「こんなの無理じゃないですか…」


「圧倒的強者。私には頭部を落とそうと試みる気力すら湧いてきません」

娘は構えていた刀を地に置いた。柄から指先が離れた後、生を断念した瞳の奥に、完全な敬意が見て取れた。意外の念に打たれた。纏う精神の闘気は真直ぐに白くいて、娘は相当に腕があると見た。流れ、刀に彫られた字で柱であると理解した。その柱が鬼に対峙した今、瞳に敬いを宿しているのだ「…憧れを抱くか」。娘は殺伐と温さが淘汰される空気にそぐわない吐息を一つ漏らし、首に手を当てた。

「柱として不甲斐無い話ですが…、はい。ですが鬼の存在そのものにでは無く、力に関して言えばです。生身の私ではとうてい到達出来ない領域の力を前にしては感服せざるを得ません…。本当に、残念な事です」
「力が…、欲しいか」
「ある程度の力は有していたつもりでしたが…貴方を前には傲慢でしたね。比べる土俵が違う事は理解していますが、狩る者狩られる者としての土俵では向かい合わざるを得ない。…この言い方、癪に障りますか」
「娘の戯言になど一々、気に留める方が愚かというもの」
「そうですね。はぁ。このまま私を殺し取り込むんでしょうか。微力だとしても一層その力に手添えする形になる事を思うと、同志にとても申し訳ないです」
「……」
「ですが向かっても勝算は無いです。上弦の壱、これ程までとは」

娘は首から手を離し、こちらに視線を刺した。力の憧れと鬼への軽蔑を力強く向けられ、こちらまで吐息が漏れた。決して娘を嘲笑した訳では無かった。生から離れてなお、正気が揺るがぬ事に驚いたのだ。

「生を…。断念したのにも関わらず…死を受け入れぬか」
「死の間際だろうと鬼は敵ですよ。未練なんて救われぬものがあっても良いじゃないですか」
「……」
「私が今、何を考えているか貴方には分からないでしょう」
「………」
「柱総力を挙げて貴方に挑んだなら、まだ勝ち目があったかなあとか。そんなとこです」
「愚考」
「それが人間ってものです。私は最後まで人間として存在出来て良かった」
「その言葉、…こちらに対する、」
「冒涜と捉えますか。小娘の挑発には乗らないんじゃなかったですか」

白く透き通った首筋に刃を当てた。凪いでいた。ぴんと張り詰めたうつろいの隙間にいると感じた。娘の身体は震えさえしなかったものの、こめかみや額から噴き出る大量の汗が、慄然とする心持を表していた。「三途の川が待ち遠しいです」尚の事揺るがぬ声色を聞いて、容易く彼女の首を刎ねてやる事を止めた。

刀を鞘に戻した。死期が伸び、全身で感じる緊張の延長を余儀なくされた娘の汗は留まる事を知らずに流れ、地面に小さな染みを幾つも作った。

「…最小の苦で死に逝きたいなど烏滸がましい」
「諦めが甘えだと言うんですか」
「娘。何処まで、見下している」
「どこまでもです」

こちらが躍起になり、一思いに首を刎ねてくれる機会を待っている、作り続けている。黒々と深い瞳が物語っている。

「侮辱を手放せ」
「できません」

彼女の首に手をかけた。自身と娘の肌の間に、汗の介在さえ許さない程に強く首を握った。「ならば敬いを、受け入れてやろう」柔らかな皮膚に爪が食い込んだ。「直に下らない自尊など忘れる…」疑問を含んだ表情に顔を近付けた。「血を分けてやる...同族となれ」娘の滝汗が急に止んだ。

「……は!?それだけはお断りです!」

瞳が急に光を持った。娘はこちらの腕を力任せに振り払い、脱兎の如く逃げ出した。





「あれからというもの、結構な頻度で屋敷に押しかけてくるの止めて頂けませんか」
「…茶が不味い」
「ああ、藤の毒を入れてみました」
「……」

上弦の壱は、言いつつも湯飲みを空にした。自身に対する挑発だと受け取ったなまえは舌打ちを漏らしながら、湯飲みを回収するために盆を差し出した。その下に上手く隠し持っていた、これまた毒付きの短刀を、鬼の喉元に突き出してみたが、あっさりと手を叩き落とされた。手から離れた短刀が、なまえの足先間際にストンと軽やかな音を立てて刺さった。

