灰男小説 | ナノ


▼ 権力者たちの空10

 目を開くとそこには見知らぬ天井があった。
 アリシアはぼうっとする頭で今どういう状況なのか思案する。そういえば昨日泊まったホテルのような気がするが、自分がなぜ寝ているのかわからない。それに窓を見ると陽がまぶしいのはどういうことだろう。考えようにも思考は鈍く、いつもの程ではないが頭痛がした。
 アリシアは呻きながら天井に手を伸ばす。
「どうなってるんですか?」
 すると横から声が掛かった。
「起きましたか」
 そちらに視線を向けると椅子に座り本のページをめくっているリンクがいた。アリシアは驚いて飛び起きた。同じように頭に痛みが走る。
「あっ、痛……」
 思わず頭を抱えるとリンクは席を立ってテーブルに置いてある水入れからグラスに水を注いだ。慣れた手つきでテキパキと行動していて洗練された動きには無駄がない。そしてアリシアにグラスを差し出した。
「どういう状況かわかりますか?」
 アリシアは首を振る。記憶を探ると確かアリシアたちはバーにいたはずである。そこでアリシアはカルーアミルクを一杯飲んだ、気がするのだが、それからが思いだせない。
 リンクはため息を吐いて椅子に座り込んだ。
「あなたはバーで飲みすぎてしまい、酔っぱらって記憶を失くしたんです」
 色んな意味でアリシアは頭を抱えた。
「あの、私ここまで歩いて……?」
「違います。私が途中から運びました」
「すみません」
「いいえ」
 まったくと言っていいほど記憶がないし、どうやって帰ってきたのかどういう状況で帰ってきたのかわからない。ふと疑問に思いアリシアはリンクに尋ねる。
「あれ、途中からってどうしてですか?」
「神田ユウがあなたをバーから運んでいましたが、ゴロツキに絡まれましてね。あなたが神田ユウを離さなかったのでそのまま戦闘してましたよ」
「おおう……」
 穴があったら入り込んでしまいたい。神田はきっと怒っているだろう。リンクが苦虫をかみつぶしたような表情をしているのでとてもご立腹のようだ。アリシアは険悪な表情に震えたがリンクは落ち込ませているほど優しくはなかった。
「もっと状況説明が必要ですか?」
「いいえ、申し訳ありません……。ありがとうございます」
 アリシアは手に持ったグラスをあおる。少し冷たい水が心地よく、ゆっくりと嚥下する。体に染みわたってとても美味しかった。
 リンクはアリシアが飲み終わるのを待って口を開いた。
「あなたの指示通り、遠目から見ていましたが、今のところ周囲に不自然な点はありません。もっと詳しい調査が必要でしょうね」
 バーに行った朝にリンクにわざわざ頼んでいたのだが、今のところ注意が必要な点はないようだ。
「そうでしたか、ありがとうございます」
 ということはグロッサ家ラティス家にもっと深入りしなければわからないことが多いということだ。
「じゃあ今度は両家の人間と周囲の人の調査が必要ですね。お願いできますか?」
 視線を下げてリンクは黙り込んだ。アリシアは首を傾げる。リンクの性格上返事をためらったりするのは意外だったのだ。
 リンクはアリシアをじっと見つめた。何か言いたげな表情にアリシアはさらにわからなくなる。
「どうかしました?」
 リンクは少し間があった後首を振った。
「――いいえ」
 何も言わないということはアリシアが知らなくていいことなのだろう。内容に触れてほしくなさそうだったのでアリシアは別の話を振る。
「そういえば変死事件のほうはどうなってます?」
「調べました。かなり不可解な点が多いですが、恐らくAKUMAの手によるものだと考えられます」
 数枚の紙をアリシアにリンクが渡す。アリシアは内容を見てみると、丁寧な字でわかりやすく書いてある。リンクの性格がとてもわかる報告書だった。
 文面を追っていくとアリシアの表情が険しくなった。
「心臓だけが食いちぎられた死体ですか……」
 発生件数は十五人以上、しかも突然死だと奇妙に思われてからの件数なのでもっと実際には多いかもしれない。報告書を見るとここ三か月ほどで件数が倍増している。
 突然死だと思われていたが、実際検死してみるとどの死体も心臓を動物に噛まれたような痕があるらしい。しかも外傷はない。手術痕もなし、ということは特殊な能力を持ったAKUMAの可能性が高いと見える。
「気持ち悪いですね。AKUMAが嗜虐性が高いのはわかりますが、レベル1ではこんなことは出来ません。――レベル2、か」
 やっかいですねとアリシアはつぶやいた。レベル2と相対することは少なくないが、これほど殺しているとなると更なる凶悪な変化をもたらすかもしれない。今まで出会ったことはないがまだ進化するのかもしれないと考えてアリシアはぞっとした。
 考え込んでいるとリンクが口をはさんできた。
「実は一つ気になることがあります」
「なんですか?」
 リンクは一度口を強く閉じた後、話し始めた。
「不審死の起きた近くで黒い蝶が飛んでいるそうです」
「黒い蝶?」
 リンクが頷く。
「死体に群がっているという話も聞きました」
 アリシアは黙り込んだ。関連性はわからないが何かあるに違いない。
「引き続き調べてください。不審死と蝶の関連性も気になります」
「わかりました」
 リンクは頷いた。部屋に沈黙が下りる。話が終わったのでもう何もしゃべることがない。なんとなく気まずくてアリシアは言葉を探した。
