▼ あなたに愛が届くまで20
神田は驚いて席を立った。ガタンと椅子が倒れる。そして何も驚かない二人を見て目を丸くする。
「お前、頭おかしくなったのか?」
アリシアは真剣な表情で神田を見返した。
「おかしくなってませんよ。証明することも容易いです。ミセス・リッツ。よろしいですね?」
マーシャは頷いた。
「ええご自由に」
「失礼します」
おもむろにアリシアは手を伸ばした。手はマーシャに近づいて彼女に触れようとした。
だが、指はすり抜けてマーシャの身体を貫通した。神田は目を見開く。アリシアはあっさりと手を引いた。
「つまり、マーシャさんはイノセンスの作り出した幻だったわけです」
アリシアの言葉にマーシャは笑う。
「ええ、その通りよ。私はもう死んでいるの」
神田は唸る。
「もとから存在しないわけじゃなく死んでからも意思を持っているってことか?」
アリシアは頷いた。
「ええ、そうです。言わばイノセンスが作り出した幽霊です」
「あら、言いえて妙ね」
「私も最初は気が付きませんでした。でも、おかしいと思う点は多々ありました。――あなたのことは私たちにしか見えてないはずです。だから、市長がやってきた時は話に少し齟齬ができていましたね」
マーシャがくすりと笑う。
「ええ、大体は同じことを言うから。合わせやすくはあったけど、バレないかひやひやしたわ」
「それに工房の親方がいつまでたっても電話に出ないとおっしゃってたんで、性格上おかしいんじゃないかと後々思いまして調べて頂きました」
コムイの資料を取り出して見せた。内容はマーシャ・リッツとその他周辺の近況と書かれている。
「あなた、ここ半年くらい誰にも姿を見られていません。それは独り暮らしの老人にとってありえない事だと思うんです」
老人が暮らす。ましてや足の悪い老人がそんな頼らない生活ができるとは思えない。今まで誰にも気づかれなかったこと自体奇跡に近いのだ。
「あらあら、なんでもお見通しなのね」
アリシアは苦笑する。
「黒の教団はどこにでもサポーターがいますから」
「あらあら、そうなのね」
神田はじれったくなったのか口を開いた。
「ばあさんが死んでるのは良くわかった。肝心のイノセンスはどこなんだよ?」
アリシアは悔しそうに神田を見つめる。
「私たちがここに持ってきたんですよ」
神田は眉を寄せた。
「どういうことだ?」
まだわからないんですかとアリシアは嘆息する。
「つまり、親方に頼まれた小さなオルゴールがイノセンスだったんです」
神田は驚いた表情で固まった。
「はぁ!?」
アリシアは頭を抱える。
「つまりマーシャさんに踊らされていたわけです。この街で一番安全なところだったかもしれないですね」
AKUMAの動向を息子の言葉から推測し、黒の教団からも目をつけられても気づかれない。AKUMAと黒の教団をぶつけ合わせ安全に保管する。
「核心に変わったのが、奇怪がマーシャさんに話した途端変わったことです」
「どういうことだ?」
「ケインさんは最初、馬に轢かれて死んでいた。けれど、マーシャさんに話してからはダルクさんがケインさんを刺し殺す幻に変わっていたんです。これはおそらくダルクさんやケインさんが経験したことではなく、第三者が感じたことが幻想になって現れたんだと思ったんです」
これはマーシャも驚いていた。
「あら、変わっていたのね。私の推測がそのまま出ていたということかしら」
アリシアは頷く。
「その通りです。あなたは真実を知らなかったから変わったんです」
マーシャはうって変わって真面目な面持ちに変わった。
「私が行かなかった日、ダルクは私の家にやってきたの。全身を雨で濡らして……その時あのオートマタを持っていた。けれど、尋常じゃない様子に私は何も聞けなかったの真実を聞くのが怖かったの」
マーシャは頭を抱える。
「もし夫がケインを殺していたら……気が気じゃなかったわ。愛していたからこそ聞くのが怖かった。だから、私は真実が知りたかったの。それまで死ぬに死ねなかった」
部屋に重たい空気がのしかかる。だが、マーシャは笑った。
「息子が前に珍しい鉱石から作った歯車だって言って私にそれを使ったオルゴールをプレゼントしてきたの、私はすごく気に入って零時にオルゴールを流していたの。そして毎晩願ったわ。もう少しだけ時間をくださいって。それが調子が悪くなったから死ぬ直前に預けたの。で、死ぬ時に願ったらこうなったの」
