▼ 権力者たちの空1
教団に入ったばかりの頃、アリシアは自分の部屋でひっそりと泣いていた。
窓の外はもう真っ暗で、もう随分前に陽が沈んでいる。だが、アリシアは明かりをつけずに部屋の隅でうずくまっていた。時折声を漏らしながら、必死に堪えている。誰かに聞かれるのがすごく嫌だったからだ。
人の前で泣くなんて恥ずかしいと思っていたし、涙を零すと大嫌いなルベリエに見られてからかわれてしまうから。だからアリシアは部屋で声を押し殺していた。
弱い自分を知られるのが怖いから。強い自分を演じていたかったから。
けれど恐怖は簡単には拭えない。AKUMAなんていう化け物と戦わなければならない己の運命と、死ぬかもしれないという恐怖を抱くのは仕方がないだろう。まだ十歳になったばかりのアリシアには荷が重すぎた。考えすぎると震えが来てしまうので必死につぶやく。
「私は負けない。だってパパの子だもん。誰かの為に身を尽くせる人間になるんだ」
呪文のようにつぶやく声は部屋に響く。ここには誰もいないのだ。アリシアが声をあげて泣けるような相手も心から信頼するような人間も。
すると控えめにノックが聞こえてきた。思わず体がびくりと跳ねる。こんな夜更けに誰だろうか。ひっそりと近づいて耳を澄ませる。けれど、相手が誰なのかわからない。
アリシアは最初無視しようとした。
今度は控えめじゃなくちょっと大きめのノックが叩かれる。
「居ることはわかってるんだ。出ておいで」
一瞬誰の声かわからなかった。ノイズのような声が重なって歪んで聞こえる。それが不気味でAKUMAの声のように感じた。アリシアは怖くなって扉から離れる。
相手はアリシアの足音に気が付いたらしく、笑う。
「あくまで出てこないつもりなんだね。わかった」
足音がしてドアから遠のいていく。恐らく諦めていったんだろうとアリシアは息を吐いた。これで泣き顔を見られることもないし、アリシアは明日も元気いっぱいなフリをしていける。安心してベッドに戻ろうとした時、ドアの向こうから大きな足音が聞こえて来た。しかも急速に近づいてくる。
何か大きなものがドアにぶち当たり、派手な音を立てて扉が吹き飛んだ。
アリシアは驚いて縮こまった。怖くて目をぎゅっとつぶる。すると足音はゆっくりと近づいてくる。
「ようやく会えた」
優しい声だった。今度はノイズも聞こえることもなく、普通の少年の声が聞こえる。アリシアはゆっくりと目蓋を開いていった。
廊下の光が漏れて、少し目がくらんだ。
少年は一瞬知らない誰かに見えたけれど、よく目を凝らすとストレートな茶髪と綺麗な緑の瞳が現れた。アール・D・ブレナンだった。
アールはアリシアが適合者とわかった時にルベリエと一緒に迎えに来たエクソシストだ。齢もあまり変わらない。柔和で優しい穏やかな人物だと思っていた。だが、人の部屋のドアを蹴破るなんてアリシアは驚きすぎて言葉に詰まる。
「あなた……なんで?」
アールは首を傾げる。
「君が泣いていたから」
アリシアは手で目を隠す。
「……泣いてない」
アールはくすりと笑い、アリシアの頭を撫でる。
「嘘はいけないよ。ちゃんと廊下まで聞こえてたんだから」
「うそ!」
アリシアは思わず顔を上げる。アールがアリシアの頬に触れ、指で目尻をなぞる。
「ほら、いけない子だ」
つまりカマを掛けられたのだ。アリシアは騙されたと分かって顔を赤くする。
「あなたのそういう所、本当に嫌いよ」
アールは微笑んでアリシアを抱きしめた。あまりにも優しい抱擁だったから、父や母を思い出す。もう二度と会えない家族に。考えたって意味がないのに。
自分が弱いと認めてしまうようで怖かった。身体を強張らせるアリシアにアールは小さく囁いた。
「つらいなら泣いたらいい。弱音を吐いてもいい。一人で泣くなんて絶対にしないで、どんな時でも僕がそばにいるから」
アリシアは言葉に出来ない感情が込み上げてきて、目から小さく雫を落とした。泣いちゃいけない。わかっていたけれど涙はどんどん溢れてきて止まらなかった。
「泣くのは弱さじゃない。君は強い子だ」
「う、うう」
だんだんと声が漏れて、アリシアは気が付けば声をあげて泣いていた。
辛かった。訓練なんて今まで経験したことのないような過酷さだったし、誰も出来たからと言って褒めてくれない。廊下を歩けば暗い顔をした団員たちが冷たい目でこちらを見てくる。どこに行っても嫌な目だ。逃げるように教会に行くと毎日棺が運び込まれて誰かが泣いている。どこにも居場所がなかった。
だがアリシアは今、心から泣いている。
アリシアはアールを強く抱きしめた。
「私、ずっと怖かったの! ここはとても怖くて誰に頼っていいのかわからなくて、一人ぼっちで怖かった!」
「うん、そうだね」
ゆっくりとアールが背を撫でる。その手つきがとても優しくて泣きたいほど切なくて温かい。
アールはアリシアが泣き止むまでずっと抱きしめてくれた。
しばらくして落ち着くとアリシアはゆっくりと離れる。
「ありがとう」
「どうしまして」
アリシアは気恥ずかしくなって俯いているとアールがアリシアの頬を両手で包んで顔をあげさせられる。アリシアが眉をひそめるとアールは笑っておでこをくっつけた。
「あなたに神のご加護があらんことを」
アリシアは目を見開く。驚いているアリシアを見てアールは目を細める。
「君が教えてくれたんじゃないか、元気の出るおまじないって」
「そうだった、わね」
確かにそうだ。まだアリシアのイノセンスに名前がついていない時、AKUMAに襲撃されて為す術もなかった。
その時、アールは震えて動けなかったからアリシアはAKUMAに立ち向かい、間一髪でアリシアの師匠が助けてくれたのだ。
――アールが震えていた?
