春愁吹雪

よかったら、早朝に桜を見に行かないか。
数日前、一真さまにそう誘われた。その時のわたしのカオの緩み具合は相当酷かったらしく、それに直ぐ気づいた一真さまは、笑いを堪えるような声で「では、月曜に」とだけ告げて、破顔している私を置いて颯爽と、革のブーツの音を鳴らしながら大学へと向かわれたのである。
「ヒトの予定も否応も聞かずに勝手に約束を取り付けて去る」という、あまり誉められたものでは無い行為ではあったが、その時のわたしは「一真さまとふたりで桜を見に行ける」というとても魅力的な内容に気を取られていた。恐ろしく厳格な自分の両親に、この事をどう説明するか……なんていう大問題が発生することについては、その時は欠片も考えていなかった。
一真さまは、やはり確信犯である。



約束の当日、無事に早めに起床できたわたしは、淡い紫を基調とした着物を着付け、いつもより丁寧に、キチンと朱色の紅をさした。人の気配の薄い早朝に、ふたりきりで桜を見る……なんだかロマンチックだなあ、と心を弾ませながら、準備を進めていく。
ふと、窓から外の景色を覗くと、起床時には昇っていなかった陽が少しだけ顔を出していた。約束の時間が近いことに気づき、家族を起こさぬようにと、出来るだけ音を立てず入念に注意を払い、家を出る。ムダに大きい庭を進めば、いつもの黒の学生服……ではなくて、群青色の着物を身に纏った姿の一真さまが、背中を玄関前の門に預け佇んでいる姿が目に入った。そろりと音を立てずにゆっくり歩くわたしに気づくと、堅い表情を解き、目を細めてわたしを見つめたのだった。



「御家族は、大丈夫だったのか」
家の敷地がまだ近い距離だからか、小声でそう訊ねられた。一真さまは、わたしの両親がとても厳しいヒトだと知っている。きっと、嫁入り前の娘が親の知らぬ間に自由恋愛していた、なんて知られたら、最悪の場合、わたしは一真さまにもう会えなくなってしまう。それを踏まえて、彼はその心配をしたのだろうと思った。
「早朝に男のヒトとふたりきりで出かける、なんて言ったら、わたしの両親なんて当然怒るに決まっています。勿論一言も言いませんでした。ヒミツです」
正直にそう言えば、やはりそうか、と低い声が返ってくる。
「……オレのせいだとは分かっているが。名前は箱入り娘の割に、大胆な所があるな」
目的の為なら何をするにも厭わないような一真さまには言われたくありません、それに、今日のことは貴方が仕組んだようなものなのに。と、心のなかでそう言い返した。

早朝特有の、空気の澄んだ匂いと冷たさに包まれ、肺に入る酸素が昼より新鮮に感じた。わたしはいつも通り、一真さまの後ろを付いて歩いた。少し道を進んだところで、人気の無い事を確認した一真さまは、「折角だから、オレの腕に掴まってくれないか」とわたしの手を優しく引寄せる。誘導されるまま素直に彼の腕へと絡ませれば、一真さまは幸せそうに微笑んだ。世間の目をさほど気にしない彼と違って、私はどうしても人目を気にしてしまう気質だった。普段であれば、こういった事をするのに、恥ずかしさやら世間体やらを気にしてしまって出来ないけれど。今だけは何故か、すべて許されるような気がしたのだった。わたしは一真さまにつられ、一緒に顔を綻ばせた。




「満開だと思ったが、よくよく見れば所々、蕾のままの枝を見掛けるな。八分咲き、と言ったところだろうか」
「そうですね。それでも、充分に美しいです」

わたしでも届きそうな位置の枝に手を添え、ひとつひとつの桜の花と蕾に目を配らせる一真さまに、わたしはぽつりと思ったことを呟いた。
「一真さまは、桜が似合いますね」
「オレが……か?」
はい、と頷く。桜の美しさだけでなく、散ってしまう儚さも、まるで彼のようだ、と思ったのだ。
彼の英国留学が近づくにつれて、一真さまが時々、不安そうな表情をすることが増えている事に気づいていた。もしかしたら、彼は一人では抱えきれないほどの「なにか」を、必死に抱えているのかもしれない、と察した。それはわたしの勝手な妄想で、思い違いかもしれない。けれど、日毎に彼がいつもと違う表情をするようになっていった事は、紛れもなくほんとうだった。

思考の海に落ちていたのも束の間、一瞬わたし達の周りが強い風に煽られて、それに伴い地面にぽつりぽつりおちていた桜の花弁が地上にふわりと舞った。
わたし達の周りを覆うように舞い上がる無数の花弁に圧倒される間もなく、突然一真さまがわたしの手首を掴んだ。そのままわたしは、抵抗する間も与えられずに彼の胸に抱き寄せられる。微かに香っていた桜の香気は一変し、わたしの肺は一真さまの香りで満たされていき、それにつられて心の臓が段々とうるさくなっていく。堪らず彼の顔を見ると、一真さまは真剣な表情でわたしを見据えていて、その目は明らかに熱を孕んでいた。愛しいものを見るような、そんな眼であった。
「名前」
名を呼ばれた次の刹那、一真さまはわたしに触れるだけの接吻をした。周りに舞い上がった花弁たちは、わたしたちを隠してくれるように包み込んで、はらはらとゆっくり落ちていってくれたような気がした。



ゆっくりと唇が離れていくのを名残惜しく見つめれば、一真さまにもわたしの唇の朱が移ってしまったことに気づいた。彼もその事に気づいたのか、ゆるく曲げられた人指し指をわたしの口許に添える。
「……ああ、オレに紅が移ってしまったのか……すまない」
「謝るなら、もっと申し訳なさそうなお顔で仰ってください。今の一真さまは、とても楽しそうですよ」
彼の顔色も雰囲気も、まるで悪戯が成功したコドモのような無邪気さを纏っていた。
「そうだな、貴女の紅がオレとの接吻で落ちてしまうのだから。オトコとして嬉しい気持ちはあるな」
「……もう」
「次に会うときに、名前に似合う紅を見繕ってくるから、許してくれないか」
遠回しに、オレの選んだ紅をつけてほしいと言われているような気がして、頬が少しづつ熱を持った。
一真さまが大英帝国に留学する日まで、わたし達はあと何回、会えるのだろうか。願わくは、このまま何処にも往かないでほしい……なんていう、エゴイスティックな言葉は、わたしの心のなかだけに留めておいた。





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