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▼ 呼ばずとも春は来る

「コーンニチワー」

ノックもせず無遠慮に開いた扉の音と同時に、間延びした挨拶が響く。きょろきょろ辺りを見回した三白眼は、慣れっこで反応もしない私を見て少しだけ首を傾げた。全く同じタイミングで首を傾けた私は、鏡のようなその動きに思わず笑ってしまった。笑われた三白眼は少々不機嫌そうに眉を寄せる。

「何や、苗字一人か」
「ええ、皆出払ってしまって」
「喜助に用があってん」
「それを猿柿副隊長から聞いて、隊長は先程五番隊舎に向かわれましたよ」
「ハァ?」
「お会いしませんでした?」

憮然としたその表情から、どうやらすれ違ってしまったらしい。「あいつ余計なことしよってから」と悪態をつきながら、平子隊長の眉間の皺が更に増した。
浦原隊長が出かけたのはつい20分ほど前のことだ。その少し前に丁度隊舎を出るところだった猿柿副隊長が、そういえば、と零したのがきっかけだった。猿柿副隊長のそれも別の誰か―――多分久南副隊長かその辺りが言っていたのを聞いたという風の噂レベルらしかったけれど、それでも隊長が自分も用があるから丁度良いと言って席を立ったのが25分前。その後およそ5分間、書類は終わっているのか、今日締め切りの書簡はどうなったのかという私の詰問を交わし続け、困った顔で笑いながら彼は「ちょっと行ってくるッス」と部屋を出て行った。「ちょっと」の部分を強調しながら。

平子隊長は大げさに一度ため息をついてから、後ろ手に扉を閉めて部屋に入ってきた。そうして堂々と真ん中にあるソファに腰掛ける。質の良い布張りのそれが大きく軋んで音を立てた。背凭れに両腕を乗せて、「邪魔すんで」と低く呟く。

「お待ちになるんですか」
「今戻ってまァたすれ違ったら嫌やからな。どーせあっちもおんなしやり取りして戻ってくるやろ」
「同じやりとりをしてるなら、浦原隊長も平子隊長と同じように向こうで待たれるんじゃ」
「あいつは戻ってくんで。俺と違て隊舎に愛着持っとるからなぁ」
「はあ」

呆れた表情で言われた言葉に妙に納得した。確かにうちの変てこな隊長は隊舎に愛着を持っている。改造してしまうくらいだし。
私は一度筆を置いて席を立った。隊長が戻るまでどの程度か分からないが、平子隊長が暫くここに居るのならお茶くらい出さねばなるまい。この人はよく十二番隊に遊びに来るので、専用の湯呑を置いてある。部屋の隅にあるお茶セットのところで茶器を弄りながら、浦原隊長が作った湯沸かし器に火を入れた。

「んで?苗字サンは留守番なん?」
「はい。たまたま色々重なってしまいまして」
「色々?」
「十席以下は任務で出払っています。六席から九席は涅三席のお使いですね。猿柿副隊長は副隊長の招集がかかって」
「そんな人手足りん中アイツお前だけ置いて出たんか」
「私達の仕事はそんなに溜まってないんですよ。溜まってるのは」

目線だけで隊長の席を示せば、山積みになった書類を見て平子隊長が笑った。首を竦めながら、私は音を立て始めた湯沸かし器を眺める。浦原隊長には部屋を出る前の5分の詰問の間に、帰ったら書類が終わるまで部屋を出ないことを約束してもらっている。そもそも本気を出せばこんな書類溜めるまでもないはずなのに、その本気になるまでが彼は非常に長い。それ故十二番隊では猿柿副隊長の怒鳴り声は日々止むことを知らない。
けれど、私はそれが十二番隊でのみ行われているやり取りでないことを知っている。眼鏡をかけた優しげな瞳が、困ったように細められるのを何度見たことか。それでも書類仕事を得意としない私達十二番隊と違い五番隊の彼は頗る優秀だから、この程度の書類なら一人で処理してしまうのだろう。

「平子隊長はお仕事大丈夫なんですか?」
「ダイジョブダイジョブー」
「…ほんとですか?」
「ホントホントー」

この大丈夫は大丈夫じゃない大丈夫な気がする。
というより、浦原隊長と同じく彼も仕事が終わっていることなんて殆ど無いのだ。隊長の仕事というのは私達に処理出来るものよりもずっとずっと多い。書類についてだって最後は隊長の判が必要なものが大半だし、それを一々確認しながら捺さないとしても―――浦原隊長は確認していないように見えてその実きちんと読んでいることがこの前判明したのだけれど―――膨大な作業量だった。猿柿副隊長も私も一生懸命お手伝いはするけれど、副隊長は特に隊長の笑顔を見てくるとイライラしてくるようで、ギリギリの修羅場で「もうやったらん!!」と出て行ってしまうこともしばしばある。

