煉獄先生を想っているあまり、スーツのジャケットを盗んできてしまった。しょうがないと思う。クラスの生徒のプリントを纏めて、持って来いと私に言ったのは冨岡先生だったけれど、その彼も何故だか職員室に姿は見えない。珍しくがらんと、人気の無い職員室だった。端の方で宇随先生が突っ伏して寝ていたけれど、それはまあ、いつもの事だ。どうでもいい。なので椅子に掛かっていた先生のジャケットを盗んだ。盗んだといっても、後程返すつもりではいる。

頭の中はとっても落ち着いているのに、階段を駆け上がる足はどんどん速くなる。抱きしめるようにして握っている先生の衣服は、なんだかそれ自体が体温を持っているように温かく感じる。それはきっと、私の頭がおかしいからだと思う。二段飛ばしになり始めた階段も端まで来て、かわりに屋上へ続く扉が見えた。少し錆ついた、銀のドアノブに手をかけ、そのまま思いきり外へ飛び出した。背後で、ばったん!と、うるさく扉の閉まる音がした。

「はぁー、はぁー。」

私はなるべく少ない呼吸回数で、荒い呼吸を落ち着かせようとめいっぱい、吸って、吐いた。特に頭に上った血を、どこかへやってしまおうという気持ちでそれをした。屋上はつんと冷たくて、真新しい空気が、行いを咎めるように私の肺を冷たく刺激している。数回そうしていれば、簡単に体は冷え切って、ふるりと震えた。

「は、」

先生のジャケットを顔の前に近づける。椅子に掛けてあった際には皺ひとつないものだったのに、私が強く握りしめたせいで、くしゃっと数本の折れ線が出来てしまった。先生の持ち物に私が手を加えてしまった事で初めて罪悪感が生まれつつも、ジャケットのポッケに手を入れ探った。外ポケットには何も入っていなかったけれど、内側には小さな紙切れが一枚見つかって、広げて見れば煉獄先生が赤いインクで書き殴ったメモ(放課後図書千寿郎、と書かれている。彼は先生の弟だ。)が見つかったので、これは私が貰ってしまう事にした。そうしてやっと私は、先生のジャケットにすきなだけ顔を埋められる事に安心して、屋上の手摺にもたれかかった。スカートの端が風に攫われて、小さくめくれ上がったけれど、抑えるようなことはしなかった。ジャケットを軽く広げて、襟元付近をめがけて顔を埋める。そうして肺がいっぱいになるまで息を吸い込むと、先生の衣服を介した良い香りの空気が私を満たした。柔軟剤と、先生と僅かな汗の匂いと、それから、みるくのようなやさしい香り。先生の胸の中に一度ふざけて飛び込んだ時も、こんな匂いに包まれたことを思い出してしまって、せっかくどこかへやったばかりの、頭の血が、再び熱く湧いてくる。とっても、どきどきした。

「名字。何をしている。」
「ぎくー。」

ジャケットから顔を上げれば、煉獄先生が目の前に立っていた。先生の赤いネクタイは、屋上をただ通り過ぎてゆくだけの風に揺られて、ひらひらと舞っているのに、きちんと先生の首元に結ばれてしまっているから、どれだけ風に煽られたって離れていってしまうようなことはない。

「何故俺の上着を?」

先生は目を丸くして私に訊いた。まっすぐにこちらを見てくるものだから私も同じふうに、先生を正面から観察した。普通、人の顔って綺麗なシンメトリーではない筈なのに、煉獄先生の渦巻いた、奥の方に赤い熱が見えるその瞳は、左右のどちらも同じ大きさにきちんとそろっている。

「寒かったので、借りちゃいました。」

少しだけ作った声色で、先生のジャケットを羽織る。袖の長さが余って、ジャケットの裾は、私の、危なっかしく風に揺られていたスカートを抑えた。「でも、ぶかぶかです。」言いながら、可愛らしく袖から指だけを覗かせて肩をすくめた。クラスの男子なら、この仕草にすぐに落ちてくれるが、先生はそうじゃない。なので安心して上目遣いも足してみるけれど、先生は適当に相槌を打って、屋上をきょろきょろと見回しているから、私のそれはすべて無駄になった。先生は誰かを探しているみたいだ。

「宇随先生を知らないか?用があるんだ。」
「さっき、職員室で寝ているのを見ましたよ。」
「俺の上着を持ち出した時にか?」
「ぎくー。」

先生は辺りを見渡しながら、視線だけをこちらに向けるというやり方で、訊いた。私はふざけて、のんびりとした苦笑でごまかしているけれど、心臓は、ばくばくと焦っていて、けっこうすごいことになっている。鋭い視線を向けられてしまうと、授業中に、先生のフルネームを何度もノートに書き連ねたり(例えば杏という字の木の払いを先生は、どんな気持ちで、筆圧で、書くんだろうなんて考えてしまうととってもどきどきする。)先生が採点したテスト用紙の、赤いインクの丸を、たまあに舐めている事などの、先生へのちょっとおかしいくらいの想いの熱量がバレているのではないかと思えてくる。でも実際はそんなことは無くて、先生は私の頭に大きな掌を乱暴に置いて、わしわしと犬を撫でるみたいにして動かした。

「全く君は、いけないな。」

わしわし、わしわし。

「ご、ごめんなさい。」
「寒いのなら着ていろ。放課後にでも返しに来てくれればいいさ。」

ぱっと先生の手が離れてゆく代わりに、私の頬が色を付けた。警戒心が無さすぎるのか、それとも大人の余裕なのか、私の事をちっとも訝し気にする様子は無い。頭に乗っていた重みがまだ消えていない気がして、このままでは耳まで赤くなってしまいそうだった。先生がこういうやり方で触れてくるせいで、私はどんどんおかしくなるのだ。いよいよ先生を見ていられなくなって、俯いた。早くどこかへ行ってほしい。冷たい空気に晒されているせいで、私の両膝はほんのりと赤みを持っている。

「探さなくていいんですか?」
「ん?」
「宇随先生。用があるんでしょ。」
「…ああ。そうだった。もう一度職員室を覗いてみるとしよう。有難う名字。」

赤い膝を、ジャケットの余った袖で隠す。

「君も早く中に入るんだ。そこは冷えるぞ。」

私は相槌を打って、扉の、少し錆の付いた銀のドアノブを回す先生を見送る。先生は片手を上げて私に一瞥くれた後、校舎の中に吸い込まれるようにして消えてゆく。ばったん!とうるさく扉の閉まる音がして、私はそこで、先生が屋上へやってくる時に、その音が聞こえてこなかった事を思う。ジャケットの襟元を手繰り寄せて、口元に寄せる。息を吸い込むと、先生の温かな香りが、私の肺を充分に満たした。