現役だった頃の父上に、俺の事を宜しく頼まれた、と彼女は言った。それ故になまえは他の隊員よりも尚一層に、俺を気にかけて見てくれる時間が長いのだと思う。それは幸いな事に俺と彼女の距離を縮めて、不幸な事に俺は彼女に只の可愛らしい後輩としてしか、見られていないのだという事実を明白にさせた。彼女の頼れる親しみやすい性格は常に好きであり、時として嫌いだった。分け隔て無く人に与える優しさは俺の元にも平等に注がれたけれど、その事実を第三者を通して再認知する時、常に俺は胃の中を焼かれるような感覚をおぼえた。そうして同じく俺のように、彼女を意中の女性とする隊士が多く存在している。彼女はそんな好意の気配になど、気が付いていないようだが。

「私の分も食べていいよ」

なまえの屋敷の広い敷地の庭にて、艶々と太陽が反射して光る程の加工を施された石机と椅子に向かい合う形で、稽古の昼休憩として腰掛けている。すぐそばの池で鯉のヒレが水面を叩いた。暖色に色変わりしたカエデが、なまえの差し出した二つの握り飯の上を優雅に通り過ぎて行った。庭をのんびりと吹き抜ける風はさまざまな予感を含んでいて、それらは冬の訪れが近い事を知らせて、彼女と俺の小指に進展を示す糸の影がないことを笑った。向かいに座る彼女は隊服の上着を脱いで膝にかけ、手にある握り飯を少しずつ齧っている。

「俺ばかりに食わせていては、この後の稽古で貴方の身体がもたないぞ」
「ふふ、確かに。杏寿郎との手合わせが一番、体力が奪われる気がするよ」
「では尚更」
「でも私、君と会う前に実弥君とお茶してきたんだ」
「……」
「この近くにお萩の美味しい店があってね、たくさん食べてきたからお腹いっぱい」
「…そうか。ではこれは有難く俺が頂こう。貴方の握る飯が好きなのでいくらでも腹に入るぞ。今日は一段と、米の炊き加減が上手い」
「え、本当?それは嬉しいな。だけど今日のは私が握ったんじゃないよ、実弥君のお手製」
「………………」
「実弥君のおにぎりはなんと犬も懐く程の出来なんだけど、杏寿郎も胃袋を掴まれたね。ふふ、彼に伝えておくよ」
「言わなくていい」
「そんなに一気に詰め込むと喉に詰まるんじゃない?」

なまえはまだ半分も減っていないおにぎりを片手に頬杖をついて、俺の喉を無事に米が通り過ぎてゆくのを見守った。不死川の握った、綺麗な三角形の握り飯は、たくさんの嫉妬心が乗った舌の上でも当たり前に美味く感じた。口の中が空になっても、湯飲みの中の冷め切った茶を飲み干しても、目の前を特別大きな楓の葉が横切って行っても、彼女はまっすぐに俺だけを見ていた。俺は無意識のうちに蓄積された緊張の量で彼女に対する想いを計っていた。心が脈を打っていた。尊い沈黙の間に、小指の付け根があまく、暖かい熱を持つのを感じた。

「杏寿郎」
「……なんだろうか」
「ふふ」

なまえの目の奥は、ラムネの炭酸のようにパチパチと小さな光の粒が輝き弾けていた。それは俺の中で解釈されたことなのか、実際に彼女の瞳の中で起こっている現象なのかは判別が出来ないでいた。煌きは別に、今日この瞬間に成り立ったわけでは無く常に彼女の中で弾けていたが、今はその存在が俺の中で際立ったというだけの話だった。そのようななまえの瞳の謎や俺の思考は、絶対に言葉となって声に乗せられ、彼女の耳に届くことは無い。絶対を破ったときなまえが、その端麗な顔に隙を備えた柔らかな笑顔を作ることは分かっていたが、同時にそれは俺が子供扱いを受けた上に成り立つ場面なのだ。風向きはいつのまにか変わっていて、なまえの身体を撫で装飾された空気が俺の元に運ばれた。「なまえさん、」彼女が顎の下に添えていた手をこちらへ伸ばした。「じっとして」しっとりと落ち着いた声色は風に流されてしまいそうな程曖昧だったが、聞き逃す事はしなかった。同時に俺は、何かを真剣に、強く期待している。白い手が迫って、鯉はもう跳ねなくなって、俺は彼女と視線を交わらせたままでいる事が、どうにも出来なくなった。机の上の、なまえの言いつけを忠実に守り動かない己の手の甲に視線を逃した。だというのに、まるで鮮明に、彼女のうつくしい瞳の存在が心の真ん中に固定されたみたいに離れなかった。熱を持っていた小指の付け根は、皮膚が切れて血が滲んでいた。彼女の手は俺の口の端を撫でるようにふれて、余韻を残さず離れて行った。

