整頓され必要最低限の物がデスク上に出ている。煉獄はそこで、テストの採点を行っている。解答用紙が積み重なった束の、一番上に乗った一枚、生徒の名の横に点数を。赤ペンを走らせる。採点終了。だが、まだまだ煉獄の採点を待っているそれはたくさん、たくさんある。用紙をめくれば、別の生徒の名が見えた。
煉獄はその名には、と。動きを止めて、唇に手をやる。ふに、と自身の口元に人差し指を置いた後、ほとんど無意識に行われたその仕草から我に返るようにして椅子の上で足を組みなおす。

名字なまえ。つい先日、テストで不安な箇所があるからと、自身に放課後指導を申し出てきた、彼女の名。実際にそれは、行われた。二人きりなのが、きっといけなかったのだ。



「なんだ、きちんと理解できているじゃないか。これなら俺が教えるまでもなく、自宅学習で充分補えるだろうに」

彼女のクラスの教室は、テスト期間前だからか、静かで、煉獄がなまえの教室にみえた時には、数人の女生徒が出てゆく所だった。挨拶を交わしながら代わる様に教室内へと入れば、中に居るのは自身の机に歴史の教材を揃えて待つなまえの姿だけ。こちらに気が付いてひらりと手を挙げて笑うなまえは、制服を着ていても大人っぽさ、という雰囲気が目立つ生徒だった。いざ彼女の隣席に腰を下ろしてテスト範囲を一通り復習すれば、特に躓く箇所は見当たらなかった。随分と勉強熱心な生徒なのだな、と煉獄は内心でなまえの勉学に取り組む姿勢に感心して、言葉を紡いだ時だった。

「わざとですよ」

しん、と静まっている、二人しかいない教室には彼女のしっかりとした声が響いた。煉獄は、綺麗に纏められたノートの文字から顔を上げて、隣へ視線を移す。窓ガラスからは放課後特有の時間帯の、暖色を帯びた光がなまえの横顔を照らしている。

「わざと?」

意味が分からなくて、なまえの言葉を復唱した。

「煉獄先生の授業、面白いから、嫌でも内容頭に入ります。だから、こうやって指導受けにくる子なんて、そうそう、居ないじゃないですか」

なまえが煉獄とやっと視線を交わす。近くで見ると黒目がちな、綺麗な瞳だった。

「だから結構、かんたんに。こうやって二人きりになれます」
「………君は」
「勉強の動機が、煉獄先生。不純ですか」
「あまり教師を揶揄うな」
「揶揄っている様に聞こえますか?」

まっすぐに、見つめている彼女の眼はとろんと目尻が蕩けていて、頬が桜色に可愛らしく染まっているのはこの温度の光の中でも、良く分かった。どき、と心臓が焦る、一瞬。目の前に居るのが自身の大切な生徒の一人である事は、忘れてはいけない。だが、彼女のその表情は、決して揶揄いを含んでいるとは思えなかった。

「今日はここら辺でもう、お終いにしよう。日が落ち始めているから」

だからこそ、彼女の想いに何か簡単に言ったりしてはいけないと、煉獄は思った。咄嗟になんと答えてやれば良いのか分からなかったせいもある。話をずらして、教材をまとめに掛かる。その様子を、目端のなまえは止める様子は無かったが、代わりに彼女の言葉が続いた。

「教師と生徒間での恋なんて、御法度ですよね。でも、ありがちでしょう。小説や映画にだってその設定は。あるんですよ、実際、学校を出れば、制服やスーツを脱げば、同じ人間なんですし、男女です。惹かれてはいけないというルールは、人間の理性を取り払った、本能的な部分には存在しませんね。だから、道理的にこの恋を禁断としています」

諦めたようなゆるやかな口調に、煉獄は自然と顔を上げてなまえと向き合えば、彼女は口角をほんのりと上げている。

「でも私、先生がすきですよ」

きゅ、と椅子の脚が、ワックスがかったてろてろと光る床にこすられて音が鳴る。煉獄が席を立ったせいだった。ひどく動揺している。いつもなら、似たような言葉は笑って生徒の頭をひと撫でして、礼を言って、終わりにできるくせに、今日はそんな風には出来なかった。彼女が用意したこの状況に上手く転がされている自分のせいか、彼女の瞳の奥に挑戦的な光が見えるせいか。分からなかった。けれど煉獄は、あるだけの平常心を前面に、なんとも思ってなどいないふうに。

「気持ちだけ、受け取ろう」

試験、頑張ってくれ。そんな、言葉だけの一言は、この話はこれきりだ。と冷たく告げているようで、今この状況の彼女にとっては少し酷だったかもしれないが、付け足す。下を向いたまま煉獄は、ペンをシャツの胸ポケットに差し込みつつ、目端に捉える自身が持ち込んだ教材や資料の端を掴んで、机から取り上げる。その動作はゆったりと出た声色とは反して、雑なものだった。早くこの場から去らなければ、という内心が現れてしまったのかもしれない。

