灰男小説 | ナノ


▼ あなたに愛が届くまで18

アリシアが目的地に到着した時にはもうすでに幻は始まっていた。
 ケインが晴れやかな笑顔で工房街に続く道から駆けてきたのだ。アリシアは無言でケインを追う。彼が持っているのは一対のオートマタ。まだ血で汚れてはいない。
 そして、ケインが事故に遭う場所までたどり着く。
 息を詰めてアリシアはケインを見つめた。
 だが、ケインは難なくその場所を通り過ぎた。
 アリシアの見当が核心に変わる。
「やっぱり!」
 まだ油断はできない。どういう風に幻が変わるのかも見なければ、本当に思った場所にたどり着くのかはわからない。
 ケインは走り続けて街の中心部である時計仕掛けのオルゴールにたどり着く。息が荒く満面の笑みでマーシャを待っている。やはり違う展開だ。
 すると、住宅街の方から黒塗りの馬車がやってきた。馬車は時計塔の前で止まり、一人の男が出てくる。恐らくダルク・リッツだ。黒いシルクハットを被り、ケインに近づいていく。最初は目を丸くしていたケインだが、誰が降りてきたかわかると表情を険しくした。
 ケインが何かダルクに言っている。表情と身振り手振りから、罵倒しているのがわかった。けれど、ダルクは何も言わず、うつむいている。
 一方的に言い募るのも疲れたのか、ケインはダルクの襟をつかみ上げ、罵る。
 かなり感情的になっているが、止まらなかった。その間もダルクは喋ろうとはしていない。激昂しているケインが、息を止めて、体が硬直した。
 顔を上げたダルクは無表情でケインを見つめていた。何にも感情がないように。ナイフでケインを刺したのだ。
 崩れ落ちるケイン。オートマタも手から零れ落ちて、血の海に沈む。その間ダルクは何も言葉を発さず馬車にケインを乗せた。黒塗りの馬車はすぐに出発し、すぐに見えなくなった。ダルクだけが取り残される。血で濡れた一対のオートマタを拾い上げた。
 雨粒が空から落ちてきた。
 だんだんと雨は酷くなり、血だまりが薄くなっていった。
 アリシアは手を広げて、雨を受け止めようとする。けれど、雨はアリシアの手をすり抜けて地面に落ちた。
 本当には降っていないことがわかる。
 そしてダルクは歩いて住宅街の方向へ戻っていく。オルゴールが鳴る中、闇へと消えていった。
 ダルクがケインを殺す。その結末は変わっていない。
 アリシアはうなった。
「なるほど、ということは……」
 アリシアの通信機が鳴り始める。恐らく神田からだ。
 通信を繋げると、多少の雑音はあるがちゃんと声が聞こえてきた。
「終わったぞ」
「ありがとうございます。こちらも現場に向かいます」
「AKUMAはどうした?」
「とりあえず結界で閉じ込めておきました。でも、あまり保ないでしょう」
 結界は基本的にレベル1を閉じ込めておくくらいの強度だ。三十個あったとしてどれほどの時間稼ぎになるかわからない。
 神田もよくわかっているのだろう。時間は限られているのだ。
「……急げよ」
「心配しなくても、後十分もかかりませんよ」
「そうかよ」
「イノセンスのありかもある程度絞れました。後はレベル2を倒すだけです」
「くたばんなよチビ」
「私は死にません。神田も病み上がりでへばんないで下さいよ?」
「うるせぇ」
 静かに通信が切れる。後は向かうだけだ。
 オルゴールの音がなくなった。もう二時間経ったのだ。
 背後から強い殺気が近づいていることに気が付いてアリシアは振り返った。アリシアは冷汗が垂れる。
 鬼気迫る表情をしたリアが立っていた。歪んだ笑顔を浮かべてアリシアを見ている。
「見つけたわ」
 
 ***
 
 アリシアは全速力で走る。まるで猛獣に狩られる前の兎のようだ。
 猛獣はものすごいスピードでアリシアを追いかけてくる。
