日が暮れ始めて、空の色が、温もりのある橙に染まってきている。天はまだ微かに青さが残っているのに、狭霧山の山頂付近は、とてつもなく大量の火薬が発火したみたいな空の色をしている。眩しさを覚える程のきらきらしい暖色を、顔を上げた錆兎は感じていた。目前の、呼吸を乱し、どさりと地に倒れ込む義勇を一瞥してから「今日は終わりにしよう。」と手合わせの終了を意味する言葉を、自身のこめかみや額を流れてゆく汗を感じながら紡ぐ。義勇は、もうきちんと立っていられそうもない程にくたびれているのに、最後に一本取ったのが錆兎であった事が余程悔しいのか、「あーーー」と、無気力な声を上げながらいよいよ地面に寝転がってしまった。「戻ろう。」錆兎は付近の岩にかけてあった手拭で、だらだらと首元まで伝ってきて煩わしい自身の汗を拭った。それで頬を擦れば、泥が付いていたらしく白い手拭に土色が派手にのびた。

頼りない足取りで山を下る義勇に、錆兎が途中肩を貸そうと並んだが、不貞腐れたように頬を膨らませ、拒まれた。思わず笑ってしまう。遊びで剣術を鍛えている訳では無いので、躊躇う事無く錆兎は小屋までの帰路にて、義勇の攻めの体制に入った時の癖や隙を教えてやる。少し前を歩いていた義勇は、いつの間にか隣に並んで真剣に、それに耳を傾けた。

「あれ、なまえは?」

先に鱗滝さんと真菰が戻っていて、外で薪を割っていた。真菰の目の下には新しい傷が増えていた。斧を振り上げるのを止めた彼女が言う。錆兎はどきりとした。なまえは前日の夕方から山に籠って体力作りに励んでいるのだ。丸一日山から下ってきていないらしい。隣の義勇が先に口を開いた。

「まだ帰ってきていないのか?無理すると倒れる。」
「ちゃんと休息、取っていれば良いんだけどね。うーん。」
「錆兎。」

鱗滝さんに名を呼ばれる前に、錆兎は自分がなまえを迎えに行ってやろうと内心で決定していたので、踵を返しつつやれやれと片手を上げる。口を開くまでもなく、義勇と真菰から「いってらっしゃい」との言葉がかかったので、錆兎はもう一度山の中に足を踏み入れた。きらきらした明るい橙に染まっていた空は、段々と灰みを足し始めていた。幾分か視界の悪くなり始めた木々の中で視線を流していく。ふと目に入った、優しい斜面の角度をゆっくりと流れてゆく川に、錆兎は視線を固定した。波打つ川の表面は、夕日の光を浴びて油の様に滑らかに光る。その流れに、人の手が加わった形の葉船が、転覆してたまるかという風にゆらゆらと左右に不規則に揺れていて、懸命に、山を下った先に繋がっている、大きな、開けた川を目指していた。



暫く探し回って、やっと見つけたなまえは、小さな川の、いい感じに水から顔を出しているざらついた岩に腰掛け、笹の葉を指先で裂いていた。彼女の隣には完成された綺麗な形の笹船が一隻寄り添って同じく岩の上に乗っている。少し高い斜面からその姿を発見した錆兎は、眉間に皺を寄せながら軽やかな身の熟しでなまえの近くの岩場に飛び降りた。

