ポケットに入れた携帯電話が震え出す。
 深亜は一瞬だけ動きを止め、周りのクラスメイトに気づかれていないことを横目に確認した。
 ワンコールほどですぐに収まったバイブに、恐らくメールだろうと予想する。それでなくとも深亜はメールだと断定していた。
 深亜は必要最低限の人間にしかアドレスも番号も教えていない。その全員が、今の時間が授業中だと知っている。
 しかし、ひとりだけ。
 授業時間など気にもしていない人間が、深亜の電話帳に登録されている。

(こっちの都合、考えてないんだから)

 小さくついたため息も――無意識にゆるんでいた口許も、誰にも気づかれはしなかった。


 + + +


 そのメールはある日唐突に送られてきた。
 差出人の欄に記された幼馴染み――『千歳千里』の名に、まず深亜は軽く驚いた。
 メールは煩わしいと、幼馴染みはなにかにつけて電話で済ませていた。直に声を聴けるという理由もあっただろうが――千歳本人がそう言っていた――、深亜にしてもメールより電話の方が使用頻度も高かった。
 だから、こちらから送ることも稀なら、千歳からのメールもまた稀だった。
 めずらしいこともあるなと思いつつ、興味心をなかなかにくすぐられ、深亜は携帯を操作し、メールを開いた。
 題名は『無題』。
 彼らしい、と思うが――それは本文すら書かれていない、無言のメールだった。
 ただ、一枚の写真が添付されていた。
 自身の携帯で撮ったと思われるその写真を、思わず深亜は凝視する。

「なんで猫……?」

 その日から一日一通、猫の写メールが千歳から送られてくるようになった。
 黒、白、茶トラにまだら模様。日によって被写体となる猫は違っている。大人の猫の時もあれば、小さな子猫の時もある。
 なぜ千歳がそんなメールを送ってくるのか、深亜にはわからない。
 だが、毎日増えていくメールが、深亜のちょっとした楽しみになりつつあったりもした。
 家で動物が飼えない所為もあり、深亜は幼い頃から動物――特に猫と暮らすことに、強い憧れを抱いてきた。多分に猫好きの相手に影響された感は否めないが、文句をつけるつもりはない。今でも猫を好きでいるのは、深亜自身の意思だ。

(……可愛い)

 最近生まれたという、小さなきょうだいたちの姿に、ふっ、と深亜は唇をゆるめる。
 母猫に寄り添い、安心しきったように眠っている様は、見ているだけで優しい気持ちにさせてくれる。
 ふと、深亜は端の方で手足を伸ばしている黒猫に目を留めた。他のきょうだいと違い、その子だけが毛に癖がついている。
 見た目にもふわふわとしている黒い毛を持つ猫が、深亜の脳裏で誰かと重なる。つい深亜は吹き出すところだった。
 返信画面を起こし、キーを打っていく。

『千里がいる』

 自分で打った内容にまた吹き出しかけ、深亜はさっさと送信ボタンを押した。
 画面上では送信中、という文字と一緒に、黒猫のキャラクターがぴょこぴょこと動き回っている。いつの間にか、幼馴染みによって勝手に設定されていたそれに、深亜は目を細める。
 さすがに学校へ向かったのか――写メールが送られた時はあきらかに登校中だった――遅刻上等にもほどがある――返信はなかったが、深亜は唇に微笑をのせたまま、携帯を閉じた。


 + + +


 日が暮れるにはまだ早いが、放課後の校舎内に人の気配はほとんどない。
 手伝いとして生徒会活動の雑務を片づけ終える頃には、聞こえるのは外からの運動部の声だけになる。
 下駄箱で靴を履き替え、とん、と爪先で地面をたたく。鞄を持ち直し、歩き出そうとした、その瞬間を狙ったかのように、ポケットから振動が伝わってきた。
 ワンコール――メールだ。
 携帯を取り出し、受信したそれを開く。

