少しの躊躇いを振り切るよう、深亜は強く呼び鈴を押した。
磨り硝子になっている玄関の引き戸越しに人影が見え、誰何もなく戸が開けられる。
いつもきっかり時間通りに訪ねてくる深亜に、それは不要だと相手は判断したのだろう。
戸の向こうから現れた顔は、深亜を見留めた途端にほころんだ。
そんな相手の態度に、深亜は気づかれぬほどかすかに眉をひそめる。
「いらっしゃい、深亜」
「――お邪魔します」
玄関をくぐり、後ろ手に戸を閉める。
後戻りは、もう出来ない。
+ + +
幼い頃から家族ぐるみで親しくしてきた千歳家の母から、息子の勉強を見てほしいと頼まれたのは、深亜が大学への入学を期に実家を離れ、千歳家の近所に部屋を借りた頃のことだった。
四つ歳の離れた幼馴染みは今年で中学三年になり、来年は高校受験という大変な時期だ。
それなのに部活動に明け暮れ、試験の結果も平均点すれすれの息子に、母親もさすがに悩みはじめたという。
勉強だけが学生の本分ではないが、出来ないよりは出来るに越したことはない。
そこで白羽の矢が立ったのが、深亜だった。
千歳家の母には昔から深亜も世話になっている。そんな人から頼まれれば、深亜も断るのに忍びない。
人に勉強を教えたことなどなく、正直に言えば決して乗り気ではなかったが、引き受けてしまった以上はやり遂げなければという責任感が深亜の中に生まれた。
幸い、彼は呑み込みが早かった。数学と歴史が得意というのは大いに深亜の負担を減らした。
このまま、順調にいけばと深亜は思っていた。
――どこで、道を外れてしまったのだろうか。
千歳家の両親は共働きで、今の時間――平日の夕方は、家には彼と、妹のミユキしかいないことが常だった。そのミユキもテニスの練習などで帰っていないことが多く、必然的に千歳と深亜のふたりきりという状況も多くなる。
勉強を教えるのは、千歳の自室で。
無意識に、部屋へと向かう足が遅くなっていた。
千歳の自室へ入り、勉強机代わりのローテーブルの前に腰を下ろす。
深亜の左側に千歳は落ち着く。
共に過ごすようになってから、この立ち位置だけは変わらない。
鞄の中から眼鏡ケースを取り出し、深亜は眼鏡をかける。
「今日は英語だったっけ」
「そん前に――古典の小テスト、今日返されたばい」
ぴくり、と深亜は肩を揺らす。
そんな深亜に気づいているのかいないのか、千歳は座ったままで上半身を伸ばして床に放っていた学校鞄を掴み、引き寄せたその中から、しわの寄った答案用紙を引き抜いた。
ん、とテーブルの上に広げられたそれを、深亜は感情を殺して見つめる。
「満点なん、はじめて取った」
「……教え甲斐のある生徒ですこと」
「先生ん教え方の上手かけん――それに」
ごほーびのあった方がやる気も出ったい。
にこりと笑いかけてくる千歳から、深亜は視線を逸らしたくなる。
しかしそれを咎めるかのように「深亜」と甘やかな声に捕らえられ、動くことすらままならない。
「約束……守ってはいよ、先生?」
古典のテストが行われる前日、深亜は千歳とひとつの約束を交わしていた。
千歳から持ちかけられたそれは、容易に承諾できるものではなかったが、条件が条件なだけに深亜は渋々と要求を呑んだ。
目の前に餌をぶら下げるという思惑があったことも確かだ。
――満点だったら、深亜からキスして?