「む」

指の先には、その肌よりも幾分も白い点が乗っている。

「つぶ」

なまえは見せつけた米粒を自身の唇の割れ目に押し込んだ。それから、やっと食欲を取り戻したかのように、手の中にあった握り飯をすべて食べた。彼女の口の端には残ろうとする米の粒は現れない。俺は触れられた部分を手の甲で擦って、どうにか表情にまで羞恥心が現れないよう努めた。「すまない」声の調子にまで気を使い、なんでもない風を振舞った。「ずっと気が付いてないみたいだったから面白かった」だというのになまえは、どこまでも俺の存在を舐め切って、ふにゃりと目尻を垂らし、笑っている。

「…いつまでも子供扱いしないでくれないか」
「口にお米つけているようじゃ、そりゃあね」
「……」
「なんで怒るの。杏寿郎にはいつまでもそう、可愛いらしくいてほしいよ」
「そういう言葉は貴方に添えられている方が似合うだろう」
「ふふ、格好良いこと言うじゃん」
「また、馬鹿にしているな」
「どうだろう」

昼飯時はとっくに過ぎて、2人の湯呑みは空になっていたのに、なまえも俺も、立ち上がらずにそこに居た。彼女の手は元通りに顎の下に添えられていた。俺はその手に刻まれた、直線的だったり、皮膚が盛り上がって再生したり、赤黒く色が残ってしまったりしている傷の数をかぞえて、それらがどういった経緯でそこに刻まれる事になったのかを想像した。ある時の彼女は料理中に人参の皮がうまく剥けなかったし、ある時は無理矢理に撫でた野良猫の機嫌を損ねた。そうしてある時の多くは、ひとを守った代償として、それを身に受けた。唐突に、今好きだと伝えるべきか迷った。

「なまえさん、俺は」
「ふむ」
「強くなりたいんだ」
「いまに私を超える?」
「常にそのつもりで挑んでいる」
「負けていられないね」
「…目標がある」
「柱」
「そうなったら貴方は、俺の事を…。子供としてでは無く、見てくれるだろうか」
「たのしみ」
「真面目に聞いていないだろう」
「聞いているよ」
「どうだか」
「じゃあ誓うよ」

言って、なまえは2人の間に細い小指を立て、差し出した。俺は一瞬躊躇って、それから肺に空気を送り、彼女に己の指を絡めた。お互いの指は平等に力を強め、互いに捕らえ合った。それが不釣り合いになった時、俺は彼女の見透かすような煌く瞳から視線を外して、きつく結ばれたふたつの手を見ていた。

「杏寿郎が今なにを考えているかが、私には分かるけど」
「いいや、それはきっと当たっていないと思う」
「どうだろう。君とは長い付き合いだから」

俺の手は彼女よりも大きく、骨張っていた。手の甲に太い血管が浮いていて、確認できる傷は真新しいものばかりだった。なまえは、隊服から伸びる手首から爪の先に至るまで儚く、しなやかで女性的な手をしていた。なまえは俺の口元に米粒が付いていた時のように、楽し気にわらっていた。気の抜けた笑顔はこの行為を、子供のおままごとのように幼稚に見せた。だが子供ではないふたつの手には、鮮やかなまでに男女の違いが現れている。小指の赤が彼女に移った。



/タイトルはSuiren様からお借りしました。
美粧のうねり


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