灰男小説 | ナノ


▼ あなたに愛が届くまで11

 工房を出て二人は無言で住宅街へと入っていく。歩く度にブーツがこすれて足音が響いた。他に出歩いている人は少ない。日中は中央にある繁華街で仕事をしている人が多いのだろう。黒い団服を着た二人を見ても不思議そうには見てこない。
 隣にいる神田をちらりと見た。いつもと変わらないしかめっ面だ。アリシアは思案する。さっきは何だったのだろう。先ほどの神田の姿が忘れられない。
 人に礼を言う神田なんて想像がつかなかった。背筋をピンと伸ばして深く頭を下げる様はいつもの傍若無人で一匹狼の神田を見ていたら誰も想像つかないだろう。
 リナリーであれば付き合いが長いのでそういう姿も見たことがあるのかもしれないが。
 アリシアはちょっとばかり見直していた。
 というより、意外過ぎて好感を持ってしまいそうだった。教団では嫌みの応酬ばかりだったのに。パートナーになって初めて解かることがあるのだと思う。
 神田がこちらを向く。
 目が合う。
 少し胸が跳ねる。
 アリシアは初めて神田が綺麗な顔をしていることに気が付いた。
 だが、そう思った瞬間、神田の顔が歪む。
「じろじろ見てんじゃねぇよ。気持ちワリィ」
「なっ!」
 何て言い草だろう。アリシアは心の中で好感を持った意識が一瞬で瓦解した。そうだ。こいつはこういう奴だ。どちらにせよ口が悪くて自分をよく思ってないことには変わりない。最低なクソ野郎なのだ。
 アリシアは神田をにらみつけて言葉を吐き捨てた。
「ホント、神田って神田のままなんですね」
「ああ?」
 神田のにらみを無視してアリシアは速足で歩いた。
 住宅街は中央にある繁華街に比べたら静かだ。華美ではないが、白い石畳がよく手入れされていてくすんでいない。とても綺麗な街並みだ。観光地というのもあるのかもしれないが、閑静な住宅地までも手入れが行き届いているのは市長の手腕といったところだろうか。性格はあれだが市長は彼なりにこの街を案じているのかもしれない。
 だからといってAKUMAを放置していいとは思えないが。
 他の市と比べて街は一日あれば巡ってしまえる大きさだ。街の周りは固い地盤で農作物が育たないと資料に書いてあった。なのに資金が潤沢であろうと思えるのはオルゴールが安価で手に入るからなのだろう。政策としては悪くない。
 だが、アリシアには淘汰されていってしまう技術が惜しくてならない。彼らの技術は後世に残すべきだ。だから困窮していた工房から商談などと言って彼らから情報をもらえたのだろうが。
 一つの工房を救えたからといって、全てを助けられるわけじゃない。それはアリシアのエゴだ。後でコムイにも根回ししてもらわなければならないし、教団の資金を無断でむしり取るような真似をしている。
 アリシアは工房の青年に貰ったメモを広げた。
 中にはマーシャ・リッツと書かれ、彼女が住んでいるであろう住所が記されている。土地勘がないので迷うかもしれないと思ったが、わかりやすく表札が出ているので苦労はしなかった。
 互いの足が止まる。
 立ち止まってアリシアがぼうっと家を見ていると、神田が背後からメモを奪う。
「おい、ここで合ってんのか?」
「ええ。そのはずですけど……」
 住宅街の奥まった場所に彼女の家はあった。資産家の家と聞いていたのでもっと立派な庭園やらがあると思ったが、普通の家とほとんど変わらない。少しだけ周りより大きいくらいだ。
 マーシャ・リッツ。
 恐らく彼女はこの奇怪に覚えがあるはずだと踏んでいるが、ぼけた老婆が出てきたらどうしようなんて考えたりもする。焦れたのか神田が足を鳴らす。
「早くノックしろ」
「うるさいですね。今しますよ」
 木製のドアをノックする。
 しかし、返事がない。しばらく待ってみたが、歩いてくる音さえ聞こえない。
 二人は顔を見合わせる。
「留守、でしょうか?」
「めんどくせぇ、退け」
 言うや否や神田は大きくノックする。何度も。
