「待って、待って伊之助。」

なまえが何度待ったをかけたって、少し前をずんずんと勇敢に進んでゆく伊之助。「ほんと、体力ねえな。」となまえに対し、彼にしては軽めの暴言を吐くだけだ。足元をなにか、ネズミ位の大きさの生き物が横切って行った気がして、なまえは、ひ、と固まって、泣きたくなる。それに気が付かず伊之助は、道なんて優しいものはない森の中を、かきわけて進んでゆく。少しでも彼と離れるのが怖かったなまえは、殆どジャンプをするようにして走り、伊之助の後を追った。

事の発端は、なまえが伊之助に海が見たいなんて無茶を言ってしまったせいである。伊之助となまえは、高校生のカップルらしい、心ときめく!なんて言葉とは無縁の、デート(デートに分類していいのかすら怪しい。だって、目的地までは大体走って競争したりする。)を重ねてばかりだ。たまには、海を二人で眺めてくすぐったい気持ちになったり、スカートの端を軽く持ち上げて、水の中に足をいれる自身の太腿を伊之助に見られたい、とか、思ってしまうのだ。青春!と心の中でガッツポーズできるような思い出を、彼と作ってみたいのだ!

「そこにでかい蜘蛛の巣あるぞ。」

なのにどうして、こうなってしまうのか。なぜ、山なのか。言われた通り素直に、屈んで蜘蛛の巣を避ける自分が、とてもかわいそうな女子に見えた。靴下にオナモミのひっつき虫が、たくさんついているし、今通りすがった謎の蔦には棘がびっしりと生えていて、なまえの手の甲をちくりと刺激した。

これが私の青春だ。

「なんでだよっ。」

そしてこの状況にツッコミを入れるのも、自分しかいない。とても悲しかった。

「?」

珍しく伊之助が振り返ってこちらを見た。助けを求めた時には一切振り返らないくせに。なんだ。なんなのだあいつは。キッと睨みつけてみても、先にはとんでもない美形がいるだけなので、僅かに膨らんだ胸中の不満は、しゅるしゅると、すぐに消滅する。そしてその顔が見られるなら、場所なんてもうどこだっていいんじゃないかという気がしてくる。我ながら面食いがすぎる思考だ。

「着いたぞ。」

天に高々と伸びる木の本数が、段々と少なくなって、伊之助が立ち止まる。ぱきぱきと細い枝を踏みながら、なまえは軽く息を切らせて伊之助の隣へ並んだ。

「ああもう、やっと止まってくれた。」
「見ろなまえ。」
「え。」

彼の指を辿って、先を見る。

「え!?」

大きな池が、透き通ってそこにある。木の、葉の間からうまくぬけてきた太陽の日が、点々と辺りを照らして美しい。どこかで鳥が囀っている。驚いた。どんなに目を見開いたってその美しい景色の全てを受け取るのは難しそうだった。濁りの無いブルーの水面は、良く目を凝らすと小さな魚が泳ぎ、留まっている。水面の中の水草でさえも、輪郭をはっきりと捉える事ができる。

「フフン。どうだ。うみ。」

隣で伊之助がふんぞり返っている。いや、海ではない。確かにここは山の中の池であって、海では決してないのだけれど。それでも、これって、伊之助が自分の為に用意してくれた景色だ。どきどきと、ゆっくり鼓動が早くなって、頬に熱を感じる。なまえは目端から涙が伝いそうになるのを必死にこらえて、伊之助の、この景色に負けないくらいきらきらしい瞳から目を離し、2人だけのうみを見た。

「すげぇだろ。」

がしりと、肩を乱暴に抱かれてしまう。うまく息が出来ない。

「すごく。」

それでもちょっと頑張って息をすって、伊之助の肩に頭を寄せてみる。そうすると頭の上から、雑な笑い声が降ってくるので、答えるようにほんの少しだけ、体重を預けてやった。




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -