風の冷たさがまだ身体の芯に響く、二月の初頭。
 現役を退き、後役を次の世代に譲り渡してすでに半年が経とうとしている。激動の三年間を終え、涙を飲んだ最後の夏も、少しの悔恨は残るが懐かしいと笑えるようになった。
 放課後になり、廊下に人があふれる。
 すべてを注いできたといってもいいほどテニスに明け暮れてきた日常にはぽっかりと穴が開き、自由になる時間が一気に増えてしまった。
 その言い表せない空虚感を上手く埋める術が見つからず、結局はテニスに活路を見出そうとする辺り、自分からテニスを取り上げたらなにも残らないのではないかと、千歳は心の中で苦笑した。
 しかし同じように時間の使い方に途惑っている人間は多いようだ。そんな連中のおかげで、テニス部は以前と変わらず騒々しい。
 慣れた重みを肩に掛ける。教室の扉をくぐれば数人が千歳――の長身――に注目し、挨拶の言葉や軽口を飛ばしてくる。それらを笑って受け、千歳は廊下を歩いていく。ラケットバッグに気を配って端に寄り、ふと目線を上げれば、同じように端を行く控えめな姿が目に入った。
 彼女が歩いた五歩分の距離を二歩で詰め、まろやかな肩をぽんっとたたく。

「深亜」
「あ、千里くん」

 自分を振り仰ぎ、ふわりと甘く微笑む深亜に、千歳も穏やかな笑みを返す。

「今日はもう帰っと?」
「ううん。テニス部に用事があるから」
「テニス部に?」

 個性的なテニス部の中にあって唯一の癒し的存在であった、マネージャーを務めていた深亜も、夏の終わりに千歳たちとともにテニス部を引退している。
 その彼女がテニス部になんの用事かと、千歳は首を傾げる。
 深亜はくすりと、そんな幼い動作を見せる千歳に笑みをこぼした。

「この前、小春さんが部室がどんどん汚くなってくって言ってたから、お掃除しに行こうと思って」
「そげんこつ、深亜がやる必要なかよ」

 千歳は思わず渋い顔になる。そんなものは各自にやらせるべきではないか。
 過去の自分を振り返れば決して胸を張れることはないが、それでも最低限の整理整頓は自分でこなしてきた。集団行動はそういう周りへの配慮と自身を律する心を学ぶ場所でもあると思う。
 それよりなにより、彼女が小間使いのように扱われることを許せるはずがない。元マネージャーで部員と親しいからといって、彼女がテニス部の部室を掃除する理由にはならないのだ。

(財前くんはなんしよっとや……)

 白石からその地位を託された現部長の後輩に、千歳はつい恨み言を抱いた。

「でも、このままじゃみんな困っちゃうし」
「自業自得ばい、困ればよか」
「それに、小春さんと約束しちゃったし……」

 お掃除に行くって、と小さく深亜が呟く。
 千歳はがっくりと肩を落とした。

「深亜ー」
「だ、だって……」

 彼女の優しさは長所だとは思う。だが、如何せん甘すぎるきらいがある。
 頼まれれば断われない深亜の性格を、あちらも熟知しているとも言えるが――
 はぁ、とため息をつき、隣で困った顔を見せる深亜の手を攫う。

「あいつらば甘やかしてもなんの得にもならんたい」
「甘やかすって……」

 微苦笑を浮かべる深亜のやわらかさに、千歳のささくれ立った心も少しは治っていく。

「しょんなかね。だれた部員には、新旧部長から渇ば入れてもらわにゃんたい」
「新入生が入ってくるまでは、のびのびさせてあげてもいいと思うけど」
「……金ちゃんばのびのびさしよったら、取り返しのつかんようなるばい」
「それは……うん」


 + + +


 千歳にとってはちっとも過去の場所にならない部室も、深亜にはそこに通っていたのがもう随分と昔のように感じられるらしい。
 外観も内装も、そこに揃う顔ぶれですら記憶の中と変わっていないのに、きょろきょろと辺りを見回す深亜の、懐かしさにほころびながらもどこか寂しげに見える横顔を、千歳は静かに見守った。
 障子紙はいまだところどころ穴が開いたままだ。中でもひと際大きな穴には、新学期の四月に張り替えた早々、部員のひとりが騒いで開けたという出来ごとが詰まっている。犯人が誰とはあえて言わないが。
 一部だけ色の違う壁板は、夏前までは応急処置として木の板が打ちつけられていた。その下に隠された穴は、夏休みが終わる前に業者の手によって今の姿に仕上がった。
 まさか学校内で、授業やらでもないのに金づちを振るうことになろうとは。
 真っ直ぐ釘を打ち込みながら、千歳はそんなことを思っていた。恐らく隣で同じ作業をしていた石田銀もそんなことを思っていただろう。
 うぐいす張りかというほどの鳴き声を発する床板にも、彼女の笑みは絶えない。

