▼ あなたに愛が届くまで16
意識が真っ暗な闇の中でたゆたっている。
神田はわかっていた。自分はきっと致命傷を負ったのだ。だから闇に捕らわれる。もう何度も経験していて今更危機感はない。きっと呪符の効果で自分は元通りに戻る。
それが日常だった。生まれてからの半年間を思い出す。あの時の実験はおよそ人として扱われているとは思えないと何度思っただろう。イノセンスは自分を拒絶し、神田自身も意味のないものだと思って終わらない地獄がいつまで続くのかと絶望していた。
だが、地獄は永遠ではなかった。代わりに違う絶望が用意されていたけれど。
自分を闇から救ってくれた友に背を向けて、頼りない希望を追いかけた。
後悔はしていない。
黒の教団は嫌いだが、いつかあの人に会えるかもしれないただ一つの道だと思っている。
あれから五年経ったのだ。
あの人はどうしているだろうか。
生きているのだろうか。
せめて名前さえわかれば。
おぼろげな記憶を失くすまいと必死に抗う日々を誰も知らない。
胸に秘めて、ただずっと大事にしまっている。
蓮を見に行こうと言った約束と共に。
必ず会いに行くと誓って日々を生きている。
――私はこの聖戦を生き残ります。
まっすぐに自分を射抜いて言ったアリシアはどうなっただろうか。
弱すぎて話にならないほどの適合率が低いエクソシスト。
自分が目覚めたら死んでいるかもしれない。むしろそうなっている可能性の方が高い。
神に選ばれたはずが、神に見放された少女。
死んでいたって何も自分は揺らがない。
そんな奴はごまんと居た。ただ黒い棺に納められて人知れず消える。
世界に居たことさえ忘れられる。それが敗者の末路だ。
アリシアは一人では戦えない。予想できる結末は一つしかない。
だが、神田はアリシアが死ぬとは思えなかった。
彼女の瞳に灯った意思が神田の脳裏に焼き付いている。
別にどうでもいいやつなのに、彼女の言葉は離れない。
きっとアリシアが生きていたら、倒れた自分を見て言うだろう。
『こんな所で死ぬなんてかっこ悪いですよ神田』
神田の心の奥にも火が付いた。
言われ放題で、こんな場所で死ぬわけにはいかないのだ。
***
「ええ。そうです。はい」
アリシアの声が聞こえる。やはり生きていたようだ。なぜか気持ちが和らぐ。神田は働かない思考の中で必死に状況確認をする。今は何時だろう。あれからどれくらい経ったのかまるで分らない。
恐らく自分は横になっている。地面は固くない。むしろ、柔らかかった。ベッドか何かに寝かされている。恐らくホテルの一室だろう。
「状況は最悪です。――応援は……」
彼女の声は緊迫していて余裕がないように聞こえた。神田はうっすらと浮上してきた意識を離すまいとした。体は鉛のように重く、指一本まつ毛一つさえも動かせない。
そうだ、自分はリアというAKUKMAに操られたのだと思い出す。強力な能力のAKUMAだ。為す術もなく致命傷を負わされたのだった。思わず舌打ちをしたくなったが、あいにくピクリとも動かなかった。
「ええ、最善は尽くします」
アリシアは誰かと話しているのだろうか。だが、相手の声が聞こえない。恐らく電話しているのだ。予想できる会話相手はコムイだ。
今の状況を説明しているのだろう。アリシアの言動を聞くに応援に駆け付けられる者がいないか聞いているのかもしれない。アリシアの言う通り状況は最悪だ。
戦力にならないアリシアと致命傷を負ってまだ動けない自分。助けを呼ばなければ、リアに殺されるのは時間の問題だろう。
それに目的であったイノセンスはリアの手に渡っている。ならば、被害を抑えるために街から脱出するのが一番かもしれない。
強力なAKUMAから尻尾を巻いて逃げるのだ。
AKUMAを破壊するのはエクソシストにしか出来ないのに。
「ええ、では、迎えを待っています」
受話器を置く音がして、アリシアの溜息が聞こえた。
意気消沈した今まで聞いたことのない声音だった。主に怒鳴り合いしかしてこなかったせいか何だか気味が悪い。
「神田はどうですか?」
すると、男の声が聞こえた。
「どうやら命に別状はないようです。傷も、ほら」
言って掛けられていた布を取り上げられる。寒い。アリシアの吐息が聞こえてくる。距離が近いのだろう。アリシアはひゅっと息を止めた。
傷の状態を見たのだろう。まだ、いい状態になっているとは言えない。だが、呪符によって回復しているスピードが速いのが見てとれるはずだ。