「…………」

少し考えて、私は蒸気を吹き始めた機械から離れソファに歩み寄った。骨がないのかなと思うくらいぐにゃんと体を預けた平子隊長を、背凭れの後ろから覗き込む。

「ほんとに、大丈夫ですか?」
「………」

平子隊長は体を預けたまま私を見上げて口を三角みたいな形に小さく開けた。煩わしそうに眉間に皺が寄っている。けれども特に何も言わずに考えるような視線を漂わせて、暫くしてから私をもう一度見上げた。そうして、突然後ろから覗き込む私の肩を両手でぐっと掴んできた。

「え?…きゃっ!」

突然のことで対応が出来ない私の体は簡単に宙に浮いた。ぐにゃぐにゃした体のどこにそんな力がという勢いで、彼は私を引っ張り上げたようだった(本気を出したナマケモノは速いという話が咄嗟に頭を過ぎった)。ドサリと落ちた場所は彼が座っていたソファの上で、何が起きたのかと瞬きを繰り返していると頭上の明かりが遮られた。顔を上げると、いたずらっ子のような顔で私を見下ろす平子隊長の姿があった。

「そない仕事仕事言いなや」
「だって、」
「隊長サンの言うこと聞けん奴はこうやで」
「は?え!?」

尻餅をついた体を支えるようにソファに置いていた両腕を、万歳のように持ち上げられた。反抗するよりも先に彼の左手がそれを一つに纏めて縛り上げる。嫌な予感しかしない。というか隊長は隊長だけれど平子隊長は私の隊長じゃないし、いやでもこの場に隊長格がこの人しかいないのなら緊急時は確かに指示を聞くべきなのかもしれないけれども、でも今は緊急時じゃないし。

「苗字サン脇腹弱そうやんなぁ」
「え!?」
「足の裏とかでもええねんけどなぁ」

手の拘束を逃れようと身を捩るも、本当にどこにそんな力がというくらいの馬鹿力で押さえられて身動きが出来ない。仮にも隊長格を蹴っ飛ばすわけにもいかないし。けれども右手をわきわきと動かしながら怪しく笑う平子隊長を見ていると、そうしても許されるような気もする。
如何にもくすぐったそうに右手が近づいてくる。焦らすように近づいてくるその手が今にも体に触れそうで、私は必死に身を捩った。

「やだ…っ、平子隊長やめ…っ!」
「ええ声で啼くやんか」
「…っ隊長ー!!隊長ここに変態がー!!!」

耐え切れずに大声を上げると同時に、執務室の扉がスパァン!と勢いよく開いた。ああ、この開け方は猿柿隊長だ。良かった。止まった平子隊長の右手を注視したまま涙目で私は細く息をつく。けれども怒鳴り声も飛び蹴りも何も飛んでこなくて、すぐに私はそれが彼女でないことに気がついた。彼女ならこの状態を見れば一も二もなく平子隊長を蹴り飛ばしてくれるはずだ。きょとんと瞬いている間に、押さえつけられていた手首がふっと軽くなった。景色が少しだけ動いて、私の手を強く握る温かい手のひらに再び涙目になる。

「何してるんスか平子サン!」

珍しく怒った声で言う浦原隊長に、平子隊長はひらひらと手を振りながら首を竦めた。

「苗字が仕事仕事言うねんもーん」
「それはボクの部下を襲う理由にはならないッスよ…!」
「襲っとらんで。ちょっと仕置にコチョコチョしたろ思うただけやで」
「は?」
「喜助が戻ってくんの知っとったしからかってやろう思ただけや」

ハァー、と大げさに溜息をついて両手を上げた平子隊長を呆然と見ていると、目が合って口端が持ち上げられる。それで、彼が本当にからかうつもりだったのだと分かった(ただし浦原隊長の登場が少しでも遅かった場合絶対にくすぐられていたと思う)。
平子隊長はよっこらしょ、とおじいちゃんみたいな掛け声と共にソファから立ち上がった。パタパタと羽織の裾を治して、いつものように気怠そうな感じで腰を伸ばす。

「んじゃ、俺は帰るわ」
「え?だって平子隊長、浦原隊長にご用事が」
「喜助がそんな調子じゃ話にならんわ」

出直すで、と言って、彼は再び大きく伸びをした。そして来たときと同じく軽い調子で「じゃ」と手を振って、扉から出て行ってしまった。
右手で私を抱えるようにしていた浦原隊長の緊張がとけたのが分かった。向き直ってお礼を言おうと思ったけれど、お腹に回された腕が一向に外されないので、私は彼の表情を見ようと上向いた。同時に彼が大きく息を吐きながら私の肩に額を乗せたので、びくりと体が飛び跳ねた。

「あ、あの、浦原隊長?」
「…ちょっとこのままでいさせてください」

浦原隊長の柔らかい髪の毛が首筋に当たってこそばゆかった。けれども彼が本当に心底疲れたように息をするので、私は抗えず真っ赤な顔でそのままにしているしかなかった。
ピーとかけっぱなしだった湯沸かし器が鳴いている。彼に触れている肩が同じくらい熱い。

この後同じく用事を終えて帰ってきた猿柿副隊長に彼が飛び蹴りを喰らうのはたった2分後のことだった。


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