして黒く蠢く影の元へ数人の体が横たわる。傍観者であるノーチェは後片付けが大変そうだと視線を向けていると、奇妙な光景を目にしてしまった。
 終焉が投げ捨てた死体の数々が少しずつ、地面へと沈み始めたのだ。

「……何だろ、あれ」

 傍観者であることをいいことに、ノーチェはぽつりと言葉を呟く。横たわったそれは少しずつ体を沈めて、あっという間に半分までも失ってしまった。その真下には今もなお蠢く影があることから、沈む現象も終焉が巻き起こしているのだろうと彼は考える。
 あれなら後片付けがいらないのかもしれない、もし殺されるならあれでもいいかもしれない――そうぼんやりと眺めていると、不意に終焉と目が合った気がした。
 ぱちりと交差する視線。見たこともない、青空色の瞳。返り血塗れの顔で青い瞳はやけに輝いているように見えて、ノーチェの背筋に悪寒が走る。
 恐怖――というよりも、本能的な警戒が体に「逃げろ」と命令を出した気がした。
 何故終焉と目があったのか――それは、ノーチェの視界の端に映る男が原因なのだろう。
 関節から先がない腕を庇いながら、男が彼に向かって走る。動揺が隠せない足取りは絶えずよろめいていたが、その目はしっかりとノーチェの姿を捉えている。未だに無事である左手を差し出して、彼の胸ぐらを掴もうとする意志がはっきりと分かった。

 あくまで被害のないノーチェを人質にするつもりなのだ。

「なん、」
「こんな化け物、まともに相手してられっかよ……!」

 立ち上がり損ねたノーチェの襟を掴み上げられる――が、その動きが妙にぎこちなく、急に止まってしまう。まるで誰かに体を縛り付けられたようなぎこちなさで、次第に動くことができなくなった。
 掴まれたノーチェでさえもその状況に驚いて、瞬きを繰り返す。彼ほどの力を持っていれば振り解くことなど簡単な話だが、妙に動かない相手の体に違和感がある。
 懸命に辺りを目で探ると、目一杯男が映り込む視界の端に、終焉の姿が見えた。
 まるで何かを締め付けるかのような素振りを取っていた。手を握り締め、ゆっくりと歩みを進め始める。一歩一歩確実に。
 近付いてくることで漸く視認できる終焉の顔は――笑みではなく、怒りが滲んでいるように見えた。

「うわ、何……!?」

 ノーチェが終焉の表情に呆気に取られていると、動けない男が驚いたように声を発した。
 何かと思って注視すれば、男の体が少しずつ地面へ沈み始めている。――いや正確に言えば、自身の影に呑み込まれ始めているのだ。
 一体どういう原理だとか、何が起こっているのかだとか、何度頭を働かせようとしたのかは分からない。みしみしと音を立てて沈んでいく男に意識を取られ、どうにも思考が働かない。
 まるで流砂に呑み込まれて行くような光景に、彼は言葉を失ってしまった。
 助けて、と縋るように洩れてきた言葉を遮るよう、黒い影が男の顔にまとわりつく。触手のようにべっとりと身体中にまとわりついて、ゆっくりと呑まれていくのを彼は黙って見守るしかなかった。
 足を始めとして、次に腰。胴体が呑み込まれて、襟を掴んでいた手がノーチェから離れる――それも最後まで見届けることは叶わなかった。

「――ノーチェ」
「……ッ!」

 静かに紡がれた名前に、ノーチェは目を丸くする。
 足元を見ていた筈の顔を終焉が半ば無理矢理上げたのだ。頬を血に塗れた手で包み、地面から空へ――終焉へと視線を向けられた。両頬から伝う鉄の香りに、彼は思わず顔を顰めてしまう。――なんて血生臭いのだろうか。
 いつの間にか間近にいた終焉に呆気に取られながらも、彼は降り注いだ呼び声に応えるように言葉を紡いだ。

