これは悪い夢だと思いたかったけれど、残念ながら痛みも感覚も触覚も嗅覚も味覚もある。これは現実だと、夢ではないと。周囲の音が遠くなって、身体の末端から冷えていくような感覚。今までに対峙してきた敵たちはこんな気分だったんだ。サンジに睨まれるって、こんな感じなんだ。「帰れよ下級海賊ども」よく似た声の人かと思ったけれど、目の前にいる彼の口が動いているから、喋っているのは間違いなく彼なんだなと思うと、心臓の近くが痛んだ。彼はどうやら、私じゃない女と結婚するらしい。散々好きだとか愛してるとか結婚しよう挙式はいつにするだとか言っていた男が。ふーん。はいはいいつものいつもの。と流していたのは確かに私だけれど。分かっている、冗談を真に受けた私がばかだと。彼の人間性を、普段の言動を見て知っておきながら彼を好きになって告白を受けたのは、他でもない私だからだ。

「そこの女も…悪かったな、……名前、も…思い出せねェが…」

 絶対嘘だ。へたくそが過ぎる。底抜けに優しいから、傷つけるのが得意じゃない癖に。無理に嫌な事言おうとするな。傷つけて遠ざけようとするな。ああ、でも「特別に好きな子には特別優しくしてェんだよ」と笑っていた姿をふいに思い出して、手のひらに爪を立てた。ふーん。そう。す、と自分の顔から表情が消えたのがわかる。喉は張り付いたように声が出ないし、足にも根が生えてしまったみたいに動けない。けれど頭だけはフル回転しているような。そんな私にナミが声をかけてくれるけれど、首を彼女の方へ動かすこともできなかった。だれか私に油を差してくれ。返事をしない私の隣にいたナミはつかつかと彼の方へと向かうと平手打ちをした。乾いた音にようやく、糸が切れたような感覚に、震えるナミの声が聞こえる。「ナミさん」にはたかれて尚、彼は何も言わなかった。彼をひっぱたいてこちらへ戻ってきたナミに行きましょう、と腕を引かれた時にやっと、「あ」と声が出た。私の声に一度ナミは足を止めてくれて、ようやく私は彼に言葉を放つ。「うそつき。できないこと言わないでよ」はっと目を見開いたかと思うと、一瞬何かを言おうとして、やめたようだった。傷ついたように悲しそうに眉を下げて、結局何も言わずに私たちの前から姿を消した。

「アンタ大丈夫なの?」
「あんまり大丈夫じゃないかも」

 弱音や泣き言よりも自然に笑顔が出てしまうくらいにはだめだと悟った。感情が狂ってしまった。言葉一つでここまでになっちゃうくらいには彼の事が好きだと思った。あーあ、涙も出ないや。しかし幸か不幸か、今の目的はビッグ・マムのお茶会を阻止すること、それと彼を奪還すること。だだっ広いホールケーキアイランドやらあちらこちらを走り回り戦うことに必死で感傷に浸らずに済んだのはよかったと思った。
「あの男はここで死ぬんだ」やっぱり彼は女を見る目が無いなと目の前の婚約者だという女をみて思う。私とか、この女とか。「私がお前を殺してやるよ、人の男に手出ししてタダで済むと思うなよクソ女が!」生まれてはじめて心の底からの殺意と憎悪を人間に向けた。しかし足をばたつかせるも拘束されているせいでリーチは限られている。私が反抗するとは思わなかったのか、一瞬女は怯んだもののすぐにひょいと避けて見せた。状況はあちらが有利な事に変わりはない。すぐに調子を取り戻すと私を鼻で笑い、ルフィとナミに向けて態とらしく今まで見せてきた姿で「さようなら」と告げて牢を出て行った。「……アンタのそんなところ、初めて見たわ」ナミの声にはっと我に返る。「サンジ君に聞かせてやりたいくらいよ」そんな事言わないでよナミ。私のこんな醜い所、彼に知られたくないよ。だってこんなのは、「きれいで可愛くてやさしいレディ」じゃないもの。無言で首を横に振って、会話を終わらせた。

▲▽

 「もう会う事もねェだろう」はずだった彼と再会した。みんなと会話をしていた私の口が貝のように閉まって、嫌な態度ばかりをとってしまう。可愛くない。会いたくなかったと言ったら嘘になるが、かといって今会っても戸惑うだけだ。タイミングが悪いなあと溜息を吐くと、視界の端で赤いマントを羽織った肩がびくりと揺れた。