「待て! 今度こそ殺してあげるんだから! めちゃくちゃにして切り刻んでやる」
「ごめんですね! 私はあなたには殺されません!」
 転換していないのにリアは異様な速さだ。追いつかれるのも時間の問題かもしれない。
 だが、不幸中の幸いなのかリアは能力を使って人々を操ってはいない。頭が回らないほど怒り狂っているのかもしれないが。
 目的の工房街にたどり着くまであと少し。リアはもうすぐ傍まで来ている。どうやっても自分の足では間に合わない。
 背後で気配がしてアリシアは横っ飛びに転がる。
 リアが舌打ちする。手はすぐ側まで来ていた。
 思わずヒヤリとする。アリシアは後退しながら発砲し、けん制した。
 リアはなんてこともなくその弾を避ける。また突進してきたところでアリシアは走り始めた。触れられれば作戦は失敗だ。その為にアリシアは生き残らねばならない。街の人に被害が及ばないよう、自分たちが勝つために。
 だが、勢いを失くしたアリシアにリアは突撃してくる。
 もう何度攻防をしているかわからない。息が完全に上がったアリシアは足元がもつれて転倒した。その哀れな逃げっぷりにリアは笑う。
「哀れな哀れなエクソシスト。お前の信じる神は助けてくれませんよ?」
 もうアリシアが逃げられないとリアは確信したのだろう。
 優勢だと思って恍惚の表情でくつくつと笑っている。後は触れるだけで殺せるのだから余裕なのだろう。アリシアは必死に後ずさる。
 だが、アリシアは笑っていた。
 虚勢でも何でもない。本当の笑みだ。
 リアはその表情に激昂する。
「なぜお前は笑っていられるのです! もう殺されるのに!」
 アリシアはにっこりと笑った。
「生憎、私は神の使徒ですが神を信じているわけではありません」
「なら、なぜ怯えない! 怖がらない! お前は今ここで私に殺されるのに!」
 地団太を踏むリアはまるで少女のようだ。
 アリシアは笑みを絶やさない。
「私が信じているのは一緒に戦う仲間たちです」
「何を……っ!」
 まばゆい光がアリシアたちを照らす。リアは目がくらんだように頭を振った。屋根上に白い光が八つ結界を持った探索部隊だ。
「ご苦労様です! 助かりました!」
「エクソシスト様御無事で!」
 結界はアリシアとリアの間にきっちりと隔たっていた。彼らはあらかじめ作戦に支障をきたしそうになった場合、助けてもらうように待機してもらっていたのだ。
 リアはそれに気づき発狂する。
「ゴミ虫共め!」
 リアが結界内で暴れている。どこか既視感を覚えながらアリシアは探索部隊に言う。
「早くポイントに行きましょう! 無駄に残って死ぬ必要はありません」
 探索部隊たちは結界装置を慎重に置いて闇の中に消えていく。
 アリシアも走って目的地へと急ぐ。背後からはリアの怨嗟のような叫び声が聞こえてきた。だが、もう怖くはなかった。
 
 ***
 
 工房街の中にはまっすぐで大きい長方形の道がある。大きな袋小路のようになっており、逃げ場はない。そこでアリシアは一人AKUMAの到着を待っていた。
 たった八つの結界だ。すぐに破られるだろうと思っていたが、なかなかリアは現れない。恐らく警戒されているのだ。二度も結界に捕らわれてアリシアを逃している。
 煮え湯を飲まされるのはこりごりだろう。
 作戦は今のところ上手くいっている。目的地までアリシアはなんとかたどり着くことができたし、人的被害はない。上々と言っていいだろう。
 だが、優勢なのはリアが能力を使ってないからだ。人々を盾にされたり操られると厄介だ。通信機が鳴る。応答すると神田の声が聞こえてきた。
「おい、来ねぇじゃねぇか」
「いえ、来ます。AKUMAは私たちを殺すために躍起になっているはずですから。――へマしないでくださいよ?」