「あ、錆兎だ。」
「お前な、」

なにが、「あ」だ。と錆兎は思った。なのに、錆兎に笑んだ表情を見せてくるなまえの、顔中に付いている擦り傷や泥、目の下にうっすら滲んだ隈を見て、言葉は続かなかった。その様子だと本当に一日中修行に励んでいたように思われたし、彼女の性格からしてそうなのだ、と錆兎は内心肯いた。義勇が言っていた(無理すると倒れる)というのもきちんと前科があった。そして、真菰がなまえの不在ととれる言葉を発した際に、不安が忙しく胸中を支配してしまったのは、同じ師を持つ兄妹弟子として以上に、錆兎が個人的に、なまえをかわいいだとか、愛しく想う気持ちを密かに抱いているせいである。岩場を一歩移動して、更に彼女と距離を詰める。自身の肩に掛ったままだった手拭の端をつまんで、錆兎はなまえの頬の泥を拭った。無意識に力が強くなってしまったらしくて、「いたいよ。」となまえが顔をしかめている。近付いたなまえからは確かに汗の匂いがきちんと感じられるのに、それ自体の香りが甘いような、子供の肌の様な、みるくの様な柔らかさで、ああ、彼女は女性なのだ、と当たり前の事を思う。そうして、錆兎はどうにか、なまえの事は絶対に自分が守っていてやらないといけない、と強く思う。泥を落とした彼女の頬はまだくすんでいたけれど、錆兎は手拭を肩に掛けなおした。

なまえは手中の笹船を完成させると、隣にあった完成済みのと合わせた二隻を、膝の上に並べた。

「笹船、願い事を乗せて流すんだよ。錆兎にも一隻あげるよ。」

一つを、なまえが手渡してくる。願い事、と言うが錆兎はそういった願掛けの類をあまり信用していない。願う程の事は、こんな小さな葉で出来た頼りない船になど託さず自身の力で叶えるべきだ。思いつつも、それを行おうとしているのがなまえであるのだから、少しくらい付き合うのも良いかもしれないと、葉船を壊さないように慎重に受け取った。随分と丁寧に作ってある。

「でも、錆兎はこういうの、あんまり好きそうじゃないね。」

思っていた事が顔に出ていたのだろうかと驚いたけれど、でもやはりそうなので、「ああ。」と短く肯定する。それでもあまり冷たい言い方にならないよう気を付けた。

「簡単なお願いでも良いんだよ。例えば、明日の夕餉はちまきが出ますように。とか。」
「それなら直接なまえに言った方が叶うだろ。」
「例えの話!」
「例えが下手だ。」
「疲れているんだよ。」

錆兎の指摘になまえが頬をほんのりと染めるから、見ていて擽ったくなる。笹船のまじないは、口に出さなくても良いらしい。

「でもね、叶うのは、船がきちんと川を下れた時だけだよ。」

言いながら、なまえは笹船を掌に大事そうに乗せて、目を瞑った。小さな葉に、願いを乗せているらしかった。錆兎は彼女の隣でしゃがみ込んで、その横顔の、少しだけ震える睫毛の先を横目で眺めた。川の傍の空気は、ひんやりと冷たくて、流れる水と同じ速度で、錆兎の頬を掠めてゆく。熱を僅かに攫って行った空気は、隣に居るなまえの髪も、鼻先も、唇も、同じような温度で包んですぐに去ってゆく。それはきっと、山を下って、そうしてそのずっと先に住む誰かの身体も、ふわりと包んで心地良く冷やす。まだ、彼女の甘い香りが届いている。なまえは、そんなにも真剣に、何を願っているのだろうと、思う。頬を土色に汚しながら、微かな隈を浮かばせた目の睫毛を震わせながら、そのちっぽけな笹船に何を乗せているのだろう。錆兎は、まだ目を開かない彼女から視線を外して、自身の手に乗る笹船にこめる、望みを決めた。

「願い事こめた?」
「ああ。」

「流すよ。」なまえが続けて、笹船を川に下ろす。だから錆兎も、なまえの船の隣に自身の船を浮かばせた。「せーの。」と声がかかるから、手を離す。錆兎のそれはなまえのより少し遅れて、緩やかな流れを一生懸命に揺られながら離れていった。先頭を進む船に寄り添うようにしている自身の船は、こめた願いとやらを忠実にこなそうと努力しているようだった。