不思議でしょう? とマーシャは茶目っ気がある笑い方をした。
だから、毎晩零時に人が眠りについたのだ。奇怪の理由もよくわかった。
アリシアはマーシャに問いかける。
「ミセスリッツ。本当に真実が知りたいですか?」
マーシャは力強く頷いた。
「ええ、ええ! そのためにこんな状態なのだから。知りたいわ!」
「わかりました」
テーブルに置いたオートマタの背中を開ける。すると一通の便せんが入っていた。
マーシャが声を上げる。
「まぁ! そんなところに!」
アリシアはマーシャに筆跡が見えるように広げた。
「ダルクの文字だわ」
「読み上げた方がいいでしょうか?」
マーシャは何度も頷く。
「ええ。お願い」
「では――」
***
愛するマーシャへ
あなたがこの手紙を見ているということは私はこの世にはいないのでしょう。
この手紙はマルコにオルゴールと共に預ける予定です。どうするかは彼が決めるでしょう。
私は気の小さな業突く張りです。
私たちの結婚前にあなたがケインに恋していたことを知っていました。私はどうしてもあなたのことが好きだったから奪われたくなかった。
だから、二人が駆け落ちをすると耳にした時は気が気じゃなかった。
だから、約束の場所に現れたケインに私は這いつくばってお願いしたのです。どうか私からマーシャを奪わないでくれと。もちろん彼には笑われました。憐れんで、罵倒されました。けれど、私は諦めきれず追いすがったのです。すると彼は持っていた工具で私を殴りました。私のおでこの皮膚は切れて血が大量に出ました。彼の持っていたオートマタにもかかってしまいました。
それでも私は彼に縋り懇願しました。
するとケインはじゃあマーシャが十二時までに来なかったら諦めてやると言ったのです。彼は自信たっぷりに言いました。私は彼女が来ることを確信しているように見えました。事実私も来るだろうと思っていました。
けれど、彼女の幸せを思うならと了承したのです。
あなたは来ませんでした。
ケインは絶望しきり、オートマタを地面に叩きつけてどこかへ行ってしまいました。
なぜ、あの時あなたは来なかったのでしょう。
私は浮かれていいのだろうかと思いました。
だから、あなたの居る家へ訪ねに行きました。あのオートマタを持って。
あなたは大変驚いていましたね。
でも私は安心したのです。
あなたは私を選んでくれたのだと。
だから、私が今まで素晴らしい人生を送ってこられたのはあなたのおかげです。
今でも、一番大切に思っています。
どうか、私の罪をお許しください。今まで黙っていて悪かったと思っています。
どうか、私がいなくとも幸せな人生が送れますよう。
ダルク・リッツより 親愛なるマーシャへ
***
読み終わると、マーシャの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「馬鹿ね、隠すことなんて何もなかったんじゃない」
アリシアは微笑む。
「もう、思い残すことはないですか?」
すると、輪郭がぼやけたようにマーシャの姿が溶けていく。
「いいえ、最後のお願いよ」
「なんですか?」
「机の引き出しにある手紙をオルゴールと一緒に届けて。あなたたちも必要でしょうからオルゴールは鳴らすだけでいいわ」
アリシアはにこやかに頷いた。マーシャの安心した吐息が響く。
「ありがとう優しい使徒さん。これで私も眠れるわ」
マーシャの姿が光に混じって溶けた。アリシアはオートマタのネジを巻く。
オートマタは動きだした。歪なメロディーと共に。オートマタは互いを慈しむように抱き合いキスをする。メロディーは慈しみ深かきという讃美歌だった。
眠りには相応しいかもしれない。
マーシャの笑い声が聞こえた。
「やっぱりあの人オルゴールを作るのはへたくそね」
そして、光は収束してマーシャは消えた。代わりに残ったのは小さくなった骸骨だけだった。薔薇の匂いのした家は一気に異臭を放つ。
「匂いは勘違いじゃなかったんですね」
今まで気づかれなかったのも、イノセンスが作用していたからなのかもしれない。
だが、イノセンスは奇怪を止めたのだ。もう、誰もオルゴールの音色を聞いて眠ることはない。
アリシアは近くにあった机の引き出しを開ける。そこには一枚の封筒が入っていた。
――息子、マルコへ。
と達筆な文字で書かれている。マーシャの字だろう。
アリシアは大事そうに手紙をポケットにしまい。