「……何」

 彼自身、終焉がまともであるようには見えていない。なるべく男を刺激しないように穏やかな声色で、彼は返事をする。
 終焉の瞳は未だに青く、爛々と煌めいている。それは大事に取っておいたお気に入りの玩具を見つめるような瞳で、子供のようでありながら、獣の鋭さを兼ね備えている。赤よりも青の方が強い威圧感を得ることはないが、正気ではないような気がして、ノーチェの額には汗が滲む――。

「――いっ!?」

 ――不意に、終焉の血に塗れた指先が、頬についたノーチェの傷口を抉るように入り込む。
 ぐっと抉るような指に、ノーチェの視界が滲んだ。

「ああ……ふふ……私、私の……」
「や、やめ……いた……っ」

 血が溢れるほど深く、傷口を開くように差し込まれた指に彼は声を上げる。
 しかし、終焉の耳はノーチェの言葉など聞き入れてはくれなかった。
 ――よく見れば終焉の息は荒く、顔には汗が滲んでいる。肩でふうふうと息を繰り返してしまうほど疲労しているのが目に見えて、ノーチェの胸には得体の知れない罪悪感が募り始める。

 もし、もしも、こうなってしまっているのが自分の責任だったら。疲労してしまっているのが自分の責任だったら――。

「ごめ、な……さ、」

 思わず謝罪の言葉を口にしたのと、くち、と嫌な音がノーチェの耳に届いたときだった。
 終焉の顔すれすれを、黒い蝶がひらりと飛び交った。
 気が付けば、辺りには光をも通さないほどに黒く彩られた蝶がひらひらと飛び回っている。まるで終焉の意識をノーチェではなく、蝶自身に向けるように。
 彼もそれがただの蝶ではないのは、何となく気が付いた。
 ひらひらと踊るように。時には終焉の指先や、ノーチェの鼻先に止まって羽を休め、気が向いたら再び彼らの周りを飛び回り始める。
 その光景を見つめていると――次第に緊張が解れるような気がした。ノーチェの頬を包む終焉の手の力が、次第に抜けていくのが彼には分かる。傷口に入り込んでいた指先から力が抜けて、顔には笑みが消え失せる。その目元は疲れ切った色を浮かべていて、今にも眠ってしまいそうなほどだった。
 相変わらずその瞳は青いまま。
 ――だが、その目付きは今まで見てきた終焉のもののように見えて、彼はゆっくり、話し掛けた。

「別に、寝てもいい……」

 ――そう呟くと、終焉の瞼が鉛のように重く、閉じていくのが目に見えた。
 ゆっくり、ゆっくりと、男の意識が闇の中に落ちる――。

「何だか大変な目に遭ってるわねえ」

 意識を失った終焉の体を支えながらほう、と息を吐くと、女の声が響くように木霊する。普段よりも柔らかく、風鈴が鳴るような響きに堪らずノーチェも眠りに身を委ねかけてしまう。
 それに抗うよう「これ、アンタのお陰……?」と負けじと言葉を呟けば、煙草の煙と共に女が言う。

「そうねぇ……ちょっと大変そうだったから、悪戯させてもらったわよ〜」

 金の髪と黒いドレスを小さな風に靡かせながら、リーリエは軽くほくそ笑んだ。黒い手袋が嵌められた指先には白い煙草がひとつ。赤い瞳を力強く輝かせて、終焉とノーチェを見下ろしている。
 その視線が普段よりも力強く、頼もしく見えたのは気のせいではないだろう。

 真っ青な青空が白い雲の隙間から見え隠れしている。隙間から溢れる太陽の光に、リーリエの金の髪が照らされて小麦畑のように光り輝いていた。

「取り敢えず屋敷に戻りましょうよ。少しくらい、私もお話に付き合ってあげるわよ」

 血生臭いのは嫌でしょう。
 ふふふ、とリーリエは軽やかに微笑む。その顔は、先程まで血生臭さが沸き立っていたこの場所では酷く似つかわしくなくて、――ノーチェは意識を失った終焉の体をぎゅうっと抱き締めた。

 ――風呂を沸かそう。この血生臭さが、この人からなくせるように。


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