▼ 権力者たちの空20
泣いている。子供のようにわんわんと涙を零して、真っ白な地面に染みを作りながら泣きじゃくっている。それを他人事のようにアリシアは感じていた。泣いているのは自分だというのに。
横たわる彼はもう生きてはいない。亡骸はひどいものだった。腹が裂け、四肢があらぬ方向へ曲がり、赤を垂れ流し、地面をどす黒い真紅に染めている。それを招いたのはアリシアだった。
アリシアが強ければこんなことにならなかった。
アリシアがもっとイノセンスを使いこなせていたら死なせなかった。
アリシアがもっと賢かったら。
アリシアがもっと、もっと――。
考えても結果は変わらない。血が流れたように、水が高いところから低いところに流れるように止められなかったのだ。後悔しても意味がない。
アリシアは泣いている自分の横っ面を叩きたくなった。泣くな、前を向いて、二度とこんなことが起こらないように強くなれと罵倒したくなる。
けれど当のアリシアは泣いているのだ。
泣いていたってどうしようもないことなのに。弱いアリシアはずっと声を上げ続けた。
情けない、みっともない、そんな言葉が只々頭の中でうごめいてぐるぐると思考を支配する。苛立ちは募るばかりなのにどうしようも出来なかった。
もう『彼』は戻らない。
ふとアリシアの優しく頭を撫でる手が現れる。それはどこか懐かしくて、でもいつもしてもらっている行為だった。どんな時もアリシアの味方で穏やか眼差しをくれる。大事で家族のような人。髪が乱れない程度に何度も撫でてくれる。
彼はいつも優しい言葉をくれた。
アリシアが落ち込んでいれば、すっと心を拾い上げ。
アリシアが悔しがっていたら、的確に対処して。
アリシアが怒っていたら、穏やかに頷いた。
今、彼はふっと落とすような笑みをアリシアに向けているだろう。彼の言葉が耳に届いた。
「泣かなくて大丈夫だよアリシア」
いつものように彼は言う。穏やかなテノールの声で。
「今回は誰も死んでない。『彼』も生きている」
髪を優しく手が梳く。
「キミが泣くことはないんだ。『彼』はいつかキミの前でいなくなるけれど、それは今じゃない」
アリシアは首を振る。
「私が弱いから誰かが傷ついて、そしていなくなってしまう」
彼はむせび泣くアリシアをゆっくりと抱きしめた。大切なものを扱うように丁寧に背中に手を回す。
「大丈夫。キミはこれからも困難に遭うけれど『止まらず歩み続けられる』んだ」
アリシアはようやく泣き止むと彼の胸に頭をうずめる。
「あなたはこれからもずっと一緒だよね?」
彼はそれには答えずただ頭を優しく撫でるだけだった。
***
アリシアはふっと目が覚めた。ぼやける視界がだんだんと明瞭になってくる。まず見えたのは天井だった。この天井は見たことがある。任務先の宿屋だ。
アリシアは自分の頭に触れ、感触の残る髪をさすった。無意識に言葉が漏れる。
「アール?」
むくりと上体を起こし、ベッドの脇に置いてある椅子を撫でた。まだ温かい。誰かここに座っていたのだ。
そして殴られるように現実がアリシアを打ち据えた。
戦闘はどうなったのだろう。神田の安否は? ティキ・ミックは倒せたのか? アリシアを担いで逃げたリンクは? 思考が急に回り始めて、アリシアは毛布を皺ができるくらい握りしめる。自分たちは脅威に勝てなかったのだ。
ドアノブががちゃりと音を立てた。身体が強張って緊張が走る。アリシアは傍に置いてあったサルガタナスに手を伸ばし、銃口をドアに向けた。
入ってきたのは見慣れた金髪だった。リンクはアリシアの表情に少し目を見開いたがすぐにいつもの顔に戻って近くに寄って椅子に座る。手には持ってきたのであろう二人分のサンドイッチをライトの下に置いた。
「落ち着いてください。状況を説明します」
アリシアは肺に空気を多く取り込んで吐いた。サルガタナスをゆっくりと下げる。それを了承ととったのであろうリンクが口を開く。
「まず何を知りたいですか?」
アリシアは素早く聞いた。
「私は何時間寝てましたか?」
「八時間ほどです」
「では、もう状況はほとんど終わったと思っていいですか?」
「ええ、もうこの街に脅威はありません」
だからアリシアは街の宿屋で寝ていたのだ。アリシアはリンクを見つめる。
「被害状況は?」
「街の損害はあなたの壊したポポロ宮だけです。まあ額は聞かないほうがいいでしょう」
アリシアは顔をしかめる。不可抗力ともいえるが、仕留められなかったのだから意味がない。アリシアは唇を噛んで、視線を落とす。ある言葉を言おうとして毛布をぎゅっと握った。
