(中学二年の夏)



 湿気を帯びた空気が肌にはりつく。昨日の雨から一変、夏の太陽は容赦なく頭上から襲い掛かり、すでに背中は汗だくだ。
 眼前に見えてきた門構えに知らず歩みを早め、開かれた門の前に立ち敷地の外から中を窺ってみる。見渡せる範囲の庭やらに人の気配はなく、ひっそりとした静けさが家全体を包んでいた。
 勝手知ったるといった風に門をくぐり玄関まで続く飛び石を渡り、引き戸の横に設置されたインターフォンを押した。
 …………。
 十秒以上待ってみるが、応答どころか中で人の動く気配すらない。念のためもう一度押してみるが、対応は変わらなかった。
 どこかへ出掛けたか……そう思ったが、彼女に対する諦めの悪さは相当だと、自分でも呆れるほど自覚している。
 お邪魔しますと心の中で断わりを入れ、庭を通り家の裏手へと回り込んだ。短い夏の間、彼女(と彼女の姉)は家の裏側に面する部屋を宛がわれていた。その部屋がいまだ彼女たちのために空けられていたのなら、不在を直接確かめに行った方が早い。
 玉砂利を鳴らしながら角を折れ、カーテンの引かれていない掃き出し窓へと近づく。
 果たして、彼女はいた。
 閑散、といった表現が当てはまる、目立ったもののない室内で、彼女はもたれ掛かるようにベッドに顔を伏せていた。

「…………」

 そんな彼女の姿に、一歩を躊躇した。
 しかしどこかでそんな自分を急かす声も聞こえ、深く息を吐き出して顔を上げた。
 指で窓ガラスをノックすれば、彼女の肩がびくりと跳ねた。緩慢な動作で身を起こし、音が鳴った方へ向けられた顔に手を振ると、途端彼女は細めていた目を丸くさせた。『せんり』と動いた口に、思わず笑みが浮かぶ。
 立ち上がった彼女はこちらへと歩み寄り、膝をついて両手を枠に掛けた。静かに窓をすべらせる、その丁寧な動作につい見惚れる。

「君は、まったく……」
「呼び鈴鳴らしても出んけん、しょんなかたい」
「誰か来ても無視していいって、伯母さんに言われたもの」

 どっちもどっちな言い分だと、苦笑するしかない。

「それで? どうしたの?」
「深亜はずっと家ん中おると?」
「質問に質問で返さない。――行きたい場所も、特にないしね」
「じゃあ、部活ば見に来てはいよ」
「……千里の?」

 訝しげな視線を受け、素直に頷く。
 しばらく考える風に視線を下へ向けていた彼女は、不意に窓枠に手を掛けた。

「深亜?」
「――準備するから、玄関の前で待ってて」

 からり、と彼女はまた丁寧な動作で窓を閉めた。ガラス越しに、さっさと行けと言わんばかりに玄関の方向を指差す彼女に、ゆるみそうになる頬を抑えるのに苦労した。
 右向け右で来た道を戻り、ふりだしとなった玄関の柱にもたれて彼女を待った。
 数分後、戸の向こうから足音のようなかすかな音が聞こえ、磨りガラスに白い影が浮かび上がった。柱から背を離すと同時に戸が開き、「お待たせ」と彼女が出てくる。
 部屋着のようなシンプルな白いワンピースの上に薄手の長袖――これも白系統――を羽織り、手には小さな手提げ鞄。長い髪は簡単にひとつに括られている――彼女の準備はあっという間だ。

「書き置き用のメモ探してたら時間掛かった」

 預かったらしい合鍵で鍵を掛け、こちらに振り返った彼女は、唐突に眉をひそめた。なにかしたかと、身に覚えはないがなぜか多少の焦りを感じつつ「なん?」と尋ねれば、彼女は手で日除けを作りながら少し首を反らせた。

「こんな炎天下で部活なんて……自殺行為もいいとこだよ」

 深々と呆れを滲ませる声音に、さっきのは杞憂だったのかという思いも混ざって苦笑が浮かぶ。

「深亜は引きこもりすぎばい」
「君たちみたいに打たれ強くないもの、わたし。こんな陽射しを浴び続けてたら、十分もしないうちに倒れられる自信があるよ」
「そぎゃん自信はいらんけん」

 まだ軽口を叩ける余裕はあるらしいが、確かに自分で言うとおり、彼女はあまり身体が丈夫な方ではない。
 昔に一度、彼女が自分もテニスをやりたいと言い出したことがあった。あれは五、六歳の頃だったか。その頃は彼女の身体のこともよくわかっておらず、歳の離れた彼女の姉も、自分の妹がそれほど柔だとは思っていなかったようで、彼女を交えて軽く打ち合いをしようという流れになった。
 見ててやるから――と彼女の姉に言われ、彼女の相手をしたのは自分だった。
 軽く打ち合い、と言いはしたものの、はじめての割りに思ったより食らいついてくる彼女に段々とむきになり、こっちも夢中で打ち返していた――その直後。
 なにかが倒れた音が耳に届き、顔を上げた先に見えたのは、コート上に伏していた彼女の姿だった。途端、それまで熱く感じていた身体から、嘘のように一気に熱がさあ――と引いたのを覚えている。
 慌てた彼女の姉が駆けつけてくるのを、自分はネットを挟んだ反対側から、ただ呆然と見ていることしかできなかった。
 太陽に晒される小さな肢体の白さが、網膜に焼きついたかのように鮮明で――それ以来、彼女がコート上にいると激しく動揺してしまう自分がいる。あれは軽いトラウマだ。恐らく、彼女とネットを挟んで向き合えば、自分は容易く膝を折るだろう。
 彼女の言葉を借りれば、膝を折る『自信がある』。
 ……やっぱりそんな自信はいらないと思った。

「深亜、つらかと?」
「そんなには。まだ大丈夫」

 つ、と額から伝う汗を、彼女はハンカチで拭った。

「それに、ずっと部屋にこもってるのも、やっぱりよくないと思うし……」

 いい気分転換だと、彼女は薄く笑う。

「そばってん、気持ち悪くなったらすぐ言うてよ」
「千里は心配しすぎ」

 彼女もあの頃よりは体力もついているだろうし、多少は丈夫になったとも思うが、そう簡単にあの時味わった恐怖が消えることはない。

「わたしより、自分の心配しなよ。君たちの方が倒れる可能性高いんだから」

 自分の思いどおりにならない身体が恨めしいと、悔しさに涙を流していたことを、彼女は覚えているだろうか。
 記憶の中の生白さと、陽の下でなおけぶる白さがふいに重なった。

「……千里?」

 不思議そうな彼女の声に、手の力を強める。
 捉えた彼女の確かな温度に、ひどく安心した。

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