「そういえばオリヒメは、私やウルのこともちゃんと見えるのね」

部屋の中にたった一つだけ置かれたソファの上に隣り合って座っていた。靴を脱いで膝を抱える私の隣で、オリヒメは不思議そうに首を傾けた。

「見えるよ。どうして?」
「ふつうの人間は私たちのこと見えないんでしょう?」
「あー、なるほどなるほど」

彼女は上を向くようにして少し考えてから、あのね、と人差し指を立てた。

「普通の人間は、確かに虚も死神も見えないよ」
「じゃあ、オリヒメは普通じゃないの?」
「うーん、普通じゃないと言えば普通じゃない、かなあ」

切り返す私の質問に困ったように眉を下げながら、彼女は立てた人差し指を顎に当てる。表情がくるくる変わって面白い。改めて考えてみれば、あまりこういう人は虚夜宮には居なかったのだ。ギンはいつも笑っているし、それ以外の人達は大抵私に対しては面倒そうな顔をする。そうでなければハリベルやウルのように元々の表情に乏しい人も多かった。

「ナマエちゃん、私の霊圧わかる?」
「うん。あったかい」
「あったかい?」
「破面の霊圧は冷たいんだよ。死神もちょっとあったかいけど、オリヒメが一番あったかい」
「そうなの?」

彼女は小さく首を傾けた。実際に霊圧に温度があるのかと聞かれれば私も首を傾けざるを得ないのだけれど、私の知っている感覚の中で一番近いものが温度だと思う。上手く言えないけれど、いつかギンにも同じような話をしたときに首を傾げられたから、私にしか分からない感覚なのかもしれなかった。

「霊圧がどうしたの?」
「あ、そうそう!あのね、普通の人には霊圧はないんだよ」
「そうなの!?」
「うん。それで、霊圧のない人はナマエちゃんや死神の姿が見えないの」

話を聞きながら私は「はー」と唸った。ずっと前にチルッチが言っていた、美味しい人間と美味しくない人間の違いはそこだったのか。霊圧の高低は力の差だし、高い方が強い分美味しいのだろうとは思っていたけれど、まさか殆どの人間に霊圧がないだなんて思いもしなかった。じゃあ人間は普段他の人の気配をどうやって追っているのだろう。普段霊圧に囲まれている生活をしているから、それを感じない世界なんて想像もできなかった。

思い返してみれば確かに、現世は霊子が薄かったように思う。緊張していたから息がしづらかったのだと思って気にしていなかったけれど、霊圧を持つ者はそれを消費する度に霊子が必要になる。あれでは現世にいる虚はさぞお腹が空くだろう。そこまで考えて私は眉を顰めた。だから虚は人間を襲うのだと、初めてそれを理解したのだ。

―――でも、

そういえば現世で会った彼には霊圧があった。小さかったけれど、確かに感じたと思う。あれはどちらかといえばそもそも霊圧が低いというわけではなくて、ギンやカナメや藍染サマのように普段から霊圧を低く抑えているというような感じだった。

『人間でも死神でも虚でもないやつ』

彼は確かにそう言っていた。私と同じだと。けれど彼は破面ではなかった。破面は仮面を剥がれてはいるけれど、どこかにその名残を持っているのだ。私もチルッチもウルキオラも頭の上に仮面の欠片があるし、ハリベルやグリムジョーは口元に残っている。けれども彼にはどこにもそんなものなかった。霊圧も、私の知っている破面とは少し違う。だから彼は破面じゃない。

「現世には、死神でも人間でも虚でもないものがいるの?」

思いついた言葉を、ぽつりとそのまま零してしまった。私の言葉にオリヒメは不思議そうな顔をしてから、うーんと唸る。私ははっとして首を振った。私が現世に行ったことは秘密にしなければならないのだ。彼女からウルキオラや藍染サマに伝わっては困るし、何よりここは牢獄だ。彼女が全くの監視なしでここにいるとは思えなかった。

