炬燵の天板の上に置いた携帯電話が震え出し、深亜は少しだけ肩を跳ねさせた。掌で振動音を抑え、折り畳まれたそれを開く。
「せ――」
思わず発しそうになった名前に、深亜は慌てて口を噤んだ。居間で同じく炬燵にもぐっている姉の不審な目を、深亜は気づかない振りで携帯を手に立ち上がる。
姉にその名前――通話相手を知られれば、間違いなく私が出ると言い兼ねないだろう。そしてそのまま通話を切られてお終いとなる。
居間の襖をきっちりと閉め、深亜はボタンを押し通話を取った。
「もしもし、千里?」
声をひそめて呼び掛ける。
『あ、深亜。寝とらんかった?』
「さすがにまだ寝ないよ」
くすりと控え目な笑みがこぼれる。
「どうしたの? 千里が電話寄越すなんて」
携帯不携帯者がめずらしい。
どこかからかいを含んだ深亜の声に、電話の向こうで千歳が苦笑する。
『電話くらい、俺かてすっとよ』
「ごく稀に、ね」
先に部屋へと戻っていった祖母の部屋の方向を気にしながら、廊下を折れ自室へと入っていく。
窓にカーテンを引いた室内は薄暗く、冷えた室内は余計に冷たく思えた。
「それで? どうしたの?」
ぱちりと、点けた電灯に一瞬だけ目が眩む。
『んにゃ。ただ、深亜ん声が聴きたなっただけばい』
「……そう」
反応薄っ、と笑う声に、深亜は千歳に見えない頬を片手で押さえた。
恥ずかしげもなく、さらりと施される甘い言葉をどう受け止めればいいのか、深亜はいまだにわからない。ゆえに慣れることもない。
ふっ、と微熱を帯びた吐息が冷たい空気と混ざる。
腰を下ろしても落ち着けるはずがないと、深亜は室内を横切り厚いカーテンを引いた。
「あ……雪」
『おっ、初雪ね?』
「そうかも。……一年の終わりに
音もなく訪れていた冬の精を窓ガラス越しに見上げ、深亜は知らず口許をゆるめていた。
「そっちは降ってないの?」
『んー、市内はなかなか降らんけんね』
「あ、そっか。熊本に帰ってるんだ」
真っ先に浮かんだのは、彼の妹の溌剌とした笑顔。
彼とそっくりな目もとで微笑む彼の母親の姿や、朴訥な彼の父親の見守るような眼指しが次々と浮かび、懐かしさに深亜の心があたたかくなる。
「親孝行、ちゃんとしないとね」
『ははっ。ばってん、今日くらいは楽さしてもろたばい』
「――あ」
今日という日――大晦日という日は、彼にとって一年で最も特別な日だということを、今さら思い出した。
「そうだ――今日、千里の誕生日だ」
『おお、そうったい』
「……すぐに教えてくれればいいのに」
『深亜に思い出してほしかったけん』
「忘れてたことは怒らないの?」
『今日最後に深亜から祝われっなら、全部チャラばい』
相変わらず、甘い。
もれ出た息は多分に呆れを含んでいる。
ちらりと壁に掛けられた時計に目をやれば、あと二三分で今日が終わるのが見えた。
「千里」
『ん』
「――お誕生日、おめでとう」
『ん……ありがと』
改まるといやにくすぐったい。
どちらからともなく笑いが起こり、さざ波のような音が互いの耳を揺らした。
「これで許してもらえますでしょうか?」
『じゅーぶん。こっで来年もよか年んなるばい』
「なんの御利益なの?」
困ったように深亜は笑った。
兄ちゃーんっ、と、背後からはしゃいだ声が聞こえてきたのはその直後。
カウントダウンはじまるっちゃ! ――そんな妹の言葉に、兄は苦笑混じりの声で『わかっとっと』と返している。
「もう今年も終わりなんだ。……なんか、本当にあっという間だったな」
『充実しとったゆうこつばい』
「充実……なのかな?」
どうにも流されるままに騒動に巻き込まれてきたような気がする。善くも悪くも、色濃い一年だった。
そんな一年も、あと五秒――
「来年は、もう少し穏やかな一年になってほしいな」
四――
『神さんによーっく頼んどかなんたい』
三――
「……神様でも無理なお願いがあると思う」
二――
『まあ、結局は気休めやけん』
一――
「身も蓋もないことを……あ」
賑やかな声が、千歳の背後から聞こえた。
にわかに表が騒がしくなったような気がして、深亜は窓の外に目をやり、年を越えた初雪を見送った。
「千里……明けましておめでとうございます」
『明けましておめでとう。――今年もよろしく、深亜』
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