▼ あなたに愛が届くまで12
アリシアは最近街で起こっている奇怪をイノセンスの所為かもしれないと分かりやすく説明した。するとマーシャは驚きもせず言葉を理解して何度も頷いた。その間神田は黙って見ているだけで邪魔はしなかった。説明するのが面倒なのだろう。
あらかた説明が終わるとマーシャはカップを持ち上げて口元に寄せた。
「なるほど、あの不思議な現象はイノセンス? というものが関係しているかもしれないのね?」
「はい。イノセンスは奇怪を作り出します。だとしたら可能性は高いのではないかと思っているんです」
マーシャは一口飲むとカップをテーブルの上に置いた。
「それで私に何を聞こうと言うのかしら? 私も同様に眠ってしまっているわ」
解決にはならないと言ってきている。やはり賢い。協力しないわけではないが当てにならないかもしれないと言ってきているのだ。だが、アリシアは負けじと口を開いた。
「ケインという名の男性に聞き覚えは?」
マーシャの目がわずかに見開かれる。動揺が見られるのをアリシアは見逃さなかった。
「あなたとケインさんの関係はある方に教えてもらいました。彼はどんな方でした?」
するとマーシャは目を細めた。何かを懐かしがるように。
「あの人はまっすぐな方でした」
「誠実、ということですか?」
いえ、とマーシャはにこやかに笑う。
「自分の感情に正直でした。婚約者がいる私にそんなこと関係ないと何度も求婚してきて私はそんな彼に惹かれました」
懐かしいわと頬を染めて話すマーシャの表情はまるで少女のようだった。
どうやらマーシャ自身もケインのことが好きだったようだ。親方の証言と一致している。
「では、駆け落ちしようと言われたことも本当なんですね?」
マーシャは頷く。
「ええ、嬉しかったわ。私はまだ若かったし、完全に恋に溺れていました。身分違いの恋なんてまるで恋愛小説みたいでしょう? これまでとは違う景色が見られるんじゃないかって思っていたわ。籠の鳥のような生活で夫との結婚も昔から決まっていたことだったの。それに飽き飽きしていたから余計にはまってしまったのね。でも――」
「でも?」
「気づいてしまったの。駆け落ちしようと必死に懇願された時、私は恋がしたかっただけでこの人を愛していなかったんじゃないかって」
カップの取っ手を撫でながらマーシャは視線を下げた。
「旦那はケインとのことは知っていたわ。だから、私が迷っている時に言ったの。『僕は君の幸せを願っている。どんな結果になったとしても』ってそれを聞いた時私は頭が冴えたように感じたわ。その言葉は私を愛していなければ出てこない言葉だったから」
「それでケインさんとはどうしたんですか?」
「駆け落ちしようと言った日、午前零時に街の中央にあるからくりのオルゴールがあるでしょう? あそこで待ち合わせたの。でも、私は行かなかった」
「その日からケインさんは行方不明になったと」
マーシャは頷いた。
「私も探したけれど見つからなかったわ。もしかしたら……」
マーシャは口をつぐんだ。その先を考えて口に出せなかったのだろう。アリシアは言った。
「実はオルゴールが鳴っている間、毎晩繰り返されている幻影があります。それは恐らくケインさんと旦那様が体験した出来事なのではと私は推測しています」
少しの間沈黙があった。切り出したのはマーシャからだった。
「……どんな幻影なのですか?」
「工房から走ってきたケインさんを旦那様の乗った馬車がひき殺してしまうという幻影です」
マーシャは口元が震え、手を添えた。よほど驚いたのだろう。無理もない。旦那が事故であっても人を殺したかもしれないのだ。証拠などはもう残ってはいないかもしれない。けれど、好きだった人を殺したかもしれないのが旦那と言われたら自分でもこ唸るだろうなとアリシアは思った。アリシアは苦々しく視線を逸らす。
「すみません。これはあくまで推測であって真実ではないかもしれません。酷な話ですが話の論点はそこではありません。我々はケインさんが持っていたオルゴールがイノセンスだと考えています。それを旦那様がどちらかに持ち去ったのを見ました。タキシードとウエディングドレスを着たオートマタを持っていませんか?」
一度、マーシャは顔を手で覆った。そして絞り出すような声で言う。
「私は知りません」
「本当に?」
「彼は高潔な人でした。そんな罪、私に隠し通せるはずありません。自首したでしょう。それに私にオルゴールを贈ってくれたとしてもその一つのオートマタらしきものは知りません」
「――では、ケインさんの消息は?」
「それもわかりません。もしその幻影が真実だったとしても、遺体は発見されていませんし、消息を掴んではいません」
「そうですか」
手掛かりはつかめなかった。少しばかりアリシアが落胆していると神田が立ち上がる。
「神田?」
怪訝そうに見つめると、神田はマーシャに頭を下げた。
「協力感謝する」
情報は得られなかったが、そんな失礼な立ち去り方があるだろうか。アリシアは顔を顰める。
「神田!」
咎めるように言うと神田が睨んでくる。
「もうここには用はねぇ。なら、一刻も早くイノセンスを探すべきだろうが」
「それは、そうですけど……」
酷薄な瞳で神田はアリシアを見た。
「慈善事業じゃねぇんだよ」
アリシアは言葉に詰まる。確かに神田の言うことは間違いない。自分たちは戦争の真っ只中なのだ。善意で動いているわけではない。わかっている分アリシアは歯噛みした。
神田は思い出したかのように懐から小さなオルゴールを取り出した。
「アンタ、これを工房に頼んでただろう」
先ほど親方にもらったものだ。テーブルに置くと神田は言った。
「これで役目は果たした。――行くぞ」
アリシアに向かって神田が顎でしゃくって促す。アリシアは眉をひそめて仕方なく立ち上がった。
「お待ちなさい」
二人が振り返ると、深刻そうな表情からうって変わってマーシャが強い瞳でこちらを見ていた。
「情報といえるのかどうかわかりませんが……」
「何ですか?」
「五年前、夫の葬儀の時、棺に息子がオルゴールを詰めていました」
アリシアと神田が顔を合わせる。市長の言動。あれはアリシアたちにイノセンスが絶対見つけられないだろうという自信だったのかもしれない。市長が何か知っている可能性は高い。身を乗り出して神田が問う。
「その墓所はどこだ!」
マーシャは驚いて目を瞬いた。
「街外れの北の丘です」
神田が動き出すのと同時にドアから大きなノックが聞こえた。
三人が固まると声が聞こえた。
「ママ? 元気にしてるかい?」
ドア越しに聞こえる声の主は恐らく市長だろう。神田が六幻を握る。恐らく発動するためだろう。その手を止めたのはアリシアだった。殺気がこちらに来たが、アリシアは努めて冷静に言った。
「今、我々は後手に回ってます。それに街ぐるみで隠ぺい工作されでもしたら本当にイノセンスの手がかりがなくなってしまいます。――マーシャさんに対応してもらいましょう。情報を掴めるかもしれません」
アリシアを一瞥して神田は舌打ちする。そしてマーシャが頷いたのを見て、手を振り払い六幻の発動を止めた。
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