何も明かそうとしないあの人のことを他の誰より一番知っているのは、俺だと思っていた。





あれは、ミシェルさん…?
彼があの巨大な図書館から出たところを見たことは無い。しかし今、少し先の路地に入っていったのは、見間違う筈もない愛しい人。

ポケットから携帯を取り出し、時刻を確認する。23時を過ぎたところ。
こんな夜更けに、一体、なんのために?こんなに寂れて汚らしい、おおよそ彼には全く似合わないところへ?
好きで好きで堪らなくて、抱き締めずにはいられなくなる彼。この愛には靡かず応えてはくれない、なかなかこの手に堕ちてはくれない彼。
何も明かさず、何も教えてはくれない。暴いても暴いても美しく乱れるだけで、本当の意味で触れさせてはくれない、彼。

そんな彼の秘密に迫れるような気がして、彼を追い掛けた。というのは実は建前で。
そんなことよりももっと重大なこと。いや、彼の秘密とも密接に関わっているのかも知れないが、彼は、ミシェルさんは、俺の知らない人影に寄り添うようにして暗闇の中へと溶け込んでいったのだ。




確かに僕は、誰でもいいのかも知れません。でも今は、貴方が良いんです。





頭の中で彼の声がループする。
決してここまで堕ちてはこない彼が気まぐれに手を差し伸べたから、俺はその手を躊躇いもなく取った。
時折振り払われ、そしてまた差し伸べられ、餌で釣られてふらふらと立ち上がる滑稽なペットのごとく貪欲に彼を求めた。


その彼が、自分以外の誰かと?
こんな時間に、一体何を?
激しい嫉妬心に苛まれながら、無意識の内にその後ろ姿を追いかけていた。





「こんな所まで連れ出して、一体何のつもりです?」


狭苦しい路地を辿ると、先の廃ビルの中から声がする。
ああやはり、あの声はミシェルさんだ。間違いない。安堵のような絶望のような、不思議な気分だ。
ただ何故だか頭だけはひどく冷静で、足音も息も気配も消して、声のする方へ近づく。


「ミシェル、いい加減俺のものになれよ」


ミシェルさんではない、知らない男の声。
あれだけ綺麗なひとだから、引く手数多なのも無理は無いだろう、などと、いやに客観的にその男を思った。
一歩一歩、進む。割れて散った窓ガラスや瓦礫を踏まないようにしながら、物影に身を隠す。やがて遠くには、ミシェルさんと一人の男が見えた。
相変わらず美しいミシェルさんと、彼に言い寄っている何の興味も惹かれない、男。


「世界一下手な口説き方ですね。そんなことでは僕はおろか、他のどんな方からも相手にされませんよ」
「フフッ…そういう可愛げ無い言い方も、お前以外なら殴り殺してるところだ」
「それはそれは。僕個人としては、貴方のものになるくらいならこのまま殴り殺して頂けるほうがよっぽど嬉しいのですがね」


にっこりと笑いながら、けれども明らかな拒絶の意思を含ませて彼が言い放つ。


「…退いて頂けますか」


顔も目も声色も、何もかもがいつもと変わらないはずなのに、はっきりと分かる。
お前は要らない、という彼の意志は明白だった。


「本当にお前は、俺好みだよ。ミシェル」


下衆の声。
行く手を阻んだまま、拒絶の意志を受け入れない。
ミシェルさんの腕を掴み、汚い顔を近づけて。


「…どうやら薬が効いてきたようだな?」


細い腕。
いつもと変わらない、整った顔。
遠くの街の灯りに浮かび上がる青と金の瞳、それを遮るガラスのレンズ。


「…何の、ことですか」


それが全部、芝居だったなんて。


「なに、さっき飲ませたあれの中に、いい薬を入れさせてもらったんだ。気持ちの良い、いい薬を…、な」
「はっ…口説くのどころか、冗談まで下手糞だとは失望しました。手を、離してください?」
「もう平気なふりは出来ないみたいだな…声が震えているぞ? ああ、手足もガタガタだな…体が疼いて我慢できないだろう? ミシェル?」
「…僕に触らないでください」


いつからだろう。
もしかしたら、初めから?
初めからずっと平気なふりを?
俺はそれに気がついていなかった?

あの男よりも、気がつくのが遅かった?

俺は弾かれるように立ち上がった。


「が、ぁ…?!」


体が、自分のものではないくらいに軽い。

此方に背を向けながらミシェルさんに触れていた男の背に膝で蹴りを入れ、より一層汚い声を聞きながらもう一度、堅い下駄で踏み抜くように蹴る。
状況を飲み込ませないまま、触れたくは無かったけれどもその後ろ首を掴んで、壁まで投げつけた。

よく見たら、俺よりもだいぶ図体がでかい。
そんな些細なことすらも気に入らなくて、だらしなく床に転っているのを胸倉で掴み上げて、目についたところから次々と殴りつける。顔、腹、胸、肋骨のあたり。気絶しても構わず、何度も、何度も。
適当なところで止め、殴打されて醜く歪んだ顔に唾を吐き、手を離して床に叩き落とす。