 まったくリンクには情けないところばかり見られている。イノセンスをすられたり、酔っぱらってしまったり、運んでもらったり散々だ。自分が本当に恥ずかしい。だから神田にも馬鹿にされるし言い返せなくなったり、覚悟で差が出るのだ。アリシアは視線を落としリンクに尋ねた。
「あの、リンク……」
「なんですか?」
 少しアリシアは間を置いたがぎゅっと目をつむり言葉を吐き出した。
「リンクはエクソシストの覚悟ってどう思います?」
 怪訝そうにリンクが目を細めた。アリシアは言い訳のように言葉を早口で続けた。
「いやなんというか私、エクソシストになったのって無理やりだったので、仕方なくというか人が死なないようには頑張ってきましたけど、それだけじゃ足りないというか……」
 リンクは顎に手を添えて息を吐いた。呆れられてしまっただろうかとアリシアは毛布をぎゅっとつかんだがリンクは無表情で口を開いた。
「……私は最初の任務で失態を犯しました」
「え?」
 リンクは少し視線を落として言う。
「最初の任務はイノセンスの適合者の護衛でした。私より幼い少女で装備型のイノセンスでした。上手くイノセンスを扱えていませんでしたので、本部に輸送する際護衛は必要だったのです。初任務に私は緊張していました。けれどAKUMAには関係ありません。襲撃は唐突で私はその娘の盾になるべきでした。けれど、出来ませんでした」
 アリシアは目を見開く。リンクは初めて苦々しい表情で言葉を続けた。
「私は震えて動けなかったのです。死にたくありませんでした。怖くて怖くてどうしようもなかったんです」
 意外だった。無表情で使命に生きているようなリンクがそんな時期があったのがあまり想像できない。けれど真実なのだろう。アリシアは尋ねる。
「その娘はどうなったんですか?」
 リンクはふっと自著呻いた笑みを浮かべた。
「彼女はろくに使えないイノセンスを持って私をかばうようにAKUMAに立ち向かったんです。戦えもしないのに」
 馬鹿ですとリンクは柔らかい笑み零した。とても優しく笑うのでアリシアはリンクがその子を大事に思っていることが分かった。リンクは少し声を漏らして笑う。
「AKUMAは別のエクソシストが破壊しましたが、動けなかった私に手を差し伸べて言ったんです。『あなたが無事でよかった』と」
 アリシアもつられて笑った。その子はとても優しい子だったのだろう。仏頂面のリンクがこんな風に笑うのだから。リンクはアリシアをまっすぐに見て言った。
「だから私は彼女に恥じぬように生きようと決めたのです」
 リンクの瞳があまりにもまっすぐで綺麗だったのでアリシアは息を飲んだ。彼の覚悟は彼女から来ているのだろう。それがアリシアの疑問に対する答えなのだ。アリシアは頷いた。
「……彼女は元気にしてるんですか?」
 リンクは少し表情を陰らせて寂しそうに笑う。
「おそらく。けれど私のことを覚えているかわかりませんね」
「そうですか。……リンクありがとうございました。私なりに考えてみます」
「そうしてください」
 アリシアはベッドから降りる。ふと、服装が気になった。アリシアが酔っぱらって寝ていたのならば服装は団服かシャツのはずである。だがアリシアはパジャマに着替えている。ある程度予想はつくが顔を引きつらせながらリンクに問うた。
「あの、リンク」
「まだ何か?」
「……私パジャマって自分で着てました?」
 合点がいったという風にリンクがしれっと答える。
「ああ、ここの女将さんに着替えさせていただきましたよ。私はモラル的に出来ませんので」
 アリシアはあからさまにほっとする。リンクは少し齢が上だと思うがまだ青年だ。男性に着替えさせられたなんて思ったらリンクを殴り飛ばしてしまっていたかもしれない。小さく息を吐くとアリシアのお腹が鳴った。アリシアは赤面する。
「あの、今何時ですか?」
「朝の六時ほどです。あなたは昨日の昼から食べてないでしょうからね。これでもどうぞ」
 リンクが差し出してきたのはハンカチに包まれたアイシングクッキーだった。
「すごい! どこで買ってきたんですか?」
「手作りです」
「え?」
 意味が分からないという風にアリシアの目が点になる。リンクは平然と言ってのけた。
「私の手作りです」
「へぇー!」
 アリシアは一つ手に取ってみて目を輝かせたが、模様を見て一瞬にしてげんなりした。
「あ、いや、嬉しいんですけど、あの、その……」
「なんですか?」
 少し複雑そうにアリシアがクッキーを眺める。
「なんで長官の似顔絵クッキーなんですか?」
 ルベリエが微笑んでいる様が見事にアイシングで描かれている。美味しいのだろうが、とても食べる気にはならない。
 リンクがさも当然そうにさっと本を出した。さっき読んでいた本である。表題は世界のお菓子の作り方。著はマルコム・C・ルベリエと書かれている。
 ――ああやっぱりリンクもルベリエ長官に心酔してる人なんですね。
 当たり前のことなのに少しがっかりしている自分がいた。
 またさらにぐうとお腹が鳴ってリンクが差し出してくるので、アリシアは息を飲んで一口かじった。見た目はアレだけれども味はとても美味しい。
「……美味しいです」
 リンクが頷く。
「当たり前です。長官のレシピですから」
「そうですか」
 釈然としないまま、アリシアはクッキーをかじった。


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