「うるせぇ」
 神田らしい返しにアリシアは笑う。笑い声が癇に障ったのか神田は舌打ちしたようだ。
「ねぇ、神田」
「なんだよ」
「この戦いが終わったら一つ約束してくれますか?」
「……内容による」
 素直にいいと言ってくれないあたりが神田らしい。
「今回のパートナー制度は良くなかったってコムイに言いましょう。もうあなたとパートナーは嫌です」
「っは! そうかよ」
「あなたは一人で行動しがちで、私たちはこの任務で一度もパートナーらしいことなんてしてません。でも――」
「でも?」
「ちょっと悪くなかったかなって思ってます」
「はぁ? 矛盾してるぞ」
「そうですね、いい経験になりました。アール以外との任務は初めてだったので私も見直さなきゃならない課題点がわかりましたし良かったんです。もうこりごりですけど」
「お前とは合わねぇ」
「神田は誰とでも合わないでしょう?」
「うるせぇよ」
「約束は、一つだけ」
 アリシアは微笑む。
「全てが終わったら握手をしましょう」
 神田は一瞬意味が分からなくなったのか間を開けた。
「はぁ?」
「これからよろしくって意味じゃなく。短い間でしたけどありがとうの意味を込めてですよ」
「そんな自己満足に付き合ってられるかよ」
「あら? あなたがへまして抱えながら逃げるの大変でしたねー。何せ私はチビですから」
「……ちっ」
 自分の失態を思い出したのだろう。言葉では神田はアリシアに勝てない。神田の嫌そうなしかめっ面を想像してアリシアは笑った。
「――おい、来たぞ」
 足音が聞こえてくるそれも大勢の。やはり、リアは住民たちを連れてきたのだ。アリシアは少し緊張した声音で神田に言った。
「じゃあ、手はず通りに」
 無言で通信が切れる。
 アリシアは背筋を伸ばし、大きく息を吸う。
 大仕事はこれからだ。
 袋小路にどんどん人が入ってくる。およそ五十名ほどの人間たちだ。中には逃げ遅れたのだろう探索部隊も数名いた。完全に銃などで武装した住民たちがこちらに歩み寄って来ている。その中心にリアがいた。アリシアは不敵に笑う。
「人に囲まれてないと不安ですか?」
 簡単な挑発にリアは揺らぐことはなかった。
「あなたは弱いけれど、小賢しい手を使ってくるから私も使うだけだわ」
「銃で蜂の巣にされるのは嫌ですね」
 リアは冷笑する。
「正しい使い方っていうのは違うわ」
 操られている人々は一斉に銃口を己の側頭部にあてる。
 アリシアは目を見開く。体のいい人質なのだ。アリシアは苦虫を噛んだような表情になった。
「流石AKUMA。最低な手ですね」
「あなたみたいな人間は優しいからこういうのに弱い」
 つまり、動いたら一瞬で彼らの命はなくなるのだろう。アリシアは歯噛みした。リアはアリシアの表情を見てうっとりとした声を上げた。
「動いては駄目よ? あなたは一番残酷な手で殺してあげる」
 数人の銃口がこちらを向いた。
 操られた人々は一斉に発砲する。銃弾はアリシアの頬をかすめ、肩口を抉った。アリシアは痛みに顔を顰める。軽傷だが、これはまだ最初なんだろう。その気になれば住民たちを一人ずつ殺してから、アリシアに触れ嬲り殺してくるんだろうと予想が付く。
 だが、アリシアの瞳は揺らがなかった。
 その目を見てリアは不愉快そうに睨みつける。
「弱いくせに、一人じゃ何にもできないくせに、なぜそんな目ができるの!」
 アリシアは肩を竦める。
「弱いからです」
 意図をはかりかねたリアが首を傾げる。
「確かに私は弱い。弱いから、誰かに助けてもらって今まで生きてきました。今までの任務では助けてもらうことの方が多かった。だからあらゆることを考えて、策を練って、犠牲を少なくするのが私の役目です」
「役目?」
 アリシアは頷く。
