二時間目が終わった直後の休み時間、ざわざわと人の話し声や椅子を引く音で満たされた教室の中で自分の名前を拾い、深亜は「はい?」と顔を上げた。声をたどって視線を動かせば、廊下側の最後尾の席に座るクラスメイトに行き着く。
 手招きをする彼女に素直に従うと、彼女は「お客さんよー」と教室後方の扉を指差す。

「お客さん?」

 誰だろう……と扉から顔を覗かせた深亜は、扉の横に立っていた小石川の姿に軽く目を瞠った。
 テニス部に所属する部員と、同じくマネージャーという接点はあるが、それは高校に上がり深亜がマネージャー継続を辞退するまでのことだ。今は校内ですれ違えば挨拶を交わすくらいで、直接のつながりはない。

「悪いな安藤」
「いえ。どうしました?」
「急で悪いんやけど、千歳の居場所わかるか?」
「千里くんの、ですか?」

 言うとおりの急な質問に、深亜は不思議そうに瞬きを繰り返す。
 これなんやけど、と小石川は一枚のプリントを差し出す。表題の『第三回美化委員会について』の文字が目に入り、深亜はだいたいの事情を察した。

「今日の昼休みにあるんやけど……千歳の奴、教室にはおらんわ電話には出んわで、所在が掴めんのや」
「え、っと……」
「今の、笑うとこやろ」
「えっ?」

 反応に窮する深亜だが、小石川自身あまり気にしている風もなく、まあええわと話題を切り上げると、手にするプリントをそのまま深亜のほうへ押し出す。

「そんで度々悪いんやけど、千歳に渡しといてくれるか、これ。俺が見つけて渡しても、言うこと聞くとは思えへんし」
「わたしの言うことも聞いてくれるとは限りませんけど……」
「安藤やったら大丈夫や――絶対」

 ほな頼んだで、と肩の荷が下りたようなどこか清々しい顔で去っていく小石川を見送り、深亜は半ば強引に託されたプリントを眺めながら教室内へと戻った。
 自分の席に着いたところで、前の座席に勝手に座っていた友人が頬杖をつきながら尋ねてくる。

「小石川、なんやって?」
「委員会のお報せを、千里くんに渡してくれって」
「はあ〜……もうテニス部のマネちゃうんやから顎で使わんとって、くらい言うたらなあかんで」
「でも、小石川くんも困ってましたから」

 そう言って微笑う深亜も困り顔だ。

「安藤ちゃんが悪い男に捕まらんか、心配やわ……」

 ――あるいは、すでに手遅れかもしれないが。
 相変わらずの顔で微笑む深亜は、プリントを脇に置き次の授業で使う教科書などの準備をはじめる。いつもながら生真面目やなぁと何気なく見ている前で、深亜は唐突に立ち上がった。

「ん? どこ行くん?」
「まだ時間あるから、千里くんに渡してきます」

 プリントを手にし、深亜は少し足早に教室を出ていった。
 最後に向けられたのは見慣れた笑顔だったが、いつもより嬉しそうにほころんだ頬は、深亜の隠し切れない感情をあらわにしていた。

「……甘やかす安藤ちゃんにも問題ありやな」


+ + +


 校内の至るところに、千歳は自分の領域を作っている。
 それは学校の裏山の古木の根もとであったり植え込みの陰であったり、資料室の本棚の横であったり理科準備室の小さな空間であったり、校外校内問わずまさに至るところにだ。
 ゆえに千歳を見つけることは、そう容易いことではない。携帯の着信に反応しないということは、それイコール携帯電話を携帯していないということで、千歳を見つける手段は限りなくゼロとなる。
 しかし、今日は幸いにして下り坂の空模様だ。一時間目の途中から降りはじめた雨が、窓ガラスに当たり伝い落ちていく。
 こんな天気では、校外の各地でのんびりと過ごすことは叶わないだろう。候補は自然校内へと絞られる。
 深亜はきょろりと視線を巡らせ、廊下に人気がないことを確かめる。
 なにも悪いことはしていないのに、幼い頃に感じた、悪戯をする前のかすかな高揚感に深亜の胸が逸った。
 ひとつの扉の前で、深亜の足が止まる。室内には明かりがついておらず、物音もない。
 こつ……こつ……こつ……、と一定の間隔を空け、三回扉を叩く。今では決まりごとのようになった、来訪者が誰かを報せる合図だ。
 中からの応答はない。深亜は構わず扉をスライドさせた。

「千里くん……?」
「深亜?」

 やっぱりここだった。
 深亜は小さく息をつき、するりと室内に身をすべり込ませると静かに扉を閉めた。
 この場所がバレて困るようなことはないが――多少は小言を食らうだろうが――、彼の領域を無闇に荒らされたくはない。
 千歳の姿は窓側の一席にあった。壁を背にぼんやりとしていた表情が、深亜を見留めたちまちゆるんでいく。

「どげんしたと? 深亜がこげん時間に来るなんて、めずらしかね」
「んー……おつかい、かな?」
「おつかい?」

 目の前に立てば空いた手をすかさず取られていく。指と指を絡ませるつなぎ方は、深亜の鼓動をいたずらに速めていくが、その手を振り払いたいとはどうしても思わない。
 ――そんな自分の心のうちすら、彼は握っているのだろうか。