「つ、」

小さく体の跳ねるなまえと声に、煉獄は、しまった、と思った。手にとったものを全て背後に並ぶ机の適当な所に放り、座るなまえの前に片膝をつき、屈んだ。急いでその白い手を取る。人差し指を見やれば、一センチほどの直線の切れ込みから、血液がじんわりと滲み始めた。煉獄が力任せに書類を彼女の机の上から取り上げたせいで、指を紙の端で切ったらしい。少し感情的になって、生徒に怪我を負わせるなど。煉獄の頭は、彼女の血液の持つ熱の色と相反して、冷めてゆく。なにをやっているんだと、思った。だんだんと、早かった鼓動も落ち着いて、視界に映るものがクリアになる。教室内を暈す様に照らしていた橙の光は、良く見ればしっかり、煉獄の影の、彼女の影の、机の、椅子の、窓枠の影の、輪郭を鮮明にしている。ひやりと、少し空いた窓ガラスの隙間から流れる冷たい風を感じられるようになってやっと、溜息に混じった、謝罪が漏れた。

「……すまない」

じわり、じわり。彼女の赤は、真直ぐに伸びた傷口から、少しづつ、量を増す。その都度に、同じ速度で、膨らんでゆく罪悪感。初めて触れた彼女の手は薄くて細くて、小さい。大切な生徒に、こんなふうに、ましてやこんな状況で、小さくとも怪我を負わせた事実に、煉獄の身体は反省でずしりと重くなった。

「保健室に連れていくから、」
「もう開いていませんよ」
「俺が開ける」
「…えっちですね」
「訳が分からない」
「自分に好意を伝えている生徒を、保健室のベッドに、連れて行くんですか。先生、わざと、やっているでしょ」
「…誰がベッドに運ぶなどと言った。消毒して、絆創膏を貼る。頼むから大人しくついて来てくれ…今はそんな事を言ってる場合じゃない。」

言い合っている間にも、彼女の指先には血がぷっくりと膨らんで乗っているから、焦る。睨むようにして、浮きたつような声色で話すなまえを咎めるように言えば、ふふ、と肩を擽ったそうにすくめる彼女の、閉じた口端から柔らかい声が漏れる。

「先生のせいですからね」

言われ、眉間に皺が寄る。痛い思いをしたのに笑っているとはどういうことなのか。

「ああ、俺のせいだとも。本当に悪い事をした。だから早く、」
「いいです」
「ダメだ」
「先生が消毒してください。絆創膏は持っていますから」

彼女の言葉の意味を理解するまでに時間が少しかかって、その間に掴んでいた指が手元から離れ、自身の口元に向かっているのだと、理解した時にはまだ、何が起きるのか煉獄には予想がつかない。ふに、と自身の唇に人差し指があてがわれた時、やっと彼女の大胆な行動に煉獄の体が火照りだす。目を見開いて再びどきどきと鳴る音を、頭の片隅で感じつつ、動けない。肩の位置でさえ、足先の向きでさえ。少しでも動かしてしまえば、唇に当たるなまえの指先の温かさをもっと知ってしまいそうで、喋れない。口を、開けない。

「あっ、血、こぼれちゃうっ」

なのに、焦ったようになまえが言うものだから。彼女の血が滴ってしまわない様にと煉獄は咄嗟に、舌でその血液を口内に攫ってしまったのだった。



足を組みなおしたせいで、キャスター付きの椅子が、きい、と音を立てる。煉獄は解答用紙に書かれた綺麗な彼女の字を、眺める。あの後、どうしたのか、困惑していてあまり覚えていないが、異常に熱かった自身の頬の温度と、ピンクの猫のキャラクターがプリントされているなまえ持参の絆創膏をあの細い指に巻いてやったことは、覚えている。微かに自身の唾液で濡れている彼女の指。

煉獄は脳内を支配し始めたあの出来事を消し去るようにして、咳を一つ漏らす。そうして採点の続きに戻ろうとなまえの用紙に一通り目を通していると、右下の、少し空白のある隙間に、鉛筆で塗りつぶされている様な落書きを見つけた。ぐしゃぐしゃと、それは、黒い毛虫が横たわっているかのよう。煉獄は目を凝らす。その毛虫の下に小さく彼女の字で、(けしごむでけして)と書かれているものだから、煉獄は素直にデスクの一番上の引き出しを浅く開けて、まだ半分の角が丸くなってない消しゴムを取り出した。毛虫にそれをあてがい、軽い力でこすってゆく。落書きを教師に消させるのは如何なものか、と不満に思いながら。そうして消した毛虫の下から浮かびあがった文字に、煉獄はぎょっとした。

『治りました。先生の消毒のおかげで』

文字を何度も読み返しつつ、横目でデスクに立つペンスタンドの中から一番濃い2Bの鉛筆を取り出し、消したばかりの毛虫を文字の上に再び描いた。なんのつもりだ、なまえ。文字はインクのペンで書いてあったのか、消えない仕組みらしかった。鉛筆で書いた毛虫だけ、消しゴムで消える。学生らしい悪戯。消毒、という文字がわざとらしく大きめに書かれたその一言には、揶揄いしか感じないのに、煉獄はどうしてか、頬に熱を感じながら、懸命に文字を鉛筆でぐりぐりと塗りつぶし、証拠隠滅を図っている。自分は、何も見ていない。筆圧が強くなりすぎて、鉛筆の端が、ぱきりと音を立てて割れた。

意識の方法


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