「出来ないことは確かに放っておいては良くないことだけれど、その分得意を活かすんです」
 アリシアはサルガタナスを発動させて腕を持ち上げた。リアに銃口を向けて。リアは目を丸くした。
「あなた正気? 人を見殺しにするの?」
「いえ、私は誰も犠牲なんかにしませんよ」
 リアは侮蔑したようにアリシアを見る。
「なんだかんだ言ったって結局自分の命が惜しいのね。いいわ、この人たちには死んでもらいましょう」
 人々が引き金に指をつがえる。殺す気なのだ。
 リアは一対一では負けない自信があるんだろう。自分で考えてみても勝機はない。アリシアは銃口を上に向けた。リアは瞠目した。
「お前何を!」
 アリシアは笑った。
「言ったでしょう? 私には役割があるんです」
 アリシアが空に向けて発砲する。弾は上空に飛び、弾けた。化学班特製の閃光弾だ。目がくらんだリアは一瞬人々の制御を手放した。
 アリシアは叫ぶ。パートナーの名前を。
「神田――!!」
 人の群れの中の探索部隊が一斉に動き出す。その一人は黒い刀を持っていた。六幻が発動する。
「災厄招来!」
 人々は界蟲に薙ぎ払われる。界蟲は器用に人々を道の脇に追いやった。リアはかろうじて避けて、界蟲の追撃から逃げた。
 リアは白い団服を着た男を睨みつける。
「お前、まさか、まさか――!」
 フードを目深に被っていた男は口元で笑った。
「人形遊びをするにしちゃ、年がいってるぜ? アンタ」
 現れたのは月明りに反射するつややかな髪を高い位置で結った綺麗な男だった。
 リアは驚愕する。
「お前は殺したはずだ! 自分のイノセンスで心臓を貫いて……!」
 神田は傲然と笑った。アリシアが肩を竦める。
「いやーほんと何で生きてるんでしょうね? 私も不思議ですよ。生命力はゴキブリ並みです」
 神田は顔をしかめてアリシアを睨んだ。アリシアは怖い怖いと言いながら、リアに銃口を向ける。
「さあ、あなたのお人形たちはもう使えませんよ?」
 リアは獰猛に笑う。
「そんなはずないわ。ただ脇に追いやられただけじゃないの!」
 アリシアが愉快そうに笑う。
「何がおかしい!」
「言ったでしょう? 策を練るのが私の役目だって」
 周りに退避した探索部隊の面々が一斉に懐からボタンを取り出して押す。
 アリシアたちの周りに結界が展開される。それも二重に。一番小さなものはアリシア、神田、リアを取り囲み、もう一つは道ギリギリに展開されているものだった。銃は一番小さい結界の中でリアが操って殴り合いをさせたとしてもリアに触れられていない探索部隊の面々が止めてくれる手はずだ。
 アリシアはにっこりと笑う。
「あなたが使える駒はもういません」
 リアは一瞬憤怒で顔を歪めたが、すぐに満面の笑みになった。
「忘れてないかしら? あなたのお仲間はまだ私の術中にあるって」
 手のひらを叩こうとするリアにアリシアは躊躇なく発砲した。
 手はずれて打ち鳴らせない。それに次ぐように神田も動いた。
 素早い攻撃で手を打つ暇を与えない。
 リアが苦痛で顔を歪める。
 距離を取るとアリシアの弾丸が飛び、その隙に神田が距離を詰めて斬り結ぶ。即席のわりにはいいコンビネーションを作っていた。
 リアが絶叫する。
「エクソシスト共がぁ!」
 神田は冷笑する。
「じゃあなクソAKUMA」
 真正面から神田が斬りかかろうとしたその時、発砲音がして神田の肩を貫いた。神田が、崩れるように座り込む。アリシアは驚いてそちらに銃口を向ける。硝煙が一つの銃から噴いていた。
「リア! 何をやっているんだ!」
 叫んだのは市長のマルコだった。
 突然の第三者の登場にアリシアも困惑せざるおえない。確かに人の出入りを塞いだはずだ。なぜマルコは結界内に入ってこれたのだろう。アリシアは動揺した。
 リアは瞬時に状況を理解した。酷く顔を愉悦で歪ませた。