「奇遇ですね、ミシェルさん」


何事も無かったかのように、振り向いて微笑む。
いや、違う。汗だくで、息は絶え絶えで、少し返り血がついているけれど、何事も、無かったのだ。


崩れて不揃いになった床のタイルを下駄で鳴らしながら、床に跪くミシェルさんに近付く。
からん、かこん。


「さ、帰りましょう」
「貴方…何で…」
「立てます?」
「…っく、触らないで、ください…っ…」
「じゃあ、俺が図書館まで送っていきますね」


噛み合わない会話も、ミシェルさんとならば悪くはないけれど、彼があまりに苦しそうだから今はやめておく。
肩を貸すようにして腕を引いて、そのまま立ち上がってもらう。
腰に手を回して、支えながら歩き出す。男とは思えないくらいに細くて軽い体を伴って、元きた道を行く。


「大丈夫ですか? 」
「………」
「あ、足元、気をつけてください」
「…………」


思った以上によろめいている、それでも何も言わないミシェルさんを支えて歩く。
きっと傍目から見たら、酔い潰れたの友人を介抱しているように見えるんだろう。
いつもの背筋をぴんと伸ばし、凛とした佇まいの彼とはまるでかけ離れた、泥酔した人間のように覚束ない足取り。
倒れてしまいそうだからと腰に手を回すと、怯えたように体を跳ねさせた。


「ほら、もうすぐですよ……あ、見えてきた。ミシェルさん、ほら」


何度も転びそうになるミシェルさんを甲斐甲斐しく助けながら、彼の場所である、あの図書館まで帰ってきた。
大きな洋館のような造りのこの建物は、昼間や夕方に見るのとはだいぶ様変わりして見える。
街外れに位置していて、加えてこの時間のために周りには人気もなくしんと静まり返っていた。

ミシェルさんの首から下がっている図書館の鍵を使って扉を開き、ふたつ分の体を押し入れて、元あったように扉を閉じて鍵を掛ける。
図書館の中は外界と遮断され、耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。灯りは無いが、窓から差す月光が今日はやたらと明るい。


「ミシェルさん、」


腕の中で縮こまって下を向いたミシェルさんの顎をくいと引き寄せた。
闇の中でもはっきりと分かる、冗談のように真っ赤な頬と、不安げに泳ぐ眼差し。
可哀想で可哀想で仕方なくなってくる。可哀想なミシェルさん。下衆に連れ去られて、暴行されそうになっていた、可哀想なミシェルさん。
こんなに怯えて、震えている可哀想なミシェルさん。

彼のこんな惨めな姿を見たのは初めてで、胸が締め付けられるような思い。

けれど、その胸を締め付ける感情の正体は、決して綺麗なものではない。
もっと薄汚くて、先程ぼろぼろにしてきたあれ以上に醜い、ひどく残虐な感情。


「んぁっ、ふ、あぁっ…!」


濡れた薄い唇に、乱暴に口付ける。
逃れようと藻掻くのも可哀想。
薬とやらが作用しているのか、身体がいう事を聞いていないのも、可哀想で仕方が無い。
その弱々しくてなんの意味も成さない抵抗に、嗜虐心は更に燃え上がる。
絡めた舌が、熱い。


「ひゃめ、て…ぇ…! やあぁっ…!!」


押さえつけた腰が面白いように揺れる。腕にかかる体重から察するに、もう立ち上がることもままならないようだ。

それでも彼は、そこまで暴いたのにも関わらずとても綺麗で、可哀想で本当に愛しくて、だから壊してしまいたくて、堪らない。

絶対に逃げられないと分かっているのに強く強く腰を抱き締めて、たっぷりといたぶるような口づけを続ける。
舐めて、絡ませて、吸い上げるように。ぴちゃりぴちゃりと音を立てて。


「あぁっ…ん、あ、ぁあああぁぁっ!!!」


一際甘く嬌声を上げ、触れていた腰が痙攣するように跳ねたのが伝わってきた。
乱れた呼吸に混じる喘ぎ声を聞きながら、舌を抜き、更に強く体を抱き締めた。








「すみません、ミシェルさん」


ミシェルさんへ、謝罪の言葉。わけがわからない、と言わんばかりのミシェルさんの髪を撫でる。

いきなり驚かせてごめんなさい、ではなくて、これからしようとしていることを思うと、流石の俺でも謝らざるを得ないのだ。
そんな企みも、たぶん今のミシェルさんには分からないんだろう。そう思うとまた、彼が一層愛おしく、可哀想になる。


「それじゃ」


何も明かそうとしないこの人のことを他の誰より一番知っているのは、きっと俺だから。


「えっ…?」


俺は笑顔で、支えていた手を離した。
花が散っていくように床に崩れたミシェルさんは、今まで見たどんな彼よりも、ずっと……。


「また明日。おやすみなさい、ミシェルさん」


からん、ころん。
俺は笑顔のまま背を向けて、今しがた入ってきたばかりの扉に手を掛けた。





***
続くかも知れない。





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