イノセンスを持っていたのに?
疑問が頭を刺した。
「ああっ!」
アリシアは悲鳴を上げてうずくまる。あれは誰だったのか。そんな記憶の齟齬が頭を裂くように痛ませる。アールは心配もせずに立ち尽くしている。
辛うじてアリシアが顔をあげてアールを見る。
そこには彼じゃなく別の少年が立っていた。
アリシアは呻く。
「あなた、誰なの……?」
***
はっとしてアリシアは目を開いた。
周りを見ると列車の一等客室だった。車両がゆっくりと横に振られてアリシアも体が動く。そうだ今は移動中なのだ。目の前には神田がつまらなそうに窓の外を眺めている。夢だったのだと気が付いてアリシアは息を吐いた。
「変な夢」
悪夢とも言い難いが、決していい夢にも思えない。
だが、最後に出てきた少年は誰だったのだろう。見覚えがあるような、ないような。
第一夢のせいか朧気で容姿も何もはっきりしない。あまり深く考えるのは良くない気がした。
ひとまず落ち着こうと息を吐く。
アリシアは膝の上に置いていたオルゴールを撫でた。
アリシアたちがオルゴールの街を出てから約数時間。まだ次の任務は言い渡されてない。
街を出た途端、喧嘩し始めたアリシアと神田に探索部隊は手を焼いていたが、流石に数時間怒鳴り散らす体力もなく、今は沈静化している。
だが、視線を合わせるとこれ以上ないほど不快そうな表情で舌打ちしてくるので、アリシアは目を閉じてやり過ごしていたのだった。そのまま寝てしまうのもどうかと思うが、加えて夢見も悪いと来たら最低だ。
あと何時間こうしていれば、任務の連絡が来るのだろうか。
探索部隊の話によると次の駅で任務の資料を貰える手はずになっているらしいのでアリシアも黙っていようと頑張っている。ついつい神田を見ると喧嘩を吹っ掛けそうになるが、それはただの八つ当たりなのでやめておく。
汽笛が鳴り、伝声管から声が聞こえてくる。
もうすぐ次の駅に着くらしい。
やっとかとアリシアは大きく息を吐くと、神田も同じように思っていたらしく一緒にため息を吐いた。思わず顔をしかめる。神田も同様だ。
「ちょっと真似しないでくださいよ」
「ああ? テメェが勝手に被せて来たんだろうが。気持ちワリィ」
アリシアの額に血管が浮かぶ。
「は? 元はと言えば神田が私の手をバチーンと叩いてきたからいけないんでしょうが!」
神田が鼻で笑う。
「テメェと握手するくらいなら、コムイとしたほうがマシだ」
くだらない応酬だと分かっていてもアリシアの怒りは頂点に達した。そして一瞬表情を消して、極上の笑みを称えながら言う。
「流石、神田です。握手という言葉を知っていたんですね。賢い賢い」
「なっテメっ!」
「私、忘れていました。あなたがどうしようもなく馬鹿で教養がないということを」
神田が六幻を掴む。
「どうしても黙らねえなら叩っ切るぞ」
アリシアは立ち上がり、神田を見下ろしながら嗤う。
「やってみたらどうですか? 私が撃つほうが百倍速いですけどねぇ! 考えたらわかると思いますけど? 流石馬鹿ですね!」
「テメェ!」
まさに一触即発な雰囲気の中で列車が止まる。次の駅に着いたのだ。
しばらくにらみ合いが続いたが、客室のドアがひどく控えめに叩かれる。二人が殺気立ってそちらを向くと探索部隊のリーダーが現れて、戦々恐々としながら言った。
「お取込み中大変申し訳ないのですが……」
神田は舌打ちして六幻を腰に戻す。
「いいからさっさとしゃべろ」
青筋を立てながらアリシアが笑う。
「いいえ? 取り込んでもいませんし、失礼でもありません。どうぞ?」
アリシアの顔に怯えながらも探索部隊は言い切った。
「すみません、私たちの同行はここまでです」
なぜそんなに申し訳なさそうなのだろう。任務ごとに探索部隊が変わるのは当たり前だ。
「そうなんですね、お疲れさまでした。じゃあ、次の探索部隊と交代ですね?」
探索部隊は苦い顔をして後ろをちらりと見た。
「いえ、それが、あの」
歯切れの悪い応答にアリシアが首を傾げていると、探索部隊の後ろから真紅の団服を着た男が現れた。後ろには部下であろう団服を着た青年を連れている。
エクソシストとはまた違う真紅の団服。金糸の入ったきらびやかな服がアリシアたちの前に躍り出た。
神田とアリシアが互いに目を合わせる。この時ばかりは息が合った。
一番最初に入ってきた中年の男がにっこりと笑みを作る。
「こんにちはアリシア、神田。お久しぶりですね」
男は笑みを張りつかせながら目だけ笑っていない。
アリシアはあからさまに顔をしかめる。神田を見るときよりも表情を歪めた。
男はその表情さえも面白そうに目を細める。
アリシアは口に出すことさえも嫌そうに彼の名を吐き捨てた。
「……ルベリエ長官」
prev / next