夕陽に染まる廊下は、とはいえまだ寒さが厳しく、ふるりと肩が震える。
明かりの消えた教室が並ぶ先に光が見えた。ほっ、と千歳は思わず息をもらす。
ドアを開ければ、静まり返る教室内でただひとり、椅子に座っている後ろ姿があった。
「深亜」
千歳はドアのところから呼びかける。
しかしなぜか、後ろ姿は振り返らない。
ほとんどの生徒が帰った放課後、理由もなくひとり残っている生徒などまずいない。待っていてくれるよう頼んだのは千歳の方だ。
少し待たせすぎたか――恐る恐る後ろ姿へ近づく千歳は、俯き気味の深亜の手もとにある本に気づき、がくりと肩を落とした。
本を読み始めると、深亜はまず周りが見えなくなる。
幼い頃は散々泣かされたその悪癖も、今はしょうがないと流せるようになった。
……少しばかり悲しい気持ちになるのは否めないが。
千歳はわずかな気持ちをため息で紛らせ、余計な音を立てぬよう気を払いながら、深亜の隣の席を引いた。
机に乗せた腕を枕に、見上げる目線でその横顔を見つめる。
長い睫毛に縁取られた瞳は活字を追うばかりで、やはり千歳に気づいている様子すらない。
その集中力にはいっそ感服するが、一点集中のあまり注意力があまりにも欠けるのが、深亜の悪いところと言える。
身体に直接触れればさすがに気づきはするも、じっと凝視しているだけでは目もくれない。
それでなくとも深亜は他者の目に疎いところがある。読書中の深亜に気づけというのはなおのこと、無理な話だ。
もし、千歳自身より先に、他の誰か――男子生徒――が彼女を見つけていたら。
なにも起こらないとは言い切れないのに。
(……ほんなこつ、余裕のなか)
想像に腹を立てていれば世話がない。
こと深亜に関しては狭量になる自身に、わかっているからこそ千歳はため息をつくしかなかった。
そんな千歳に当然気づくはずもなく、視線の先の深亜は活字に耽っている。
ページをめくるかすかな音に、千歳は目をそちらへ向ける。
無意識にか、ページの端を引っ掻いている、その指の細さを改めて知る。
熱の失せた指は白く、触れた時の冷たさを思い出した千歳は、知らず眉をひそめていた。
今すぐ深亜の手を攫い指を絡め熱を分かち合いたい。
冷えた肩を抱き、色の引いた頬を包み、唇からとろかせてしまいたい。
(いかん……箍外れる)
千歳はやや乱暴に椅子を蹴り立ち上がると、まだ周りの見えていない深亜の前に移動した。
上から掴む形で本を押さえる手に、瞬間深亜は目を丸くする。
物語の世界から現実の世界へ、目に映る世界を切り換えるよう徐にまたたき、ようやくその顔を上げる。
「千里」
「お待たせしました」
「ん……いま何時?」
そう言って、黒板の上に備わっている壁掛け時計を仰いだ深亜は、「もうこんな時間」と呟いた。
「いつからいたの?」
「今来たばっかたい」
「ふぅん」と気のないような返事で、深亜は栞を挟んだ新書本を鞄の中へしまう。
静かに引いた椅子を直し、窓の方へ歩いていく深亜を千歳は目で追う。
細い指が窓枠にかかり、少しだけ開かれる。「そんなに寒くないか……」ふっ、と吐息と共にこぼし、深亜は窓を閉める。
千歳は無言で近づき、腕を伸ばして施錠している無防備な背中を抱き込んだ。
寒くない、と深亜は言うが、カーディガンを着ていてもその肩は冷やされ、頬に触れる髪も同様に冷たい。
中途半端に上げられたままの手を捉え、指先にくちづける。氷のような冷たさが唇に凍みる。
抱(いだ)く背がぴくりと跳ね、「千里」と窘めるような声音に名前を呼ばれる。
なんの危機感も持たず、振り向いた深亜の唇に千歳は無遠慮に喰らいついた。
薄らと熱の広がる唇に舌を這わせ、ちゅっ、と軽く吸う。
「ふ、ぅ……」
するりと口内にすべり込み、奥へ逃げようとするやわらかな舌を捕まえた。
音が立つほど執拗に触れ合わせ、寒さではないなにかに震える指に指を絡ませる。
遊ぶように細い指を握ったかと思えば、あからさまな意図を持って指の腹で手の甲をさする。
「んぅ……っ」
深亜の爪が布地越しに腕に立てられる。
思った通りの反応を見せる深亜に、千歳は口端をつり上げる。
じっとりと歯列をなぞり、頬の内側を舌先でくすぐる。
泣きそうに歪む眉が千歳をぞくりとさせる。
唇を放し、呼吸を乱す深亜の顔を見つめながら、千歳は指の背で頬を撫でる。
朱を上らせた肌は熱く、浮かされたように潤む瞳で自身を見上げている深亜に、千歳は満足げに相好を崩す。
艶やかな髪を撫で梳き、目尻やこめかみにくちづけを落としていく。
「ん……はよ帰ろかね」
「……誰の、所為だと……っ」
呼吸は整ってきたが、まだ動けるようにはなっていないらしい。
千歳の腕に大人しく抱かれたまま恨み言を口にする深亜に朗々と笑いながら、千歳はほのあたたかなぬくもりを全身で味わう。
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