泣き虫と青い鳥


23 泣き虫とマルベリー 1



私がこの時代にきてから、5日が経った。
竹箒を一心不乱に動かしながら、私は息を吐く。
学園の敷地は、まだ全部を見たことがないくらい広い。その上スパイの可能性があり、一般人の可能性もある私は、罠などもあって危険だという理由で入ることを許されている区画がとても狭いのだ。だから殆ど毎日のように同じ場所の掃除をしているけれど、自然に囲まれたこの場所は一日でものすごい量の葉っぱが落ちてくる為、仕事がなくなることはない。そのお陰で、私はとりあえず毎日暇をせずに体を動かすことが出来ている。

帰る方法については、何かを思いついたらそれを伝えれば試させてもらえるという形で探していた。けれども思いつくも何も、私は押入れに入って出てきただけなので、押入れに入る以外の方法なんて思いつかなかった。青い狸のような猫型ロボットならば机の引き出しにタイムマシンが入っているけれども、彼らの机は床に直接座ることが前提の為背が低く、引き出しなどもない。あったところで、そこにタイムマシンなんてあるはずないのだけれど。
故に私は結局5日目になった今日まで、最初に試させてもらった『七松くんの部屋の押入れに入れてもらう』以外のことをできていない。中在家くんが関連書籍を探してくれているそうなので、今はそれに賭ける以外になかった。

そんなわけで私は一日の殆どを無為に過ごすことしかできなかった。何もしないのは絶対に嫌だったので、とにかく仕事が欲しいとねだり、私の許された範囲で任せてもらえたのが廊下の掃除と庭の掃除だった。
薪割も振ってもらったのだが、初日に斧が後ろ向きにすっぽ抜けて以来禁止になった。もう少しで善法寺くんに当たるところだったのには本当に肝が冷えた。けれどもおばあちゃん子だったとはいえ、私も21世紀を生きる女子高生だ。薪を割る経験なんて今までの人生で一度もなかった。斧を握ったことすらないことについて責められても困る。

―――今日は、他にも出来ることが増えるといいんだけど。

今日はこの後、中在家くんに料理を教えてもらう約束をしている。時計がないからどれくらいの時間に、という明確な予定ではないのだけれど、掃除が終わってからで良い、と通訳をしてくれた七松くんを介して話をしているので、出来るだけ早く終わらせて食堂へ向かいたかった。薪の割り方も竈の使い方も知らない私は、未だ食事の準備を手伝えないので、専ら洗い物係に徹しているのだ。中在家くんが声をかけてくれたのは、それに心苦しさを感じていたことに配慮してくれたのだと思う。今日の夕食当番が彼なので、そのついでに教えてくれるということだった。

「……」

私は手を動かしながらちらりと庭の隅にある大きな石を見やる。石というか岩に近いそれは、上が少し平べったくて座ったり物を置いたりするのに丁度良い。普段は特に持ち歩いているものもないのだけど、今日は手拭いに包まれた桑の実を置いていた。掃除を始める前、たまたま出会った葉っぱまみれの七松くんからもらったものだ。

『名前!丁度良いところに会った!』
『どうしたの?』
『これをやる!』
『…?木の実?』
『桑の実だ!熟して甘いやつを選んできた!』
『もらって良いの?』
『ああ!その代り、美味い夕餉をよろしく頼む!』

大きな声で笑いながら肩を叩かれて、私は苦笑しながら頷いた。彼は満足そうに頷いて、再び『いけいけどんどーん!!』と叫びながらどこかへ走って行ってしまったのだ。手元に残された包みを開けば、手ぬぐいの中の桑の実は潰れもせず黒い粒粒とした丸い実を輝かせていた。あんなに勢いよく走ってきたのに、とそれに驚いたと同時に、少しうれしくなった。

七松くんは不思議だ。
最初に出会ったのが彼だからか、同室の中在家くんと共に事あるごとに世話を焼いてくれるからか、はたまた裏表のなさそうなその雰囲気の為か、どことなく安心感がある。けれども、くりっとした真ん丸の大きな目は何を考えているのか分からない時もあって、おいそれとこちらから近づけないようにも思うのだ。

―――もう少ししたら、休憩にして食べよう。

桑の実なんて久々だった。英語ではマルベリーというのだっけ。不思議なほどに遠くなってしまった元の生活のことを思い出して、私は眉を顰めた。おばあちゃんちの庭に生えていて、小さい頃はよく摘んで食べていたものだった。赤い実と黒い実があって、黒い方が熟して甘い。けれどもほんの少し赤みが残って甘酸っぱい実も、私は好きだった。
そこまで考えて、私は大きく頭を振った。あまり考えてはいけない。それは、私にとって良くない結果になる。

かさり、と微かな音がしたのはその時だった。
私の箒の音ではない。タイミングが違った。忍者の人達はみんな足音を立てないので、いつも唐突に現れるし話しかけられてびっくりすることが多い。何だろう、と何気なく振り返った。
視線の先は件の大きな石だった。手拭いが乗っているはずのそこに、あまり見たことのない生き物がいた。多分、狐だと思う。本物の狐をこの距離で見たことがないので自信がないけど、狸でも狼でもなさそうだった。

その狐は口に手拭いを咥えていた。私と目が合うとぴくりと体を震わせて一瞬動きを止める。突然の野生動物の登場を予測していなかった私も動きを止め、つぎの瞬間声を上げた。

「それ…ッ!!」

しまった、と思った。思ったよりも大きな声に驚いた狐が、くるっと踵を返し走りだしたのだ。反射的に竹箒を手放した。七松くんがくれた桑の実。おばあちゃんちと同じ。
何かを考えるよりも前に足が動いた。私はその場を駆け出して、狐を追いかけたのだった。




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