「あ、あのね!深い意味はなくって、ただ、現世って行ったことないから」

彼女はきょとんとしてから「そっか」と笑ってそれ以上言わなかった。私はそれにほっとしてソファに身を預ける。目を閉じると、あの時の金色が目に浮かぶようだった。あの金色が何者なのかなんて知らないし、知らないままでいい。どうせもう二度と会えないのだ。
なのに、会えないと思う度に勝手に痛む胸が不思議だし嫌だった。

「ねえ、オリヒメ」
「うん?」
「こころって、なに?」

私の唐突な質問に彼女は目を丸くした。私はソファに寄りかかったまま体ごと横向きにして彼女を見た。彼女は私をじっと見てから、どうして?と静かに訊ねた。

「私達にはこころがないの」
「…そうなの?」
「ギンが言ってた。虚は穴の開いてたところにこころがあったんだって。でも、穴が開いた時になくなっちゃったんだって」
「…そっか」
「こころってなに?大事なもの?」

オリヒメは困ったように笑って、自分の胸元に手を当てた。月の光に照らされて、それはひどく神々しい風景に見えた。

「こころはね、嬉しいと思ったり悲しいと思ったりするところだよ」
「………」
「嬉しい時はあったかくなるし、悲しい時は痛むときもあるの」
「痛む?」
「うん。…ここが」

オリヒメは自分の手のひらを当てた胸元に視線を落とした。私はその場所をじっと見る。それは私が最近よく痛む場所と殆ど同じところだった。
私は自分の胸に視線を落として、彼女が示した場所と同じところに手を当てた。布越しに伝わる空白の存在が、そこに穴があることを教えている。

「でも私には、ナマエちゃんにこころがないようには見えないけどなあ」

オリヒメはそう言って小さく笑った。私は彼女の笑顔と自分が触れた場所を見比べながら、首を傾けた。

「私のここには、何にもないよ」
「そうなの?」
「ここに穴が空いてるの。だから、私にはこころはないんだと思う」

言いながら、私は首元の金具に触れた。小さなそれをつまんでおろすと、じーという微かな音とともに肌が露わになる。真ん中に空いた黒い穴を見て、彼女が息を呑む音が聞こえた。私は自分からは見えにくいその穴を見下ろしてから、再び金具を元の位置まで上げた。この穴は、私が虚であるという証拠で、こころがないという証拠でもあった。

―――なのに。

それがいつからかなんて、考えるまでもないことだった。ずっと瞼の裏から消えない金色のせいだ。でもそれがどうしてなのかは分からなかった。ただ痛いだけ。何でそこが痛むのかなんて考えても考えても分からなかった。そもそもないはずのそこが痛むなんておかしな話だ。

俯いて押し黙った私を覗き込むように、オリヒメは少し体を前に傾けた。ほんの少し距離が近くなって、触れる霊圧が温かみを増す。いっそあの金色の霊圧がこんな風に居心地の良いものであったなら、離れがたい理由だって想像出来たのに。ぎゅっと胸元を掴んだ私に、オリヒメは「痛いの?」と静かに訊ねた。頷くことはできなかったけれど、彼女にはそれで伝わったようだった。

「…忘れたいのに、忘れられないものがあるの」
「…うん、」
「もう二度と会えないんだよ。だけど、消えない」
「そっか、」

ぽつりぽつりと零す私の感覚的な言葉を、彼女は一つ一つ拾って頷いてくれた。それだけでなぜか、泣きたいような気持になった。
ギンには言えない。チルッチにも、シャルロッテにも。こちらの人には絶対に言ってはいけないこと。私が生きていくために。ギンの傍にいるために。

オリヒメは私の頭にそっと手のひらを乗せた。優しく髪を撫でられて、私はぎゅっと手のひらを握った。

「ナマエちゃんは、その人のことが好きだったんだね」

彼女の言葉は静かで優しくて、私は撫でられるままに目を閉じた。

―――ああ、そうか。

たった一度話しただけなのに、こんなにもあの金色と離れがたいのは。

ギンやチルッチやシャルロッテと離れがたいように、私はあの金色も好きになってしまったのだ。

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