「私の勝ちですね」
 気づいた時には手は叩かれていた。アリシアは一気に青ざめる。神田は機械的に立ち上がり、アリシアの方をを見て六幻を構える。
「くっ!」
 アリシアが銃を神田に向ける。するとリアは笑った。
「あら、いいのですか? 一人の命が消えますよ?」
 すると野太い悲鳴があがる。マルコの持った銃口は彼自身の側頭部にあてられていた。アリシアは舌打ちする。どうにも厄介だ。
 マルコは顔歪めてリアに哀願する。
「リア! 何故だ! 僕の味方のはずだろう!?」
 リアは酷薄に笑う。
「あなたの味方だったことなど一度もありません市長」
「そんな! いつも僕の言う通り人を殺してくれたじゃないか! ああ、これは演技なんだろう? 黒の教団なんてクソ組織に鉄槌を与えるためにそうしてるんだろう?」
 アリシアは市長の言い振りから推測する。どうやら市長はリアのことはAKUMAだとは知らないようだが、特殊な能力を有することを知っていたようだ。
「一つ知りたいんですが、あなたは父親であるダルク氏を殺せとリアに言いましたか?」
 マルコは声を震わせながら言う。
「あれは事故だったんだ! 僕はパパが嫌いだったけど、殺してほしいなんて思ってなかった! 死んだらいいのにとは言ったけど、まさかそうするとは思わなかったんだ!」
 リアが愉快そうに笑う。
「ダルク氏は賢く操りにくそうだったので、こちらの馬鹿に市長の座を譲ってもらっただけです。あれはとても愉快でしたよ?」
 瞳を潤ませてリアはうっとりとした表情になる。
「自分で地面に頭を何度も何度も打つつけて、打ち続けて、血まみれになって死んでいったのだから!」
 だから棺の中の骸骨は頭が砕けていたのだ。
 哄笑するリアをアリシアは睨みつける。意気消沈したかのようにマルコも黙った。やはりAKUMAの思考は醜悪だ。
「最低ですね。あなたも市長も」
 リアは余裕ぶった手振りで手を打った。
「死んでいく人に何を言われても、何も感じないわ」
 神田がアリシアに向かって突進してくる。大振りに振った六幻がアリシアを真っ二つにしようと縦に振られた。アリシアは転がって避ける。だが、神田の攻撃の手は緩まない。ほぼ予備動作などなく突きをしてくる。アリシアは辛うじて避けた。だが、足で銃を持っていた腕を押さえつけられる。
 その様子を見てリアは無邪気に笑う。
「無様」
 アリシアは唇を噛み締めた。神田が無表情でアリシアの喉元に六幻を突き付ける。
「神田! 私たちはこんな所では終われないでしょう?」
 神田の表情は変わらない。アリシアは塞がれてない腕で団服の胸のローズクロスを掴む。
「私たちはエクソシスト、AKUMAを唯一壊す者なんですから!」
 神田の動きは止まらない。アリシアはまっすぐに神田を見た。六幻がゆっくりと持ち上げられる。アリシアは目を閉じた。
「災厄招来!」
 六幻が横に振られる。
 アリシアじゃなくリアに向かって。リアは瞠目した。
 界蟲はリアに対して突っ込んでいく。宙に向かって逃げたリアに神田も跳躍する。神田は目にも止まらぬ速さでリアの両腕を切った。
 リアが力なく地面へと落ちていく。受け身も取れず墜落したリアは何が起きたのかわからないといった表情をしていた。
 神田はしなやかに着地して、リアに向けて六幻を突き付けた。
「終わりだ」
 リアの顔が苦渋に歪められる。その反対でアリシアは悠々と立ち上がり、汚れた団服を払った。
「やあ、ひやひやしましたね。本当に殺されるかと思いました」
 神田は振り向かない。じっとリアを見つめている。
「なぜ!? あなたは私に操られていたはず! どうして?」
 神田はようやく振り返った。
「おい、もう取っていいか?」
 アリシアは満足そうに頷く。
