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薄い膜で包まれたような微睡みの中で漂っていた。瞼を閉じているのに周りが明るい。ゆらゆらと揺れる微かな振動が更に眠気を誘ってくる。暖かくて、ずっとこのままこうしていたかった。

そんな私の世界の静寂を破ったのは、聞き覚えのある怒鳴り声だった。

「喜助エェェェェ!!!」

廊下を滑るようなブレーキ音に続いて、スパァン!と跳ね返ってきそうなほど大きな引き戸の音が響く。ああ、この声は猿柿副隊長だ。目を閉じたままぼんやりと私は考える。
きっとこの声音からして、今副隊長の額には青筋が立っているだろう。また涅三席が何かしたのだろうか。それとも平子隊長とかもっと他の人が原因で、怒りのぶつけどころを探しているのかもしれない。うちの隊長は穏やかだから、何かと乱暴な副隊長にやられっぱなしだ。それが賑やかな日常風景として既に馴染んでしまっているのだからおかしな話だと思う。けれど、それが成立してしまうこの隊が私は好きだった。

「どうしたんスか、ひよ里サン。騒がしい」
「どうしたもこうしたもないわボケェ!!」

呆れたような拍子抜けする声で隊長が言う。その言葉に被せるようにして噛み付いた猿柿副隊長の声と、ほぼ同時にダン!と鈍い音がした。この音も聞き慣れている。副隊長が机に思い切り手をついた音だ。それがあまりに大きな音だったので、私は反射的に少し眉を顰める。慣れているということと、だから大丈夫だということは話が別だ。

机越しに同じように眉を顰める隊長と、荒い息で今にも飛びかかりそうな副隊長。ぼんやりした意識でも、その光景がはっきりと目に浮かんだ。この後副隊長は発生した出来事について隊長に大声で訴えるだろう。そうして最後には隊長の頭をひっぱたくか、そうでなければ腰に鋭い蹴りが飛ぶのだ。決して手加減している様子のないその姿を思い出して、私はほんの少し眉を下げた。そういう攻撃を受けても、隊長自身は全然平気なのだ。ただ、見ている側は痛いし思い出すのも痛い。何とか止められないかしら、とぼんやり考え始めた私は、続いた猿柿副隊長の言葉にその思考を止める。

「今すぐ香波を何とかせえ!!」
「は?」

は、と声が漏れたのは多分浦原隊長だけではなかったと思うのだけれど、何故だかくぐもった私の耳は自分の声を拾えなかった。おや、と首を傾げようとしたけれど、体が重くて億劫だ。指一本動かすのさえも面倒だった。だってここはこんなにふわふわしていて気持ちが良いんだもの。もう少し眠っていたい。

「涅に一服盛られてん!!」
「人聞きの悪いことを言わないでくれたまえヨ」
「事実やろが!」

いつの間にか、涅三席も同じ場にいるようだった。というよりも、最初から部屋にいたのだろうか。もしかしたら猿柿副隊長と一緒に入ってきたのかもしれない。うんざりとしたような声で返ってきた言葉に、副隊長が更に激昂する。ああ、首を竦めている涅三席も目に浮かぶ。

「只の睡眠導入剤だヨ。しかも希望したのは本人ダ」
「只の睡眠薬が飲んだ瞬間あないパッタリ倒れるわけないやろハゲコラァ!」
「君はもう少し静かに話すということができんのカネ…?」
「誰のせいでこない大声出すことになっとんじゃボケェ!」

話題の中心はどうやら私のようだった。けれども理由がよく分からない。ぼんやりとした思考の中で私は首を傾げる。
ここ最近、あまりよく眠れていなかった。原因を追究するのであれば、それは恐らく夏バテというやつだ。今年の春はあっという間に過ぎ去って、時期としてはまだ初夏になるかというところなのに、既に気温は完全な夏だった。しかも中途半端に残った梅雨のせいで連日熱帯夜。布団に転がっているだけで汗だくになり、眠る気にもなれず夕涼みに外に出てもべったりと纏わりつく空気に嫌気が差して部屋に戻るの繰り返し。
そうこうしているうちに眠気に抗いきれず落ちてくる瞼と、寝苦しい空間との板挟みになること数日。もう少しで梅雨は抜けるだろうけれど、私が睡眠不足で仕事に不調を来す方が先ではないかと不安になっていた。そんな最近。

