「どうぞ」

一応襖に手を伸ばす前に一声かけた。中から返答があったのでそっと開けると、一間の中央に蒲団が二組敷かれていた。だがその一室はなまえの使用する部屋だったので、煉獄の気はその違和感に留まる事は無かった。今日は藤家紋の屋敷での休息だった。この屋敷に滞在している隊士は、任務に同行したなまえと煉獄二人だった。彼女は部屋の奥の縁側に続く襖戸をほんの少し開けて、入ってくる涼やかな風を慈しんでいた。彼女もまた風呂上がりで、まだしっとりと水分を含んだ髪の束は、その微風に流されることはなかった。

「なあなまえ。これは一体?」

煉獄は彼女に見えるよう宙に持ち上げ、一枚の紙切れを差し出した。それは今朝任務に出向く前、なまえが誕生日の祝いとして煉獄に手渡した、封筒の中に挿入されていた紙一枚だった。ただ、券とだけ記されている。それでは何を行える券なのか分からない。そういった意味を込めて煉獄はなまえに問うた。

「それは杏寿郎が好きな文字を書き込めます」
「好きな文字。むう。…どのような券にしても良いのか?」
「そうです。それに従って私が誠意尽くして頑張ります」
「頑張るのか、君が」
「はい。頑張ります」

膨らんだ唇を薄く伸ばして笑うなまえから、煉獄はもう一度手中に有る紙切れに視線を移した。そうしてから、すっきりとしない曇った感情に包まれてしまっている事に気が付いた。なまえが“頑張る”等と口にしたからだ。彼女が頑張るとは意味通り力を尽くすという事だ。

「こういうやり方は、人によっては悪用されかねないのではないかなまえ」
「杏寿郎にしかしないと思うので大丈夫です。というか杏寿郎だからこのような方法になってしまいました」
「俺だから」
「杏寿郎は人気者ですから。皆さんから沢山の祝いがあるので、私はその中でも特別なものでありたいと思いました」
「それなら内容も君が決めるべきではないのか」
「えっ…、そう来ますか」
「なまえが決めた内容を俺が使おう」
「ええー…」

なまえは首を小さく捻りながら自身の着物の裾をくるくると指先で巻き、券の前に添えるに相応しい文言についてを存分に悩んだ。煉獄はその間、ゆっくりと乾いてゆく彼女の髪の束を見つめたり、血色良く薄桃色に染まった頬を密かに愛しく思ったり、一間に敷かれた二組の蒲団に気が留まったりしていた。「なまえ、悩んでいる所口を挟むようで悪いが、何故蒲団が二組敷かれている?」宙をぼんやりと漂っていたなまえの焦点が、しっかりとこちらに留まった。「二人いるからじゃないですか」煉獄の発言の意図が掴めないといった風で、次になまえの視線は煉獄の瞳の奥を探るようにふわふわと彷徨った。

「え?なんですか?」
「まずくないか」
「すみませんが先程屋敷の方に、同室で良いですかと聞かれたので頷いてしまいました」
「…嘘をつくな。話を聞いていなくて適当に頷いたんだろう」
「まあそういう事もあります」
「普通ではないな」
「杏寿郎は私と同じ部屋だと困りますか」
「君が困るだろう。男と並んで寝るのだぞ」
「私は別に普通です。並ぶ相手が馴染ですし」
「普通ではないな」

なまえの髪は乾ききって、さらさらと糸が順番に揺れるように風に攫われていた。部屋に入り込む冷たい外気はまだ夜の香りを帯びている。いい加減な彼女の耳に届くよう溜息を漏らした。すると途端に閃きの短い声を上げたなまえが、立ち上がって煉獄の前まで歩みを進め、その手から例の紙切れを奪い、嬉しそうに二人の間に控えめに掲げた。

「早速券の内容が浮かびました」
「今はそれどころではないだろう、全く君は聞く耳を持たないな」
「券は肩叩き券に決めます」
「話を聞け」
「そうすると杏寿郎は今からそれを使用する事になるので、私達が同室する意味に杏寿郎は何の疑問も持たなくて良い訳です」
「使用の都合もなまえが決めるのか」
「良いじゃないですか。杏寿郎、誕生日おめでとうございます」

なまえは手にしていた券を煉獄の鼻先で見せつけるように(近すぎて焦点が合わなかったが)中央から引き裂いた。「ハイ、肩叩き券実行です」強引で雑。だが煉獄は内心で胸を撫で下ろしていた。彼女と確かな関係を築いた訳では無いのにおかしな雰囲気に包まれるのは絶対に避けたかったのだ。それに誕生祝いの行方も落ち着いた。肩を叩かれるくらいなら、普段意識してしまうなまえとの距離など気にしなくても良いだろう。煉獄はなまえに手を引かれるままに一方の敷布団の上に胡坐をかいた。背筋を伸ばしすぎてしまっている事に気が付いたので、やはり意識の底では仄かな緊張が存在している事に気恥ずかしくなった。

「楽にしていてください」

背後に感じるなまえの気配に集中した。部屋の空気の流れがぴたりと止まっている事に気が付いて、視界の端でなまえが涼んでいた縁側に続く戸が隙間無く閉じられている事を知った。少しの間、視界から入る情報を遮断して落ち着く為に目を瞑った。随分と待っていても、なまえの手は、煉獄の肩に乗る事は無かった。代わりに煉獄の背中を、ぴったりと庇うようになまえの身体が触れたのだった。「聞いてください杏寿郎」目を開けた。部屋を照らしていた明かりが、また気配も無く消されてしまっている。場は彼女の速度をもって進んでいる。煉獄は沈黙してなまえの言葉の続きを許容した。彼女の身体ばかりが温かい気がした。

「肩叩きという名目で現在進んでいますが、内容を決めるのは杏寿郎が指名した私ですし途中で何が起ころうとも構いませんよね」

なまえは煉獄の背後から、怯えるようにゆっくりと腕を回した。「少しで良いのでこういう時間が欲しいです」寂しい色を含んだなまえの声は、好意の方向が決して一方的ではない事に気が付いているのだろうか。二人の体温が平等に上がっている事に気が付いているのだろうか。「今日は、素敵な香りを身体に纏っていたんですが、先程洗い流してきてしまいました」

「振り向いてもいいだろうか」
「駄目です」

否定をしっかりと聞いた後、煉獄は腰に巻き付いていたなまえの手を取った。振り向いて、彼女の手を片方引き、距離の縮まったなまえの身体を引き寄せた。

「人の話を聞くよう、先程私を叱ったじゃないですか」
「良いじゃないか。俺の誕生祝いだろう」

全く暗い部屋の中で、正確に彼女の額に鼻をすり寄せた。鼻腔に届く香りは、しっかりとなまえのもので、初めて肺を満たす彼女の香りのひとつが、彼女の肌の温度であって良かったと思った。

2020誕生日記念


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