まさか本当に満点を叩き出すとは、彼には悪いが深亜は思っていなかった。
「…………」
ふっ、と息をつき、深亜は目を伏せる。
外した眼鏡はテーブルの上に放り、膝立ちになって千歳と向き合う。
少しだけ千歳を見下ろす目線を、新鮮に感じる。
「……目、閉じて」
笑みを崩さないまま、千歳は素直に目を閉じた。
深亜は幾度かの逡巡を繰り返し、千歳の肩に置いた手に力を込める。
静かに顔を寄せ、深亜も目を閉ざした。
そっと、唇同士が重なる。
「んぅ……っ?」
離れようとした一瞬を衝き、後頭部を押さえ込む手に不意を打たれ深亜は目を見開いた。
千歳は愉悦に目を細めている。
腕を突っぱねてみるも、男の力には到底適わない。千歳相手ならそれはなおさらだ。
「ふっ、う……」
滑り込んだ舌に舌を絡め取られ、肩に置いた手が拳を握る。
逃れようとする舌を執拗に追いかける舌が口内で暴れ、深亜はふるりと身を揺らす。
ぐっ、と唐突に腰を抱き寄せられ、深亜は千歳の胸へ傾れた。
「はっ……せ、んり……やめ、あっ」
のし掛かる重みに床へと倒れた深亜の腕を取り、千歳はひとまとめにし深亜の頭上で縫い止めてしまう。
上から注がれる、欲を孕んだ眼指しに、深亜の細い肩が竦む。
「や、めなさい……千里……っ」
「はぁ……今さら、遅かよ」
首筋に甘く歯を立て、湿った唇がやわらかな肌を嬲る。
服の中に入り込んだ手が舐めるようにじっとりと皮膚の上を這っていく。
深亜は絶望に似た感情に押し潰されそうになりながら、身体から力を抜いた。
今さら――そう、今さらだ。
はじめてのあの時に千歳を拒まなかった時点で、すべては終わっていた。
拒絶など、所詮口先だけのもの。
この関係が決していいものとは思えない。
けれど他にどうすればよかったのか、あの時も――そして今の深亜にもわからない。
泣きそうな顔で名前を呼び、縋りつくように自分を掻き抱く千歳を、突き放す術が深亜にはわからなかった。
迷いながら、頬に触れた手に、儚く笑った千歳の顔を深亜は今でも覚えている。
ひと粒の滴が、深亜の胸を濡らした。
「深亜……なん考えとっと?」
「んっ……は、ぁ……」
「今は俺だけ見とって……他んこつなん考えんで……っ」
「ふ、あっ……千里のこと、考えてただけ、だよ」
歪んだ目もとに指先を添えると、不器用に笑った唇が深亜の指先にくちづける。
「深亜……深亜……」
「あっ、あ……」
「深亜……深亜も名前、呼んで」
「っ、はぁ……せん、り」
「もっと」
「……千里」
「もっと呼んで……俺んこつだけ考えて」
「せ、んんっ……はっ、あ……せ、んり」
「深亜……っ」
ぎしりと、必死に求める腕に深亜の身体が軋む。
迷い子をあやすよう、深亜は優しい手つきで千歳の頭を撫でた。
+ + +
とん、とん、とノックキャップで顎の辺りをたたくのが、考え込んでいる時の千歳の癖だ。
そろそろ思考を放棄する頃だろうかと、深亜が思った矢先に、部屋の扉をノックする音が沈黙を破った。
扉を開いたのは千歳家の母だった。
夕飯の時間を告げ、深亜にも食べていくようにと勧めて扉を閉めていく。
「それじゃあ、今日はここまで。残りは明日までの宿題ね」
「……は〜い」
嫌そうな声を返す千歳の髪をくしゃりと混ぜ、深亜は眼鏡を外した。
雑に教科書やノートを重ね、その上にペンと消しゴムを放る千歳についため息をつく。
さっさと立ち上がった千歳を目で追えば、自然と掌が差し出される。
帰り支度を終えた鞄を置き、深亜は思うよりも先に諦めてその手を取った。
立ち上がり、扉へ向かおうとするが、繋がれたままの手が深亜の動きを止める。
振り返れば、あの時と同じ、儚げな笑みを浮かべた千歳と目が合った。
「千里……?」
なにも言わないまま、千歳は深亜を抱き締める。
この子どもを、どうして突き放せると言うのだろうか。
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