「変わってないね」
「これ以上傷もんにしたら可哀想やけんね」
「お部屋のほう、そんなに汚れてるの?」
「んにゃ……? 小春ちゃんは潔癖だもんで、過剰反応してまうとよ」

 自分は徹底した綺麗好きではないが、掃除をしてくれと泣きつくほどに部室内が汚れているとは思っていない。一応だが、自分の感性が一般と大きく掛け離れているとも千歳は思っていない。
 だが確かに、床には塵が目立ちはじめ、ごみや洗濯物がたまりやすくなったといえばなったかもしれない。
 そう思いながら、いつもの面子が集まっているだろう部屋の戸を千歳は開けた。

「鬼はーそとっ!」

 途端に集中砲火を浴びた。
 ばらばらと千歳の足もとに、小さな弾丸――もとい豆粒が散らばる。

「……は?」
「鬼はーそとっ! 鬼はーそとっ!」
「福はうちはっ? 違っ……ちょっ、金ちゃん待って――!」

 誰だこのゴンタクレに格好のおもちゃを与えたのは!
 身長差の都合で顔には飛んでこないが、ばしばしと当たる豆に阻まれて一歩すら踏み出せない。
 強行突破もいけなくはないが、そんなことをすれば後ろの彼女にも被害が及ぶ恐れが――

「って、なん気安く深亜に触っとっとや健二郎!」
「避難させたっただけやろが……」
「あ、あの遠山くんっ。千里くんの中の鬼は出ていったから、もう投げないであげてください……っ」
「なんや? 千歳ん中に鬼がおったんか?」
「…………」

 本来の意味も知らずに自分は豆をぶつけられていたのか。
 深亜の手に渡ったことにより止んだ豆の雨に深々と息を吐き、千歳は半目で室内にいる連中を見据えた。わざとらしく視線を逸らすその表情は、揃いも揃ってニヤついている。

「代表、白石」
「なんで俺やねん。豆持って来たんはオサムちゃんや」
「止、め、えっ」
「今の部長様は財前くんやから、俺にはそんな権限あらへんもん」
「きったなっ! 遠山に豆持たせたんは白石元部長たちですやん」
「おおっ? 先輩を売るんか光」
「……もうよか。金ちゃん、お豆さん片づけなっせ」

 ほいほいっと、ゴンタクレは素直に床に撒いたひと粒ひと粒を拾っていく。
 ようやく足を踏み入れることの叶った室内で腰を落ち着ければ、先に避難させられていた深亜が「お疲れさまでした」と目の前で苦笑する。その労わるような彼女の様子に、力が抜けてどっと疲れが出てくる。
 なんの疑問も持たずに手招きに誘われた深亜に、千歳は人目もはばからずに抱きついた。「せ、千里くんっ?」彼女が驚きに固まっている隙に、動きを制するようにその細い腰に回した腕に力を込め、額で彼女の体温を味わう。少し位置をずらせば魅惑のふくらみに触れえるが、さすがに理性が不埒な思考を抑えた。

「ほんなこつに疲れた……」
「え、えっと……」
「おーい、鬼が出てってへんぞー」
「色魔や、色魔。豆やあかん、テニスボール持ってこーい」
「あとで覚えちょけお前ら」
「……このままで喧嘩しないで……」

 顔を覆う手の隙間から覗く彼女の肌が鮮やかに色づいているのを、千歳はそのままの姿勢で見上げるだけ。そこからは離そうとする気配さえさらさら見えない。

しきま(、、、)ってなんなん?」
「んー、なんやろねぇ? アタシもよう知らんわぁ」

 暢気な声とはぐらかすような声が聞こえる。
 ――以後しばらく、深亜がテニス部に顔を出すことはなかった……というのは、また別のお話。
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