「弱い…」
「.......はい。なんとも。加えて鬼を傍に置く事を許してしまっているこの状況…隊の皆に顔向けできません」
「これでは鬼の勢力にもならない…屑…」
「気が付きましたか。では帰って頂いて結構です」

言いながらなまえは、隣に腰掛け茶を啜った。横目で鬼の様子を伺う。かなりの毒を混入させたのにも関わらず平然と振舞う鬼に、眩暈すら覚えた。力も及ばない、体中からの干渉も難しい。日光しかないではないか。「明日暇なので一緒に朝顔の開花を見ませんか」日の元に晒しさえすれば勝てるのだが。「暇に飽かす位ならば…鍛錬に励め。…怠慢など、愚か者の行い…」全くそれは、本人の同意無しには難しい事だ、この鬼に関しては。

「では言い方を変えます。暇じゃないですが見ませんか」
「無駄話に興じるな」
「…黙れと言う事ですか?」
「……」
「じゃあなんで来るんですか…帰ってほしいです」

やはり項垂れたのは瞬きの一つしないで居る鬼に対してだ。胸を押さえ、軽く苦しむくらいの変化が起きても良いのではないかと、なまえは悔やんだ。無惨に次ぐ最上位の鬼故、この量の毒に脅かされないのは、当然なのか。「……気が付かぬか」鬼は腕を組み、目玉だけを動かしてなまえを視界に捉える。「何にでしょうか」話を続けるらしいので、帰る気は無いようだった。自ずと声に溜息が混ざった。「お前の、胸中…」心臓辺りに、指を差される。

「え?」
「鬼の私に対し…心からの蔑みが僅かながら薄れ始めている事……」
「馬鹿じゃないですか…私きちんと貴方の事が嫌いですよ。現に殺しにかかっているじゃないですか」

鬼は顔をこちらに向けた。六つの眼に確かに真直ぐに見据えられて、それが真剣だったので、段々と不安に駆られ、空気が濁る。そうですよね?と目前の原因に確認したくなるという可笑しな気が湧いた。場の静まりが響いて、なまえはあの夜を思った。遠い先で揺れる葉の振動さえも感知出来る程の気の締まり、緊張感。喉元を刺した鋭い爪、見えていて訪れない死。その場面を自然と想起させた。体はひやりと芯から冷えているにも関わらず、どこか熱っぽい。額に汗が滲む。ほんの少し感じた熱を、追及することはやめた。

「…なまえ」
「…何処で私の名前覚えてきたんです」
「私の体内で…解毒が行われている」
「少しは効果が有ったという事ですか」
「……」
「苦しいですか」
「体力の消耗…。それも、微々たるものだが…」
「、」
「血を欲している」
「え、えっ、」


乱暴に胸倉を掴まれ、身体を押された。後頭部を床に強く打ったが、間髪入れずに彼に口を吸われた事に驚きが勝った。下唇の端を噛まれ、その傷から零れ出た血を舌で掬われた。なまえは鬼の胸を押し返すことも、抵抗を露わにすることも放棄した。ただ自身の、奪われきられなかった血液に混ざった鬼の唾液が、口内に自然と入り込んでくることや、唇の上を這う生温い舌をおもって、涙が目の端から耳の裏側に伝ってゆくのを感じていた。心臓は枝分かれした血管を通してなまえに温かい血液と、熱を回した。それは優しいものでなくてはいけない筈なのに、涙ばかりが視界を埋めた。許してはならない対象への確かな情が、自身の置かれた立場の上に黒く乗って広がった。目を瞑った。なまえは次に瞼を持ち上げても、その先に空しくも闇ばかりが続く事を悟った。

「理解してしまいました」
「苦しいか」
「もう、殺してほしいです」
「それは素直に、…あの夜に言葉にすべきだったのだ」

真っ暗な視界に広がってゆく男の声を聞いていた。完全な敗北の前には、血の味さえも酷く甘ったるい。





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