 アリシアは目を丸くする。
「ちょっ! 何してるんですか!」
「ババアなんだから耳が遠いかもしれねぇだろうが」
「いや、それでも! 心象が悪いのはよくありません!」
 腕を掴んで止めようとするアリシアを神田はうっとうしそうに振りほどこうとする。だが、アリシアも食い下がる。
「馬鹿が触んな!」
「神田が止めるまで離しません!」
「うぜぇ!」
 思いっきり腕を振られてアリシアが体勢を崩す。
「きゃっ!」
 後ろにのけぞって倒れそうになる。思わず、目をつぶってしまった。衝撃が来ると身構えたが、それほど痛みを感じなかった。恐る恐る目を開けてみると、頭を抱え込むように神田の腕がアリシアを包む。
「受け身も取れねーなんて、てめぇ本当にエクソシストかよ?」
 いつもであれば怒り狂う罵倒であるにもかかわらず、アリシアは硬直してしまった。至近距離の神田の顔を見て、顔が赤くなる。
「す、すみませんね! いい加減どいてください。重いです!」
 神田を押しのけて、アリシアは立ち上がる。火照った顔を冷まそうと手で仰いだ。そんな様子に気付かなかったのか神田は舌打ちしながら立ち上がった。
「おい」
「な、なんですか?」
「開いてる」
「へっ?」
 ドアを見ると少し開いている。奥からクスクスと笑い声が聞こえた。
「最近の子は大胆ねぇ」
 さっきの様子を見られていたのだとアリシアは顔を真っ赤にする。
「誤解です! あり得ませんから! 死んでも無理です」
 すると神田も鼻で笑った。
「ありえねぇ。……あんたがマーシャ・リッツで合ってるか?」
 神田がドアを開けると、車椅子に座ってにこやかに笑う老婆がいた。
 老婆が頷く。
「ええ、私がマーシャ・リッツです。どういったご用向きかしら?」
 ようやく平静を取り戻したアリシアが微笑む。
「先ほどは失礼しました。私たちはヴァチカンからの使者。黒の教団に属するものです。私はアリシア。彼は神田です。最近この街で起こっている奇妙な出来事についてお話しを伺いたいのですが、中に入ってもよろしいでしょうか?」
 マーシャは少し間を取って、にっこりと笑った。
「いいでしょう。お上がりになってください」
 マーシャは慣れた手つきで車いすを回転させる。それに続いてアリシアは家の中に入った。
 一瞬、言い表せない臭気が鼻を刺して口を覆う。
 ――なんだ? この匂い。
 振り返ると背後にいた神田も同様に顔をしかめていた。
「どうかなさいました?」
 不思議そうにマーシャがこちらを見ている。
 気が付くと花の香りがする。バラの匂いだ。さっきの匂いとは大違いでいい匂いがした。
「いいえ、なんでもありません」
「そう、よかった」
 柔和に微笑む老婆は前を向いた。慣れた様子でドアを開けて、部屋の中に入る。中はきらびやかではないが、手製の物であろう少し無骨な家具が揃っていた。色合いも派手じゃない。とても落ち着く空間だった。
「わあ」
 思わずアリシアは感嘆する。
 それに気をよくしたのかマーシャはにんまりと笑った。
「ふふ、みなさんとても居心地がいいって言ってくださるの。旦那の趣味だったんだけど」
 四人座れればいいぐらいのこじんまりとしたテーブルに近づいた。よっこいせといいながら車椅子から立ち上がる。足が悪いのだろう。テーブルの端を伝うようにそっと動いて椅子に座った。
 アリシアはテーブルに視線を向けると目を瞬かせた。
 そこには三つのカップとティーポットが用意されていた。ダージリンのいい匂いがする。湯気もカップから出ていたので恐らく先ほど入れていたのだろう。まるでアリシアたちが来るのを分かっていたかのように。
 マーシャは茶目っ気のある笑い方をして腕を組んだ。
「さあ、まずはそこに腰かけて? 大事な話があるのでしょう?」
 これはなかなかの食わせ者かもしれないとアリシアは笑顔を作りながら喉を鳴らした。


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