「なまえちゃん」
「私の名前、思い出せたんだ?」
「……傷つけてごめん。きみの名前を忘れるなんてありえねェから、安心してくれ」
「別に不安になんてなってませんので」

 彼の顔が見れない。顔を背けて彼よりもひどいことばかり吐く口は止まらない。「あのかわいい女と結婚して幸せになるんじゃなかったんですか」「ならないし、なれねェよ。おれは、ここで幸せには、なれない。なまえちゃんがいないとなれない。なあ、頼むよこっちを見てくれ。話がしたいんだ」「それは今話すべきことですか?そんな場合じゃないと思うんですけど」
いつの間にかみんな気を使ってくれたのだろう、他の皆はすこし距離を置いたところに固まっていて、申し訳なくなる。最悪、最悪だ。こんな。

「今伝えるべきことだ。怒ってるよな、そりゃあ当然か。ただあの時はどうしても仕方なくて」
「なんで私に言い訳するんですか?それを伝えてどうしたいんですかね!?」

 やり場のない感情が言葉に乗ってしまった。勢いに任せて顔を上げると彼は、サンジはやさしく眉を下げて安心したように「良かった、やっとこっち見てくれたな」と緩く笑った。
 久しぶりに直視した顔は、少しやつれたように見えた。バカだ、なんでこんなわがままで醜いどうしようもない女の機嫌を取ろうとするんだ。こんなひどい顔を見ないで欲しいのに、一度見てしまえば目が離せなくなってしまった。悔しい、いやだ、むかつく、さいあく。負の感情ばかりが浮かぶ、やっぱり私は嫌な女だ。堰を切ったように涙があふれてきてくやしい。恥ずかしい。その長い脚でいとも簡単に数歩距離を詰めてきて両手で私の顔をすくいあげた。近い、最悪だ。やめろばか。

「見んな」
「おれのせいで泣かせてごめんな。謝っても謝りきれねェよ……だけどそれでも、おれはきみの隣にいたいんだ。だからもう一度告白させてくれ。おれをきみの男にしてくれないか」
「話をきけ」
「好きだよ、好きだ。結婚なんてなまえちゃんとしかしたくねェよ。もうすっかりなまえちゃんじゃなきゃだめな身体になっちまって」
「女の趣味が悪い」
「そうかい?世界一いいセンスだと思ってるが……。なんせ告白してる相手は世界一の女の子なんだから」
「頭も悪い」
「恋の前には皆バカさ」
「何考えてんの」
「なまえちゃんのこと」

 ああ言えばこう言う。ゆっくりと大きな手のひらが頭を撫でた。それに合わせて煙草の香りがゆらめいて、ずいぶんと懐かしい気持ちになってしまった。「なまえちゃんが言ったんだろ、できない事いうなって」穏やかな声で、とびきり甘いまなざしで見つめながら話をするサンジにはどこか見覚えがある。ああそうだ、同じベッドで一緒に朝を迎えたときだ。「他の女の子と結婚なんかできない。なまえちゃんをあきらめることなんかできない。な?できないだろ、だからもう言わないよ」親指で私の目元を拭われて、言葉も見つからなくて、されるがままになって。視線を逸らすとゆっくりと体が引き寄せられかけたたところで、思い切り腕を突っ張って距離をとった。

「え」
「……他の女のために着た服で、そんな甘ったるい匂いさせて……他の女を抱きしめた服で私を抱けると思うな。一時的に身だしなみを整えたって、今までの服に着替えるまで私にさわんないで馬鹿サンジ」

 どろどろに濁りきった感情を精一杯濯いでも、これが限界だった。かわいくない、最悪の女だ私は。だけどそれでも、今の言葉は間違いなく本心で、そんなヒラヒラしたの似合わないんだよ、あなたには。いつものスーツで、あの船にいるあなたじゃなきゃ嫌なんだ、私は。そんな私を見てぱちくりと瞬きをするサンジは徐々に表情を崩すと、それはそれは幸せそうに笑っていうのだ。「世界一可愛い女の子は口説き文句も世界一だ」何を言うんだ、この世界一愛しいバカったら。だったらまずは、明日に迫った結婚式をぶち壊すところからはじめよう。
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