(生徒×司書の先生)



 ばたばたと廊下を駆ける音が近づいてくる。
 授業中の今、その足音は大きすぎるほど図書室内に響いている。
 深亜はかすかに眉をひそめ、手もとの本から顔を上げる。と、そのタイミングを見計らったように、図書室のドアが開けられた。
 軽く息を切らし、室内を覗くのは生徒指導も担当する年配の男性教諭だった。
 苛立ちもあらわになにかを探る様子を見せる男性教諭は、貸し出し手続きを行う、小部屋にいる深亜と目が合うと「ああ、安藤先生」と弱り顔に変わる。

「千歳の奴、見てませんか?」
「いえ……こちらには来ていませんが」
「そうですか……もし見かけたら、放課後に職員室に顔出せと言うといてください」

 ほんまにあいつは……と呟きながら、深亜の返答も聞かずに教諭はドアを閉め、また大きな足音をさせて行ってしまった。
 足音が完全に遠ざかったところで、深亜は深くため息をつき、傍らにちらりと目線を落とす。

「だそうだけど? 千歳くん」

 小部屋は全面ガラス張りになっているが、テーブルやらが壁となり、覗き込まなければ足もとまでは見えない。
 マットの敷かれた床に座り込み、その大柄な身体を潜めていた千歳は、苦笑しながら深亜を見上げる。

「どーせ説教されるだけだけん、見逃してはいよ、深亜センセ」
「名前で呼ばない。いずれお説教されるなら、今日も明日も変わらないじゃない」
「深亜センセきっつー」
「君は、人の話を聞いてる?」
「“君”じゃなかよ、千歳せーんーり」

 ことさら名前の部分を強調する千歳を半目で見やり、深亜は読みかけの本へと視線を戻す。

「真面目に授業も受けない生徒の言うことを、聞いてあげる義理はない」
「ははっ、深亜は厳しかね」

 こつりと、深亜は千歳の頭を小突く。
 痛くもないくせに「体罰ばい」と嘯く千歳は、こちらを見向きもしない深亜の膝に顎を乗せ、その細い腰へ緩く腕を回す。
 深亜は一瞬だけページをめくる手を止めた。

「……まったく」

 呟きと共にため息をつき、深亜は膝の上の癖っ毛を指でかきまぜる。

「もうすぐ試験なんだから、あまりサボってばかりだと悲惨な結果になるよ」
「そん時は深亜先生に泣きつくけん」
「わたしに迷惑かけるなって、おばさんに言われてたと思うけど?」
「俺と深亜ん仲たい」
「もう“千里くん”の面倒は見ないよ」

 千歳はくつくつと喉を鳴らす。
 今の深亜と千歳は、図書室の司書とサボり癖の絶えないいち生徒という立場にある。
 受け持ちのクラスがあるはずもない深亜は一日の大半を図書室で過ごし、関わるのは数名の教師と生徒だけ。
 対する千歳は読書を嗜む性質(たち)でもなく、室内にこもるよりは風を感じながら無為な時を過ごすことを是とする価値観を持つ。
 普通に学校生活を送っている分には、およそ接点などないに等しい。
 かつての、近所に住む『深亜姉ちゃん』と『千里くん』の関係がなければ、二人が校内で顔を合わせることもなかっただろう。

「まあ、次ん時間は教室戻っけん。今は充電中」
「随分と無駄に電気を喰うこと」

 皮肉混じりの口調でも、千歳の頭を撫でる深亜の手つきは変わらない。
 千歳は口許に笑みを浮かべ、そっと目を伏せた。


 + + +


 授業の終わりを告げるチャイムがスピーカーから流れ、深亜はふっ、と意識をそちらへ向けた。
 この学校のチャイムは特徴的だ。
 意図的なのか、最後の一音がなぜか外れていて、初めて聞いたとき深亜は思わずスピーカーを凝視してしまった。
 放課後とはいえ、この図書室にやってくる生徒はほとんどいない。
 文武両道を謳っているゆえに部活動に全校生徒が勤しみ、校内でのんびりと読書に耽っている者など深亜くらいだ。
 誰も訪れない、静かな図書室内を、ページをめくる音だけが満たす。
 幼い頃から身体が丈夫でなく、なにかと制限された生活の中にあった深亜にとって、読書は唯一の気晴らしだった。休日は一日中自室にこもっていることもめずらしくない。
 そうして部屋の中で過ごしている深亜のもとへ、近所に住む小さな客人が訪ねてくることもまた、めずらしくはなかった。
 ひと回りまではいかないが、それほどに深亜と千歳の歳は離れている。しかし周りにそれ以上歳の近い子どもがおらず、遊びたい盛りの年頃だった千歳は、頻繁に深亜の部屋のガラス戸――一軒家で庭に面していた深亜の部屋へは、玄関から入るより庭へ回った方が早い――をノックした。
 降り注ぐ太陽にも負けない、輝かんばかりの笑顔で「深亜姉ちゃん!」と呼びかけてくる千歳が、深亜には眩しかった。
 けれど、いつでも真っ直ぐに自分を見つめる千歳を、受け入れない理由などない。素直な子どもは純粋に可愛くもある。
 幼いなりに、千歳は深亜の身体のことをわかっていたようだ。深亜を連れ出しておいて、千歳はひとり、なにかに夢中になっていることが多かったが、不意にこちらへ駆けてきては、深亜の体調を気遣う言葉を掛けていく。
 幼い顔に似合わない皺を眉間に作り、「からだ、わるくなか?」と問い掛ける言葉はたどたどしい。
 くしゃりと、深亜はそういう時、そんな千歳の頭を撫でてやった。やわらかな髪からは陽だまりの匂いが立つ。
 千歳はそうして、安心した顔でまた遊びの方へ駆け戻っていくのだ。
 深亜はその背中を、しばらく経ってふたたび振り返る時まで、飽くことなく見つめていた。

(……いつの間に、あんな憎らしいほど大きくなったんだか)

 読み終えた本を閉じ、深亜は小さく息をついた。ずっと同じ姿勢で固まった体をほぐし、本を手に椅子を引く。
 立ち並ぶ書架の間を歩き、整理整頓されたその中、一冊分のスペースをとったそこへ本をはめ込む。す、と吸い込まれるように本は元あった場所へ収まった。
 深亜は周りを見渡し、何冊かのタイトルを指でなぞったが、そのままなにも持たず踵を返した。
 誰も訪れないとはいえ、定時前に勝手に図書室を閉めることは出来ない。手ぶらのまま受付に戻ってもすることもなく、深亜は窓辺へ歩み寄った。空は穏やかに澄み渡り、ここ数日は予報通り、雨の心配はなさそうだ。
 ふと目線を落とした先、深亜は走り込みをしているらしい数人の生徒を見つけた。揃いのジャージは、深亜にも見覚えがある。
 後が続かないところを見るに、彼らがかなり差を作っているようだ。そのくせ、その表情はまだまだ涼しげで、笑いを交えて会話をする余裕を見せている。

(ああいう顔してれば、それなりに歳相応に見えるものね)

 自分で思っておいて、深亜はついふっ、と笑ってしまった。
 直後、こちらを見上げた目とかち合い、唐突なことに深亜は目を瞠った。
 そんな深亜を見留めた双眸はわかりやすいほどに緩み、唇がなにかを伝える。

『深亜』

 聞こえるはずがないのに、耳もとに残る声にふるりと深亜の身体が震える。
 遠ざかっていく背中から目を離し、浅く、深亜は息を吐いた。

「……悪ガキ」

 もれた恨み言は、誰にも聞かれることはなかった。

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