「まぁ、いいでしょう」
 すると、神田は両耳に指を突っ込んで何かを掴んだ。耳から出てきたのは耳栓だった。
「あなたの能力の発現は音ですよね? なら聞かなきゃいいだけなんですよ」
 要するに神田は操られている演技をしただけなのだ。合図はローズクロスを掴むこと。それにまんまと騙されたリアはもう勝機などなかったのだ。
「ちなみに市長を招き入れたのも私たちです。聞きたいことがありましたからね」
 すべてはアリシアの思い通り。負ける要素はどこにもなかったのだ。
 リアは悔し気に唇を噛んだ。一瞬、マルコを見る。マルコは銃をアリシアに向けた。
 パンと乾いた音が響く。硝煙が出ていたのはアリシアの方だった。マルコの銃は弾丸によって弾き飛ばされた。リアが舌打ちをする。
 やれやれとアリシアが肩を寄せる。
「往生際が悪いですよ?」
 アリシアはゆっくりとマルコに近づき殴り倒す。
 マルコが男らしからぬ甲高い声をあげて倒れこんだ。そこに暇もなくアリシアは胸元を探り、ロープでマルコを縛り上げた。うめくようにマルコが言う。
「ボクは悪くない。何にも悪くないんだ」
 アリシアが顔を顰める。神田はぼそりと気持ち悪い奴と呟いた。
「いえ、十分悪いですよ。AKUMAに手を貸し、私利私欲の為に人殺しを指示したんですからね。あなたは後で警察に突き出します」
 マルコは小さく呻くと嗚咽をこぼし始めた。
「ママ、助けて、ママ」
 マルコを無視してアリシアは神田と同じように倒れ伏すリアに銃口を向けた。
「さあ、懺悔の時間は必要ですか?」
 リアは体を震わせた。恐怖からかとアリシアは思ったが違う。
 彼女は笑っているのだ。
「私はまだ負けてはいないわ!」
 リアの体が大きく膨らみ始める。転換するつもりなのだ。アリシアは後退しながら神田に向かって叫ぶ。
「神田! 耳栓してください!」
「どうすんだ!」
「サポートします! 時間稼いでください!」
 神田は瞬時に耳栓をつけて、六幻を構える。
 体積が何倍にも膨れ上がったリアの本体は醜悪だった。ひょろ長い無数の手が本体を覆い隠すかのように生えている。手はリズミカルに音を鳴らしている。大気を震わすような大きな振動だ。アリシアは後退し続けて、手のうちの一つづつを撃っていく。けれど、手を跳ね飛ばされてもすぐに本体から生えてくる。
 神田が斬りかかる。だが、あまり効果はなかった。生えてくるだけなのだ。
 神田が舌打ちする。
「災厄、招来っ!」
 界蟲はほどんど距離がないところで放たれたが、リアは跳躍して避けた。無邪気な子供のような笑い声をあげて神田に突進する。辛うじて神田は避けたが、無数の手が延びる。
 何本かアリシアが撃って散らしたが、いかんせん数が多い。神田は斬りながら避ける。神田が手に捕まるのは時間の問題だ。たまらず神田が叫ぶ。
「おい、早くしろ!」
 このままでは疲労した方が負ける。相手はAKUMAだ。疲弊するわけがない。アリシアは溜息を吐いた。
「これは出来れば使いたくなかったですが……やるしかないですね」
 アリシアは名を呼んだ。
「サルガタナス」
 アリシアのイノセンス、サルガタナスが震えた。まるで喜ぶように。燐光を放つ。
 アリシアは大きく息を吸い込んで体勢を整えた。
『我が聖なる弾丸よ――』
 サルガタナスが大きく変化していく。まばゆく光りながら、口径が倍の大きさになった。銃身も重くなっていき、銃が叫ぶように唸りを上げ、震え始めた。
 アリシアはリアに狙いを定めるが、銃が震えるせいで安定しない。だが、アリシアは詠唱を止めはしなかった。
『愚者の魂を救いたまえ』
 異変に気が付いたリアが転がるようにアリシアに突進してくる。アリシアは動じない。間に神田が入ってリアを受け止めた。じりじりと後退するが、アリシアには届かない。