神田に笑いかける。
「任務完了! ですね?」
神田は大きく息を吐いて、アリシアを見た。
「ああ」
***
看守は溜息を吐いた。
こんな楽し気なお祭りの日なのになんで自分はこんな陰気なところに居なければならないのだろうと。だが、それも仕方がない。
この街では誰もが知っている男が殺人犯だったのだ。
街ではその噂でいっぱいだろう。地下に居ても聞こえてきそうなくらいだ。
マルコ・リッツは地下の暗くて日が差さないところで幽閉されていた。だが、正気であるかはわからない。マルコはしきりに僕は悪くない、ママ助けてとずっと呟いている。
正気などもう前からなかったのかもしれない。
看守はまた溜息を吐くと、机の上にある紙の束を広げた。
これは警察が一ミリたりとも知りえなかった情報が詰まっていた。
マルコの秘書リアがマルコの指示によって大量殺人をしたという記録だ。
中には、事故で死んだはずの人々も彼らの仕業だというものだった。
――まったく信じがたい。
黒の教団という組織から送られてきたその資料によるとすべての辻褄が合うのだ。そう考えると恐ろしい。目の前の殺人犯よりも薄ら寒いものを感じる。
資料をつまみ上げて看守は嘆息する。
どうやら、胸にローズクロスをつけたものは黒の教団の所属であるからつつがなく通せと上司からも言われている。まったく厄介な者たちに街も目をつけられたものだ。黒の教団は今日限りで街を出るとの噂だが本当だろうか。
すると上に通じるドアが軋んだ音を立てて開いた。何事だろうと看守は立ち上がる。
上司だろうかと即座に敬礼した。
「お仕事ご苦労様です」
そう言ったのはまだ幼さを残す少女だった。西洋人としてはずいぶんと小さい。逆に後から入ってきたはっとするほど美しく、中性的な美貌を持つ少年はすらりとした長身だ。彼らは黒いコートを着て胸にローズクロスがつけられていた。
看守は硬直する。
黒の教団の関係者だ。思わず何をされるんだろうと怯えた。
だが、小さな少女がにっこりと看守に笑いかける。
「少し、マルコ・リッツと話をしても?」
看守は面倒そうに頷く。
「ああ、構わないが、あれはもう人と話せる状態じゃないよ」
少女はマルコの様子を見て苦笑いする。
「まぁ、別に話が通じなくてもいいんです。これはただの約束ですから」
背後にいた少年が子馬鹿にしたように少女に言う。
「おい、どうでもいいからさっさとしろ」
「うるさいな、こじれるから黙っててくださいよ」
少女は牢に近づいてマルコに話しかけた。
「お届け物です。マーシャさんからあなたへ」
するとマルコはさっきまで視線が合わなかったのに急に視点が合う。
「ママっ!」
アリシアは手紙を渡した。
マルコは急いでびりびりと封を切り、手紙を広げた。
マルコの目が見開かれる。
マルコは手紙を持ちながらすすり泣き始めた。それを見た少女は苦笑いする。
どんな内容が書かれていたのだろう。看守は気になって近づいてみた。だが、少女に立ち塞がられる。茶目っ気のある表情で少女は笑った。
「あなたも手紙を見られるのは嫌でしょう?」
微笑まれているのになぜか強い圧力を感じて看守はたじろいだ。
「あ、ああ、そうだな」
そして少女は小さなオルゴールを取り出した。ネジを巻き、地面へと置く。
静かにオルゴールは鳴り出した。音色は温かく、どこか切ない。聞き覚えがあるが、どこで聞いたのかまるで分らない。地下でオルゴールの音は反響し、さらに美しいものに聞こえた。少女はマルコに問いかける。
「あなたに愛は届きましたか?」
マルコは手紙を握りしめ、呻いたまま何も言わない。だが、少女は満足そうに頷いた。傍らに立っていた少年がしびれを切らしたかのように口を開いた。
「おい、もういいだろ?」
少女は顔を顰めた。仕方なさそうに地面に置いたオルゴールを拾い上げる。
「まったく情緒ってものがありませんね」
「そんなもんあったって無駄なだけだ」
「ホント、あなたって人は……!」
お互いに罵り合いつつ、二人は階段を上っていく。それがなぜか微笑ましく見えたのは看守だけではないだろう。彼らは地上に続くドアを開ける。
二人に光が差した。それがあまりにも美しく見えたから看守は吐息を漏らす。
看守には二人の背中から羽が生えているように見えた。
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