「無事に下れると良いね。」
「大丈夫だ。」
「ふふ、えらい自信だね。」
「ああ。自信がある。」

彼女が小さくなってゆく船を見て、へにゃりと緩んだ風に笑っている。自身があるのは、そういうまじないを込めたからだった。それは山を下りきらなければ駄目だというなまえの話に反しているかもしれなかったけれど、でも、錆兎はそれを思った。彼女の、とても真剣な横顔を見てしまっては、明日の夕餉の事だとかは、どうでもいいのだ。二人で、二隻の、必死に進んで行く勇敢な船を、眺める。静かな空間に、水が小さな岩を乗り上げる音。木の葉が風に揺られる音。土の、少し埃っぽいような匂い。甘い香り。なまえの、息遣い。

「みんなが無事に、最終選別から帰って来られますように。」
「…そう、願ったのか?」
「勿論、絶対にそうなるように頑張るけど。このお願いは、まあ、念の為って感じだね。」

なまえが俯いて、水面に歪んで写っている自身の顔を眺めながら、髪を耳に掛ける。

「なまえ。」

その掌が、今頃になって、乾いた血に塗れている事に気が付く。彼女の腰に掛かる刀の鞘を横目で一瞥すれば、同じく乾いて黒くなり始めた血液が柄にべっとりと張り付いていて、錆兎は耳からゆっくり離れるなまえの掌を掴む。手に出来た肉刺が潰れて、皮が捲れて、掌のあちこちがそんな風で、血が滲んでいる。錆兎の視線が自身の掌一転に注がれている事に気が付いたなまえは、弱々しい声を出す。

「汚い手。」
「頑張ったんだろ?」
「うん。」

錆兎は自分の手と一緒に、掴んだなまえの掌を水の中に入れて、固まった血を落とすように、優しく数回、撫でる。水の温度はキンと、頭が冴えるような冷たさでいる。「いたいよ。」隣から聞こえる声が震えを伴っているのに、熱っぽくもあって、錆兎は洗いながら、今彼女の方に向いてしまえばあの隈を涙が伝って、拭いきれなかった土も簡単に、一緒に落ちていってしまうような気がして、それが怖いような気がして、なまえを探し始めた際に見つけた、うまく行けばもう大きな川の広さを満喫しているであろう笹船の事を話した。固まった血は、錆兎が優しく撫でるたびに、少しずつ、剥がれてゆく。

「それは教えたくない。」

別に聞いてもいないのに最初に流した笹船の、願いの内容を話したがらないなまえに、錆兎はほんの少しだけ、面白くなって吐息を漏らす。お互いの掌は、水の中でも確かに、体温が伝わっている。なまえが慎重に息を飲んだのが分かった。

「でも、現在進行形で、叶っている、と、思う。」
「現在?」

訊けばなまえの掌が急に強張って、咄嗟に錆兎から離れた。水から上げて錆兎の肩に掛る手拭で、乱暴に水気を取る。手は、随分と綺麗になったみたいだけれど、彼女頬が、耳が、熱を持って桃色に染まっている事に気が付く。瞳の黒目はぎゅうんと黒みを増して、頬の赤みは、段々と、強くなる。どうして急にそんな顔をするのか。錆兎は困惑しながら、自身の頬にも熱が移ってゆく感覚を、のんびりと感じている。問いの返事は、返っては来ない。

赤面を見られている事が恥ずかしくなったのか、なまえは顔を隠すようにして、袴から大量の笹を取り出し、自身と錆兎の間を遮るように扇状にそれを広げた。それでも耳が隠れ切っていない事を理解したみたいで、なまえはとうとう、顔を伏せて、膝に顔を埋めながらへなへなとした声色で、言う。

「ちまき、作るってことだよ。」

なまえのちぐはぐな答えが耳に届きながら、錆兎は頬の熱を、ひんやりとした風に攫われてゆく。空気は、隣に居るなまえの持つ笹の香りも、温かくなり過ぎた耳の熱も、少し濡れた瞳の湿りも、同じような温度で包んですぐに去ってゆく。それはきっと、山を下って、そうしてそのずっと先に住む誰かの身体も、ふわりと包んで心地良く冷やす。


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