知らぬ間に降りはじめていた雨は朝日を隠し、電灯の点いていない部屋の中を薄くあばく。
 雨の日は嫌いではない。傘を差して水たまりをレインブーツで掻き混ぜたくなる衝動はいくつになっても抑えられないし、部屋の中で読書にいそしむいい口実にもなる。
 窓辺に座り込み、差し込む明かりを頼りに文字を追う。普段ならば畳に足を投げ出すなんて真似はしないが、今はその所作を咎める声はここにはない。
 祖父母がいる居間からかすかにもれる音さえ雨に吸い込まれ、たん……たん……と雨がどこかを打つ音だけが部屋に落ちる。
 ひとりきりの時間を、こんなに穏やかに過ごすのはいつ以来だろうか。
 あの家では気を張り詰めているのが日常だった。行動のひとつひとつが、祖母の目を気にしながらの日々だった。
 積み重なった時間はそのまま重荷となって圧し掛かり、深亜の心を少しずつ押し潰していった。
 その結果が、今ここにいる深亜自身となった。
 いつの間にか、深亜の手は頁に掛かったまま止まっていた。
 ぼうっと視線は一点に留まる。
 手もとを見つめる目は空ろに揺らぎ、活字を追うことを忘れる。
 たん……たん……と雨垂れの音すら遠のいていく。
 思考の海に沈んでいく――寸前に、自分の名前を呼ばれた気がして、深亜の意識は急速に浮上した。
 徐にまたたき、部屋と廊下とを隔てる襖へと目をやる。――もう一度。今度ははっきりと祖母の声が届いた。
 深亜は少し声を張り、「はい」と短く返事をして立ち上がった。襖を開ければ室内よりさらに薄暗い廊下が伸び、ひやりとした床板の温度を足裏に感じながら、声のする玄関へと向かう。来客だろうか――廊下を折れて見えた訪問者に、深亜は軽く目を瞠った。

「千里、……ミユキ?」
「おはよーさん」
「深亜ちゃん! ひさしぶりっちゃ!」

 ぴょこん、とふたつに括られた髪が跳ねる。少女の心情をそのまま表しているその動きに、深亜はくすりと笑みをこぼした。

「久し振り。大きくなったね、ミユキ」

 幼い頃から――それこそ少女が生まれたての赤ん坊だった頃から、一年ごとに成長を見てきた。少女と最後に会ったのは、まだ彼女が小学校に上がる前のことだ。
 三年間で急速な成長を見せたのは、兄のほうだけではなかったらしい――兄妹の母親の顔にどことなく重なるなと、深亜は思った。
 可愛がる手つきで頭を撫でれば、大きな瞳が嬉しげに細まる――その目もとは兄そっくりだ。

「朝からふたりでどうしたの?」

 ミユキの髪に触れながら、深亜は兄妹の顔を交互に見やる。
 朝も早くからという時間帯ではないが、昼食にはまだ早い時間だ。
 兄のほうは部活動に励んでいる時間でもあるが、この天気では活動を中止せざるを得なかったのだろう。
 深亜の視線を受け、兄妹は目を合わせる。「ん、と……」切り出したのは妹のほうだった。

「深亜ちゃん、今日はなんかやるこつあるとね?」
「今日、やること? ……特にない、かな?」

 ぱっと、おさな顔に喜色が広がる。その真っ直ぐな素直さが、深亜の目には微笑ましく映る。

「じゃあ、じゃあねっ――勉強、教えてほしいっちゃ」
「勉強?」

 突然のお願いに深亜は目をしばたたく。どういうことかと兄のほうへ視線を向ければ、困ったような笑みが返される。
 兄ならば妹の勉強を見てやれるだろう。まさか小学校低学年の内容がわからないわけではあるまい。
 そう思う深亜に、ミユキは「だってね」と深亜の手を握り訴えかける。少しばかりとがらせた唇は不満を表している。

「お兄ちゃん、教えるん下手っぴやもん」

 思わず深亜は吹き出してしまった。

「ミ〜ユ〜キ〜」
「うーっ!」

 少女の背後から影が迫り、見た目どおりのやわらかな頬が伸ばされる。顔を振ってやっとの思いで魔の手を逃れ、自分より遥かに高い位置にある顔を睨みつける妹と、しれっとした態度でその眼指しを受け止める兄を、深亜は呆れながらも微笑って見ていた。

「なんすっと!」
「今まで教えてもらった恩も忘れて、なん言いよっとや」
「ほんなこつばいっ」
「人の家の玄関で喧嘩しない」

 ふたたび伸ばされようとした魔手に気づき、深亜はミユキを庇うようにその身を引き寄せた。兄が本気で怒っているわけではないとわかっているが、妹のほうはなかなかに本気だ。
 赤みの差す頬を労る手で撫で、深亜はミユキの意識をこちらへ向けさせた。

「わたしも教えるの上手かわからないけど……なにを教えればいいの?」
「国語、と社会」

 それならば、大丈夫か。
 実を言えば深亜自身も世界史を苦手としているが、小学校レベルの内容ならば問題ないだろう。第一に小学校では世界史日本史その他引っくるめて『社会科』だ。

「ん、わかった。準備してくるから、ちょっと待ってて」
「うんっ!」

 力強く頷き、そのままぴょんぴょんと跳ね出しそうな勢いのミユキに微笑い、深亜はふっと目線を上げる。

「お兄ちゃんのほうは大丈夫ですか?」

 深亜の口調は心配のそれではなく、揶揄の色を呈している。
 しかし受けた当人は悠々とした笑みを浮かべ、

「奥の手があっけん、心配なか」
「奥の手?」
「知らぬ存ぜぬば突き通す」
「こら」
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