アキは数学が苦手だ。小学生の頃の算数はまだ理解できていたが、数学は、一度躓くとそこから連鎖的に理解できなくなっていく。気づかない内に思考の迷路に入り込み、抜け出すのは相当至難の業だ。アキは何度兄弟たちの手を借りたか知れない。
――どうしてこうも対極なのか。
こちらがこれほど悩まされているというのに、アキの片割れは、なにを悩む必要があると言わんばかりに、あっさりと解答を導き出してみせる。
(確かにマサは昔っから器用だけどさ……つか、数学に器用さって必要なのか?)
集中力が落ちてきたことを自覚し、アキはため息をついた。
「そこはこの公式じゃよ」
「うおっ?」
いきなり横から伸びてきた腕に驚いてアキが振り返ると、いつ入ってきたのか、背後には今し方まで考えていた片割れの姿があった。
「おどかすなよ雅治……」
暢気に欠伸をする雅治にアキは脱力し、机に広げた教科書を示す腕を目で追う。スポーツをしているにしては白い手だな、とアキは思ったが今気にするのはそこではない。雅治は、少し前に習った公式のひとつを指さしていた。
「あー、そっちか」
「お前さん、この間もおんなじとこで引っ掛かっとったぞ」
「覚えが悪いのは承知してるよ」
教えてくれてありがとな、とアキは早速問題に取り掛かる。
背後にいた雅治は、つきっきりで見てくれる気はないようで、ふっと気配が遠のく。アキがちらりと見やると、雅治は二段ベッドの下段――自分の寝床から、愛用のタオルケットを引っ張り出していた。長年使われ続けくたくたになっているが、彼の安眠には欠かせない物だ。
それを手に、雅治はベッドに掛けられた梯子を上っていく。
「上、借りるぜよ」
「ああ、別にいいけど」
昼寝などでベッドを使う時、雅治は必ずアキのスペースである上段で横になる。本人曰く、上の方が寝やすいらしい。なら寝床を交換しようかとアキは一度提案したが、夜中にトイレに行くのがめんどいと、身も蓋もない理由を返され、その話はそこで終わった。
布団を動かす音を耳に入れながら、アキはノートに数式を綴っていく。アドバイスのおかげもあり、続く問題もなんとか解けそうだ。
やがて、寝やすい位置に落ち着いたのか、もそもそとしていた雅治は静かになった。
「おやすみー」
「……んー」
+ + +
アキはノートと教科書を閉じ、椅子の背もたれに疲れ切った身体を預けた。腕を上に伸ばすと、固まった肩や首が少し痛む。
首に手を当て、軽く回しながらアキは息を吐く。
今日の分はこれまでにして、休憩でもするか――そう思ったアキが立ち上がると、廊下を走る足音が聞こえてきた。躾にうるさいこの家で、軽率ともいえるそんな行為をやらかす人間は限られている。
というか、ひとりしかいない。
アキたちの部屋の前で足音は止んだ。ノックもおろそかに、ドアを開けたのは案の定、末っ子の赤也だった。
「あ、アキ兄ちゃん、マサ兄ちゃんは?」
なんだか楽しそうな様子の赤也に、廊下は走るなと忠告すべきかアキは考えたが、末っ子の躾は上の兄たちの担当で自分までうるさく言う必要はないかと、小さくため息をつくに留めた。
「マサなら、昼寝してるぞ」
「ええっ? テニスの相手してくれるって言ったのに!」
「ああ、そういや昨日、そんな話してたな」
赤也は不満げな顔でアキを見上げている。
ころころと表情の変わる赤也の頭を撫で「ちょっと待ってろ」と宥めすかし、アキはベッドに歩み寄る。相手が簡単に起き出さないことはアキ自身、充分すぎるほど知っているが、可愛い末っ子の願いだ、無下にもできない。
アキは梯子に足を掛けて上段の柵に腕を乗せ、眠っている雅治の肩を揺すり始めた。
「おいマサ、赤也と約束してるんだろ? 起きろー」
「…………」
反応のない雅治に、アキは更に強く肩を揺する。
「まーさーはーるー」
「……や、めぇ」
「だったら起きろよ。赤也が待ってるぞ」
「今日は気分が乗らん……延期じゃ延期」
「なっ、ひっでえ! マサ兄ちゃんのうそつき!」
「雅治、お前な……」
下でぎゃいぎゃい騒ぐ末っ子と、あくまで無視を決め込む片割れに挟まれ、アキは深く息をついた。
――こうなったら、奥の手だ。
「赤也」
「えっ、あ、なに?」
「ヒロ兄か、レン兄呼んで来てくれ」
「あー! 起きればいんじゃろ、起きればっ」
ばさっ、と雅治が乱暴に布団を跳ね除け起き上がった。
この家で最も厳しいのは次兄の弦一郎だが、雅治にとって最も厄介な相手はくだんのヒロ兄とレン兄――比呂士と蓮二の二人だといえる。
この二人を敵に回すことほど、面倒なことはない。
「虐待じゃ……俺の味方はおらんのか……」
「普段の行いを省みろ。赤也、早く準備してきな」
「うんっ! アキ兄ちゃんありがとう!」
嬉しそうな顔で、また廊下を走っていく赤也にアキは苦笑した。
乗っている梯子にもたれ、そんな赤也を見送っていたアキの首に、後ろから腕が回される。
陽に焼けていない腕は、それでもしっかり筋肉がついていて、見た目の印象以上に硬かった。
視界の端に入った銀髪が、アキの頬をくすぐる。
「アキ、お前さんも道連れにしちゃる」
耳もとで恨みがましい声を出す片割れの頭を、アキは笑いながら優しくたたいた。
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