「心臓を貫いたのに生きてるなんて」
男がうなった。
「有りえないことはことはありえないというのがイノセンスですからね」
「それはそうですけど」
納得がいかなそうなアリシアの声に男は笑う。
「まぁ、この状態なら大丈夫でしょう。運べます」
「よろしくお願いします」
ようやく神田は目をゆっくり開けることができた。視界はまだぼやけている。だが、言わなければならない。かすれた声で神田は言った。
「待て」
***
アリシアは目を丸くする。
神田が意識を取り戻したのだ。隣で同じように驚いている探索部隊の隊長も動きを止めた。
「おい」
神田の瞳はまっすぐアリシアを見ていた。それも酷く怒っている時のように睨みつけられている。
「オレたちが何のためにここに来たのか覚えてるよな?」
「わかってます。でも――」
「逃げるのかよ」
部屋の空気は冷たく張り詰めた。
アリシアはあまりの迫力に喉を鳴らす。けれど、リアの攻撃を思い出して拳が震えた。教団のエクソシストの中でも元帥に次ぐ強さを持っていると言われた神田でさえ赤子のように致命傷を負わされたのだ。アリシアが勝てるはずもない。アリシアが力なく首を振る。
「そうです。私はあなたを抱えて逃げることしか出来ませんでした」
悔しいが一番の戦力だった神田を除いた戦いなど万が一にも勝てる見込みはない。
だが、神田は強い瞳でアリシアを射抜いた。
「俺は残る」
「神田」
「AKUMAを倒すのがエクソシストの仕事だろ?」
「でも、その身体じゃ……」
「数時間あれば動けるようになる」
「無茶です!」
「黙れ、臆病者は方ムでベッドの下にでも隠れてろ」
ゆっくりと神田は上体を起こした。痛みで顔を顰める。
「オレは逃げない」
沈黙がひどく痛かった。
諦めていない神田と諦めたアリシア。どちらがエクソシストにふさわしいのか一目瞭然だ。アリシアは拳を握りしめる。
神田に言われた通り自分は臆病者だ。敵いもしないとと諦めて自分の命の為に誰かを見捨てようとしている。それは父の教えに反することだった。
大きく息を吸い込んで、震える手を強く握りこんだ。
本当は怖い。けれど、神田にここまで言われて黙っているわけにもいかないのだ。
アリシアは必死で笑顔を作った。
嘘でもいい。虚勢を張ってなんぼだ。エクソシストが折れたら誰がこの聖戦を終わらせるというのだろう。負けてはいられない。
「誰かの為に身を尽くせる人になれ」
神田は怪訝そうに片眉を上げた。その表情があまりにも真剣で滑稽に見えた。思わず声をあげて笑う。張り詰めた空気が緩んだ。神田が怒鳴る。
「おい!」
慌ててアリシアは謝る。
「すみません。あんまりにも神田らしくないこと言うからおかしくなっちゃって」
「テメェ!」
「だから、すみませんって」
神田が脇に置いてある六幻を発現しそうになったので、探索部隊はおっかなびっくりしていたが、アリシアは動じない。そうだ、私たちは友達でも家族でもましてや仲良しでもない。
我々はエクソシストなのだ。そして、命を託すパートナーだ。
アリシアは神田からもう目をそらさない。いつものように傲慢な態度でにやりと笑う。
「まぁ、どうせ? バ神田のことだから、作戦なんて考えてないんでしょう?」
「テメェ斬られてぇみたいだな」
焦らない焦らないとアリシアは手で制した。
「まぁ、最後まで聞いてくださいよ。もし神田が動けるんなら策はないことはないです」
神田の目が見開かれる。横の探索部隊も同じようになってアリシアを見つめてきた。
アリシアは掛けてあった団服を取り、神田に渡す。
「もうずいぶん寝たから動けますよね?」
さっきとは違った挑戦的な目を神田に向ける。すると呼応するように神田も普段通り子馬鹿にしたような笑みを向ける。
「で? 作戦とやらはちゃんとレベル2を破壊できるんだろうな?」
「ナメないでください? ぶち抜きますよ?」
神田が肩を竦めた。どうやら言葉は要らないと思ったようだ。
アリシアは笑う。いつものように晴れやかに。
「さあ、エクソシストの仕事をしましょう?」
時刻はもうすぐ夜の十時だ。祭りが始まるまで一日を切った。リアの能力からして被害は格段に増えるだろう。夜明けまでにAKUMAを破壊するのだ。
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