「小石川くんが、これを千里くんに渡してほしいって」
「健二郎?」

 はい、とプリントを渡せば、紙面に目をすべらせた千歳の顔が途端に曇る。

「今日のお昼休みにあるから、ちゃんと出なきゃ駄目だよ?」
「あー……」
「千里くん」

 深亜の語気がわずかに強くなる。
 きゅ、とつながれた手に力がこもる。見つめる先の千歳は顔を逸らし、難しい表情を浮かべている。
 無意識にだろうか、手すさびに甲を指の腹で撫でられ、深亜はかすかに肩を揺らした。

「まあ、鋭意努力すっです……、深亜?」
「え? あっ、うん、そうしてください……」

 真っ直ぐ向けられる眼指しに耐えられず、逃れようと深亜は伏し目がちになる。
 少しばかり顔が熱い。
 薄暗さが頬に上る色を誤魔化してくれるだろうか。

「あ、もうすぐチャイム鳴るから、教室に」

 戻らないと――という言葉は続かなかった。
 唇を塞ぐように、千歳の親指が添えられる。頬に触れた指を少し冷たく感じる。
 口の中に留まった言葉ごと、深亜は息を呑んだ。

「顔、真っ赤っか」
「っ……」
「手も震えとう……むぞらしかー」
「せ、んりくん……っ」

 手の震えは治まるどころか、いまや深亜の全身までをも甘く震わせる。その喉から出た声も同様に。
 俯く横顔には先ほどよりも色濃く朱が上り、目線を合わせようとしない瞳は、羞恥に濡れて光る。
 ガタリ、と唐突に空気を裂いた音に、深亜は大袈裟なほど肩をはねさせた。

「ちょっと待っとって」
「え……」

 撫でるようにしながら、深亜の頬から千歳の指が離れていく。
 立ち上がり出入り口へ向かっていく背中を、働かない頭でぼんやりと見つめる。
 脳が融けてしまいそうだ。考えようとした端から思考はとろとろと流れ出し、なにを考えようとしていたのかもわからなくなる。
 かすかに聞こえた、カチッ、という音がスイッチだったかのように、はっと深亜は意識を戻した。
 ――今の、音は……鍵を、閉めた音……?
 いつの間にか、目の前まで来ていた千歳に気がついた時には、深亜の身体は軽々と持ち上げられ、机に座る格好で千歳と向かい合っていた。
 目線には、苦笑混じりに笑う千歳の口許。けれど見上げたその目からは、いつもの悠然さが消えていた。

「そげん顔する、深亜が悪か」
「え――」

 反論のための猶予は与えられなかった。
 後頭部を覆う掌に避ける術も逃げる隙も奪われる。
 吐息すら自由にならず、ささやかな抵抗も容易く呑み込まれていく。
 食べられる――本気で深亜はそう思った。
 意識が、徐々に蝕まれる。

「はっ……だ、め……」
「なして……?」
「だっ、て……ここ、学校……」

 千歳の身体を突っ撥ねようとする手には力が入らなくなっている。
 弱々しいばかりの抵抗が、逆に千歳を煽っていることなど、深亜は思いもしないだろう。
 ことさらじっくりと、千歳が微笑む。

「学校でって、逆に燃えん?」
「なっ……」

 続く言葉を失う。
 鮮やかに染まった首もとから制服のネクタイを取られ、片手でシャツのボタンを外される。
 目蓋に、頬に、降り注ぐ唇は深亜の肌をすべりおり、あらわになった鎖骨の上にきつく吸いつく。

「あっ……千里、くん……」
「『だめ』は聞かんばい」
「……いや」
「…………」
「あ、やっ、だめ……っ」

 だめは聞かんけん――耳もとで囁かれた言葉も、今の深亜には音として認識することしかできなかった。
 素肌への刺激がすべて集まっているのか、背筋をぞくぞくとした痺れが襲う。
 膝を割って入り込んだ身体に阻まれ、閉じることを許されない太腿を熱い掌が這い上がる。
 離れてほしいのに――そんな深亜の意思に反し、身体は勝手に千歳へと縋りつく。
 素直な反応を示す深亜の声に合わせ、机が重く鳴く。

「んうっ……や、あ……」
「『いや』?」
「っ――」

 意地が悪い。
 その顔を見なくとも、千歳が楽しげに笑っているだろう様子が、深亜にははっきりと見えた。
 い、じ、わ、る――
 口にすれば余計に笑みが深まった気配があった。
 千歳のシャツを握る手に力を込め、広い胸に額をすりつける動きは、否定のそれだ。

「い、や……じゃ、ない」

 ガタッ、と机の音が大きく響いた。


+ + +


「安藤さん、もう大丈夫なん?」

 三時間目が終わり、一気に騒がしくなった教室の中へ入った途端にそう声を掛けられ、深亜は曖昧な笑みを返した。
 自分の席に着き、最早そこが自分の席だとばかりに、前の席に勝手に座っている友人へ目を向ける。
 その意味を正しく読み、友人はなんでもない顔で答えた。

「具合が悪くて安藤さんは保健室でーすって、ちゃあんと伝えといたったわ」
「ありがとう、ございます……」

 なんとなく気恥ずかしくなり、深亜は机の上に置きっ放しの教科書をしまい込む。
 千歳とずっと(、、、)一緒やったん?
 ひそめられた声は深亜の動きを止めた。
 案の定といおうか、友人は面白そうに目を細めて自分を見ている。

「ええ、まあ……」
「ふぅん……ここ、赤なっとるけど?」
「えっ?」

 自身の首を指して示された箇所を慌てて押さえ、友人を見た――ところで深亜はすべてを悟った。

「うっそ〜。――ベタ惚れやな、安藤ちゃん」
「もう、なにも言わないで……」

 顔を覆って消え入りそうな声でそう言えば、ぽんぽん、と頭を撫でられた。
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