「ふっ……」

 周りに人がいなくて幸いだ。くすくすと小さな笑い声をもらしながら、深亜は携帯画面を見つめる。
 画面いっぱいに、そこだけが真っ白い腹を見せ、こてんと寝こけている黒猫が写っている。
 そのあまりにも幸せそうな寝顔に、ついつい笑いを誘われる。
 不意に手の中で携帯が震え出し、表示されている名前を見て深亜は通話ボタンを押した。

「もしもし?」
『メール見た?』
「よく眠ってることで」
『突っついてもなかなか起きんけんね』
「千里も、眠ったら簡単に起きない子どもだったっけ」
『そっは深亜も一緒たい』

 互いの笑い声が耳をくすぐる。

「いいな、触りたい」
『ん?』
「ちっさな“千里”、ふわふわだもの」
『誰んこつ言うとっと』

 苦笑じみた声に「さあ?」と深亜はとぼけてみせる。
 深亜の中で黒猫の名前はすでに確定済みだ。

『ばってん、俺だけやのうて深亜もおったい』
「……わたし?」
『ロシアンブルーかいね。滅多ん近寄らせてくれんばってん、甘えた声のたいが可愛かー』
「……千里がわたしに対してどう思ってるか、よーくわかった」
『深亜はいつも可愛かて思っとるよ』
「……はぁ」
『なんしため息つくと』

 くつくつと喉を震わせている様子が目に浮かぶようで、深亜はかすかに眉根を寄せる。

「千里の言葉を真に受けてたら、無駄に疲れる」
『俺はほんなこつしか言うとらんたい』
「も……うるさい」

 このまま切ってしまおうかと思ったが、それはなんだか負けたようで悔しい。
 小さく、深亜は深呼吸をした。

『深亜?』
「…………」
『深亜サーン? 怒っとっと?』
「……怒るのも馬鹿らしくなってくる」
『ははっ、呆れんでよ』
「知らない」

 突き放すような言葉にも、返ってくるのは鷹揚とした声音だ。

『深亜はもう家ね?』
「……まだ。帰ってる途中」
『ひとりで?』
「そうだけど」
『だけん、深亜は危機感のなさすぎばい。都会なん変な奴の多かけん、いつ襲われっかわからんとに……前ん俺の言うたこつもう忘れとっと。だいたい深亜は』
「もうわかったからいいっ」
『んにゃ、わかってなか。ただでさえ深亜は人目ば引きやすかけん、もうちぃと周りん気ぃ張りなっせ。隙のありすぎっと』
「あー、もぉ……――駅着いたから切るよ」
『あ、こら深亜』
「それじゃあね」

 ぱちんっ、とやや乱暴に携帯を閉じる。
 駅に着いたのは本当だ。深亜の背後に混ざる雑然とした音に、千歳にもそれは伝わっていただろう。

(……どうせ夜にまた掛かってくるだろうけど)

 その時になんと言って丸め込もうか――
 巧い突破口が簡単に見つかるはずもなく、深亜はため息をつくしかなかった。

「……あ」

 軽く空を仰いだ姿勢で、深亜は固まった。
 まだ青い空の中――視線の先に、ひとつの雲が浮かんでいるのが見える。
 ちらりと周りを窺い、深亜はなるべく死角になるような場所へ移動した。その行動を見られるのは、少しばかり気恥ずかしい。
 閉じた携帯を開き、カメラマークのついたキーを押す。
 レンズを空へ向ければ、勝手に雲へピントを合わせてくれる。
 ポーン、という高い音が撮影完了の合図だ。

(ふぅん……まあまあってところか)

 保存を選び、ふたたび携帯を閉じる。
 送るのは家に着いてからでいいだろう。

(悪足掻きくらいには……なるかな)

 もう一度空を見上げ、深亜は駅の中へと入っていった。
 ぷかりと漂う猫の顔――それはさながら、チェシャ猫のように見えた。



03メール


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