「ええからとっとと香波起こしや!」
「勝手に飲んだ人間にそんな面倒掛けられる義理はないヨ」
「お前が試しに飲んでみぃ言うたんやろがァ!ウチが聞いてへんとでも思ったかこの妖怪白玉団子!」
「……涅サン、何を飲ませたんスか?」
「先日完成した例の薬だヨ。何か文句があるカネ?」
「四番隊に頼まれてたあれッスか」

うーん、と何か考えるように浦原隊長が唸る。どういう理由かはいまいちわからなかったけれど、どうやら迷惑を掛けているのは私のようだった。それが申し訳なくて眉が下がる。けれどもその申し訳無さも、ふわふわと漂う心地良い眠気に押し流されていって、私はすぐにまたぼんやりとした意識に漂った。ここ数日の寝苦しさが嘘のような心地よさなのだ。もう少しこのままふわふわしていたかった。浦原隊長への申し訳無さと、この抗いがたい空間との狭間で私は揺れる。そのふらつきを止めたのは、浦原隊長の一言だった。

「ここはやっぱり口付けしかないッスかね」
「は?」

今度漏れた「は」という声は、隊長ではなくて副隊長の方だった。私はその衝撃的な一言に、声も出せず固まっていた。ふわふわと漂っていた空間が固定されていく。背中に触れている柔らかな感触が少しずつ戻ってくる。

「何言うてんねん突然…!」
「おやァ、ひよ里サン『眠り姫』ご存知ないんスか?」
「何やねんそれ」
「現世のお伽話ッスよ」
「知るかハゲェ!おかしなこと言っとらんと香波何とかしいや!」
「まぁ聞いてくださいって。そのお話だと魔女に呪われて眠っちゃったお姫様を口付けで目覚めさせるんス」
「アンタまさか……」
「だからここはもうボクが行くしかないかと」
「ふざけんなコラハゲェ!!!」

猿柿副隊長の怒号と、「止めないでくださいひよ里サン!」と何故かやる気満々の浦原隊長の声に、急速に現実に引き戻されていく。大声でのやり取りの後ろで「やれやれ、私は魔女扱いカネ」と呟いている涅三席の声が聞こえて、冷静にそこまで聞こえている自分が何だかおかしかった。ついさっきまでふわふわ漂っていた空間が遠い。だって、もしもこのまま目を閉じていたら。

そこまで考えたところで、頬に触れた温もりに五感がはっきりと戻ってきた。ぱちりと開いた視界いっぱいに、浦原隊長の顔と青筋を立てた猿柿副隊長の顔が映る。

「…っ香波!目ェ覚めたんか!」
「猿柿副隊長」
「おはよッス、香波サン」
「浦原隊長」

やー惜しかったッスねェ、なんて笑っている隊長が速攻で猿柿副隊長に蹴っ飛ばされる。その後ろで我関せずの涅三席が首を竦めていた。その姿を見て、思い出した。

『何や顔色悪いんちゃう?』
『うーん。最近眠れないんですよね』
『それならいいものがあるがネ』
『いいもの?』
『一粒飲めば立ち所に眠気も睡眠不足も解消する優れ物だヨ』
『はぁ』
『ま、試しに飲んでみたまえヨ』
『あかん、香波やめェ!』

猿柿副隊長を押しのけるように涅三席に渡された薬を、流石に毒薬を飲まされることはないだろうという適当な判断で飲んだのだった。その瞬間から世界が遠くなって、気がついたらふわふわした空間にいたのだ。

猿柿副隊長にボコボコにされながら、浦原隊長が笑った。

「その薬、精神的な刺激を与えると目覚めるんス」
「!」
「疲れはとれたッスか?」
「………取れました、けど」
「それは良かった」
「香波!その変態に近づいたらあかんで!」
「いやー、あとちょっとだったんスけどねェ」

笑いながら言う隊長が後頭部に飛び蹴りを受けて前に転ぶ。息荒くその背を踏み続けながら、猿柿副隊長が散々罵声を浴びせていた。それを宥めながら、私は足蹴にされた浦原隊長の元にしゃがみこんだ。浦原隊長は顔を上げて、悪戯っ子のような笑顔を浮かべた。そうして、耳元に寄せられた唇に私は再び固まる。

「次にその薬を使う時は、もうちょっと寝ててくださいね」

次の瞬間、隊長は再び飛び蹴りを受けて床にめり込み、涅三席は溜息をつきながら場所を移動し、私は熱くなった頬を押さえて小さく「隊長のばか」と呟いた。