「人的、被害は?」
リンクは一瞬視線をそらした。けれどすぐにじっとアリシアを見た。
「……ありません」
アリシアは目を見開く。被害がないとはどういうことだろう。とりあえず聞いてもダメージがないことから聞くことにした。
「両家の当主は生きてるんですか?」
リンクはなぜか顔をしかめた。
「生きています。二人とも同じ場所で結界装置に守られていたそうです」
リンクは損害賠償すると言ってますと吐き捨てた。おそらく厚顔無恥な当主たちに手を焼いているのだろう。しかめた理由がわかってアリシアはくすりと笑った。
だが気になることは別にある。
「結界装置……リンクがしたんですか?」
すぐに愚かな質問だとわかった。リンクだとしたらこんな他人行儀には言わないだろう。案の定リンクは首を振った。
「これは現在調査中ですが――教団に所属する誰かがやったとしか思えません。当主たちは黒いコートを着た男だと言っていました。結界装置が扱えてAKUMAを壊せるもの。AKUMAの残骸はありませんでしたが、おそらくエクソシストがやったものと判断しています」
アリシアは驚いた。そんな芸当が出来るのはアリシアが知っている中で一人しかいない。だがアリシアはその人物の名を挙げることはしなかった。質問を続ける。
「レベル2はどうなりました?」
「街中を探していますが、いません。逃げたか、壊れたか。今、ネイサン・ラティスを保護下に置いています」
ネイサンは無事なのだ。だとしたら彼に執着していたラルフは近づいてくる可能性は高い。引き続き警護が必要だろう。教団はラルフをもう脅威とは思っていないということだろうか。確かに神田はもう戦闘不能まで陥らせたと言っていたから大丈夫なのだろう。
ふと神田の顔が思い浮かんで、苦しくなった。だが、聞かなければならない。アリシアは視線を落として小さく言った。
「神田は……どうなりましたか?」
リンクはややあって答えた。
「……生きていますよ」
アリシアは思わず息が止まった。そして大きく息を吐く。そうか神田は無事なのだ。ほっとして肩を撫でおろすとリンクはぼそりとつぶやく。
「本当にしぶとい」
「リンク何か言いましたか?」
「いいえ」
アリシアは続けて尋ねる。
「じゃあ、神田はティキ・ミックを倒したんですね?」
リンクは首を振る。
「我々が神田ユウを発見した時、重篤な状態でした。ですが、ティキ・ミックの遺体はありませんでした」
アリシアの表情は険しくなる。全然脅威はあるじゃないかと内心思うが、中央庁の人間がもう安全だと言っているのだから根拠があるのだろう。リンクをじっと見ると彼はふうとため息を吐いた。
「脅威はないと言ったのは、神田ユウのイノセンスが持ち去られていなかったからです」
アリシアは思案する。確かにおかしな話だ。神田が戦いに破れたのならイノセンスは回収されて破壊されているはずだ。それをしないで置いていったということは見逃したと考えるのが正しいだろう。疑問が増えるばかりで解決しない。
ティキ・ミックという聖痕を持つ青年。
神田を見逃した理由。
なぜか助けられていた当主たち。
謎は今考えてもわからないだろう。
アリシアは視線を鋭くしてリンクに尋ねる。
「中央庁は彼の存在をどこまでわかっているんですか?」
リンクは目を細めた。どういう感情なのか読めないが、まったく知らないということはないだろう。中央庁はこの街にイノセンスがないことを知っていてアリシアたちに黙っていたのだから。リンクはまっすぐにアリシアを見て言いきった。
「それはあなたに話せるほどの情報はありません」
なにも掴んでいないわけではないが、リンクは話せないということだろう。それか話せる価値がないのか。アリシアは鼻白んだが、追及することはなかった。どうせ無駄だろう。それだけに中央庁も教団自体も闇深い。
ふっとアリシアは笑った。
「じゃあリンクを困らせないように自分で調べますね」
リンクは頭痛がするといったようにこめかみを押さえた。
「その言葉は聞かなかったことにします」
「ええ、ぜひそうしてください」
アリシアは大きく腕を伸ばすとベッドから降りた。そしてライトの下に置いてあるサンドイッチを二切れ掴む。リンクが怪訝そうにアリシアを見る。
「どこに行くんですか?」
アリシアは晴れやかに笑う。
「かっこつけ馬鹿に謝りに行くんです」
そしてドアノブに手をかけてアリシアは部屋を出ていった。リンクがどんな表情をしているのか知らずに。
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