机に向かい合ったかたちでいる正面のなまえは、長いこと本を開いてそれに釘付けだったというのに、いつから視線の先を変更させていたのだろう。まったく、物音の一つすら立てずに、本は机の上にページを開かれた状態で手放されている。狭霧山に住む師に向けて文を綴っていた錆兎は、なんとなく上げた視線の先に彼女のまるい双眼を捉えて驚いた。墨のついた筆を硯に戻すあいだにも、錆兎は彼女と視線をしっかりと交えたままでいた。

「なんだ」
「え?」
「俺の顔に、墨でも付いてるのか?」
「いや、……あのさ、錆兎ってなんだか変わったよね」
「変わった?」
「うん。いつの間にかカッコよくなってる」
「はあ?」
「何かな。何が変わったんだろう…、目とか?もうちょっと丸々としてたよね?」
「大丈夫かお前」

大丈夫かお前。などと言いつつも、錆兎のこころはどきどきと鼓動を速めていた。それは目前の彼女が頬杖をついてまで錆兎の鑑賞に勤め始めたからである。錆兎は再び筆をとった。なまえのきらきらとした視線を感じながら便りの続きに戻ろうと努めるが、いったい何を書きたいのかさっぱり思い出せなくなってしまった。まだ彼女は見ている。もうこの文はだめにしてまた後程、新しい紙にひとり集中して書き直そうと考えた錆兎は、今あるそれに適当に浮かんだ言葉を走らせ、文に集中しているフリを決め込んだ。彼女との会話を強制的に終わらせるためだ。こちらは会話に気が向かないのだと悟らせたい。だが脳に体をまかせて筆を走らせた時、錆兎は再び驚く。他ならぬ己によって書きだされたその一文がなまえの姓と名だったからである。

「…………」
「あれ、それって私に向けて書いてたんだ?」
「違う」

違う。言いながら文鎮を外して紙をグチャグチャに手中に丸め込んだ。なにが違うのかはもう分からないでいた。錆兎の中で確かなのは、「カッコよくなってる」という九文字に動揺を隠せない事実だけだ。彼女は首をかしげて錆兎の顔の造りをまだ確かめているようだった。顔に血液があつまって火照っているのは鏡をみないまでも明らかだとおもう錆兎の心境を放って、それに突っ込まない彼女がまた憎らしい。「あ、分かった」なまえが指をぱちんと鳴らした束の間の緊張の弛緩で、すこし呼吸を落ち着けることが出来た。それでもまだ、頬はきっと紅潮している。

「錆兎さあ、髪伸びたんだ」
「もうお前、黙ってろ」
「どうして?そっちの方が大人っぽくていいね。私は凄く好きだよ」

好きだよ。彼女は語尾を言い終えてすぐに、本に手を伸ばし続きに目を走らせ始めた。おかげで錆兎はみっともなく両の手で顔を覆う事を許される。目の前が、頭の中が、火花を散らしたようにちかちかしていた。手のひらに溜まる熱気を感じる。急に錆兎のこころを乱して放るなまえを、指の間から睨んだ。彼女の手にしている本の題が、かたちとして目に飛び込んだ。

『気があると思わせる会話術』

まぶしい黄色の表紙を視界から遮断するために指を閉じた。顔からの熱気はもう感じない。何故彼女がそんなものを読んでいるのかは定かではない。ただ錆兎は試されたのだ。その馬鹿げた本に書かれた戦術の一つを。