 神田がたまらず叫ぶ。
「早くしろドチビ!」
 無数の手が神田を掴み放り投げる。結界に叩きつけられた神田が、呻いた。衝撃で傷口が開いたのか、胸元が血でにじんでいる。
 ――けれど、もう十分だ。
 アリシアは不敵に笑う。銃はもう原型を見ることが出来ないほど光り輝いていた。
「エクゾジズドォォォ!!」
 リアがアリシアに再び向かっていき、手が伸びていく。だが、アリシアに届くことはなかった。
『新たな光が立つ為に!』
 アリシアは引き金を引いた。するとまばゆい光線がサルガタナスから発射される。光は熱で地面を溶かし、まっすぐリアに向かっていく。リアは避けることができず、光の中に包まれた。
 
 ***
 
 光が止んだ時、神田が見た光景は異様なものだった。地面は熱で溶け、真正面にあった工房を吹き飛ばしていた。もちろん結界も破壊されている。
 地面は未だに白煙を上げている。すごい熱量だ。
 光線によってリアは跡形もなく消えていた。残骸さえない。
 アリシアはどうなっただろう。辺りを見回す。
 アリシアは地面に倒れこんでいた。神田は慌てて立ち上がろうとする。
「ぐっ!」
 身動きをするだけで胸が痛む。やはり傷口が開いたんだろう。
 だが、神田は無理やり立ち上がった。痛む胸など知らない。どうせすぐ直る。
 よろよろと足を引きずるように歩く。
 アリシアは生きているだろうか。
 仰向けに倒れこんでいるアリシアの近くに着くと神田も膝をつく。
「おい、生きてるかチビ」
 アリシアは呼応するように瞼を開けた。
「チビじゃないです」
 軽口に神田ははっと笑う。軽口が叩けるなら問題ないだろう。
「神田」
「なんだ」
「工房の人たちは無事ですか?」
 神田ははっとする。
 宿屋で作戦を聞いている時、初めに神田に対してアリシアが頼んだのは工房の人たちの退避だった。その時は操り人形にされないようにするのだろうと思ったが、この力を使うためだったのかと今わかる。
 ――奥の手はいざという時に取っておくものでしょうが!
 あの時ははったりだと思っていたが、やはりアリシアもエクソシストなのだ。
 神田は笑う。
「コエ―女」
「聞いてます?」
「誰も死んでねーよ」
 ほっとしたかのようにアリシアが微笑む。
「……良かった」
 言うとアリシアは瞼を閉じた。神田は目を見開く。
「おい!」
 揺するが反応がない。慌ててアリシアの口元に耳を傾ける。すると穏やかな寝息が聞こえてきた。あれだけ強い力を使った反動なのだろうか。揺すっても起きはしなかった。
 改めて周りを見る。探索部隊はみんな無事で、操られていた人々も何が起こったのかわからないという表情をしている。
 自分たちは勝ったのだ。厄介な能力だったが、アリシアの機転で勝利した。
 こんなギリギリの戦いはいつぶりだろう。ティエドールが知れば涙ながらに抱きしめてくるだろう。考えるだけで気持ち悪い。
 空を見るとあたりが白んでいた。夜明けが来たのだ。
 街にはもう脅威はない。
 神田はアリシアを抱え上げる。思ったよりも軽い。お互いにボロボロだ。もうこんな戦いは御免被りたい。
 コムイがパートナー制度を言い渡した時のことを思い出した。
 彼女はすごいんだよ、と。
 神田は破壊者だ。助けることなど出来ないし、犠牲の上で自分たちは成り立っている。
 ――だが。
 こんなに激しい戦いだったのに被害が誰も出ていない。これも彼女のおかげだったのだろうか。
 急になんだかおかしくなって吐息が漏れる。こんな小さな人間に守られたのだ。そう考えると余計に笑ってしまう。
 神田は何年かぶりに声を出して笑った。


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