灰男小説 | ナノ


▼ あなたに愛が届くまで8

 その時だった。
 空から降るようにかすかだが音色が聞こえてきた。櫛歯をはじき、円筒の金属が回る。オルゴールの音だ。
 繊細でどこかで懐かしさを覚える。それに聞いたことのある曲調だった。だがなぜか思い出せない。
 すると周りの人間たちに変化が起こり始めた。一斉に耳を澄まし始めたのだ。嬉しそうに、酔いしれるように街の人々や旅行者が目を瞑る。
 そして、ゆっくりと一人、また一人と眠りに落ちていく。奇怪が始まったのだ。
 アリシアは叫ぶ。
「神田!」
 先ほどまでつまらなそうにしていた神田が椅子が転げるほどの勢いで立ち上がる。
「どっからだ!」
「わかってたら向かってます!」
 言って二人はオルゴールの音に集中した。ここは住宅街に近い宿なので中心とは言い難いが、比較的どちらで鳴っているかはわかりやすいはずだ。アリシアとしては遠くから聞こえているように思う。
 突然神田が何も言わず走り出す。置いていかれないようにアリシアもつられて後を追う。
「どちらからか、よくすぐわかりましたね!」
 マリ並みに聴覚が優れているのだろうかと疑うくらいの速さだ。驚いているアリシアに神田は言葉を吐き捨てる。
「いいから走れ!」
 二人は歩いている人たちが心地よさそうな顔をして倒れていくのを見ながら走っていく。その様子はやはり異常だ。やはりイノセンスの共鳴者であるエクソシストには効果がない。ということはやはりイノセンスの可能性が高い。
 神田が向かっているのは住宅街から反対側の工房がある通りのようだ。
「工房側でしたか……」
 残念そうに呟くアリシアに神田は鼻で笑う。
「当てが外れてガッカリかよ」
 その言葉にむっとしたがアリシアは言い返さなかった。
「今の時間、人があまりいないでしょうからAKUMAの襲撃が来ても被害は少なそうです」
「口だけは達者だな。――油断してAKUMAにやられそうになっても俺は助けねぇからな」
「何年エクソシストやってると思ってるんですか、ぶち抜きますよ」
 神田は溜息を吐いて腰につがえた刀に手を添える。アリシアも同じく拳銃を取り出す。
「……言ってる間に来やがった」
 背後から無数の気配を感じる。数十体のレベル1のAKUMAがものすごい勢いでこちらに突進してきている。
 そして無数の銃口がアリシアたちに向けられる。
 二人はイノセンスを発動させた。神田のイノセンス、六幻は宵闇に鈍く刃を輝かせた。アリシアは腰の両端に吊るされている拳銃を手に取りAKUMAに向ける。
 そして、無数の血の弾丸が銃口から吐き出された。
 神田は大振りに刀を振り叫ぶ。
「災厄招来!」
 刀から界蟲一幻が飛びだしてきて弾丸とAKUMA数体を破壊した。だが、弾丸は全て撃ち落とせていない。
 アリシアは正確な射撃で残りを撃ち落としていく。だが、希少銀の弾丸ではAKUMAの血の弾丸の軌道をそらして安全に撃ち落としているだけで壊せてはいない。
 それを見て神田は嘲笑う。
「なるほどな、豆鉄砲かよ。……つかえねぇ」
 表情を険しくしたアリシアに神田は刀を肩に当ててにやりと笑う。
「お前はイノセンスを追え、ここは俺が後始末してやるよ」
「なっ!」
 言い返そうと口を開いたところで、またAKUMAからの攻撃が発射される。神田はAKUMAに向かいっていく。そして真正面からやってきていたAKUMAを一振りで真っ二つにした。
「いけぇ! 豆チビ!」
 震えるほど怒りがやってきたが、アリシアは冷静になろうと息を吸った。そして吐く。言動はともかく神田の腕は信用してもいい。彼が一人でこなせる数なのだろう。
 歯噛みしてアリシアは走り出した。
「任せましたよバ神田ー!!」
「テメェ!!」
 戦いの最中で神田の言葉はかき消されたがどうせ罵倒だろう。アリシアは気にせずその場から離れてオルゴールの音色を追いかける。
 どうやら神田の耳は確からしい。アリシアは音へ確実に近づいていった。
 ある程度走ると工房が多数ある地帯の大通りに辿り着いた。
 長い距離を走ったので息が切れ切れだが、音はもう近い。
 するとある工房の扉が急に開いた。そこから男が出てきて嬉しそうにどこかへ向かっていく。
 驚いてアリシアは目を丸くする。オルゴールは今も鳴っている。しかも近い。だが、彼は起きている。
 ――適合者!?
 アリシアの横を走り過ぎていく彼に慌てて声を掛ける。
「あのっ! ちょっと!」
 だが、男は聞こえていないのかまるで速度を落とさない。
「聞こえてます―!? ちょっと!」
 それでも足は止まらない。追い付こうにも彼は全速力なのかものすごい勢いで走っていく。脇に何かを抱えているというのに、すごいスピードだ。
 さっきまで走り通しだったアリシアにとって付いていくのがやっとの状態だった。アリシアは特にエクソシストでも適合率が低いので超人的な能力を持っていない。鍛えてはいるが、他のエクソシストと比べるとどうしても劣るのだ。
 自分の非力さが歯がゆいが、この男を追っていくしかない。
 この状況で男はどう考えても異質だ。なにかイノセンスと関係していると考えていいだろう。
 これ以上馬鹿にされないように、情報をしっかりと持ち帰るのが最善だ。アリシアは死ぬ気で彼を追いかけた。
 そして大きな十字路まで走ってくると前の男の足が止まった。急に止まったのでアリシアは止まれずに彼に接触しそうになった。だが、ぶつかる感触はなく。アリシアは驚いて目を見開く。
「へぇ!?」
 なんと男の体をすり抜けたのだ。そしてぶつかる代わりに石畳に体を打ち付けた。
「いたた……」
起き上ろうと上半身を持ち上げると今度は漆黒の何かが降りかかろうとしていた。
「わぁぁぁ
 慌てて体を転がして避けると、その真横で走っていた男が倒れこむ。黒い物体にぶつかったのだろうか。体から血があふれ出てきて動く気配がない。
 状況がいまいち呑み込めず、思わずその場から後ずさりしてしまう。
 どうやら漆黒の何かは馬車用の馬だったようだ。慌てて御者が男を揺さぶっているが、まるで反応を示さない。男が死んでいることに気が付いたようで御者は放心したように動かなくなった。
 すると馬車の中から人が出てきた。シルクハットに礼服を着ている。身なりが整っており、ある程度地位の高い人物であることがうかがえる。その男の顔が見えた時誰かに似ていると思ったが、アリシアは混乱しすぎて誰かはわからなかった。
 男は死んだ男を見て目深に帽子を被った。そして思い悩むように数歩あるいた後、何かを拾い上げ、御者に指さして何かを指示している。御者は何度も頷き。死んだ男を持ち上げ馬車の中に入れた。そして飛ぶような勢いでその場を離れた。
 そこにはシルクハットの男とアリシアだけになった。すると男は先ほど拾い上げたものを大事そうに持ってその場を離れていく。あまりの出来事に全てを把握しきれずに呆然としてしまう。
 さっきの出来事は何なんだろう。ぶつかりそうになった相手をすり抜け、今度は馬に踏みつぶされそうになって、何もかもがいなくなった。そういえば、あんな出来事があったのに彼らの声は聞こえなかった。
 これもイノセンスの起こしている奇怪なのだろうか。深く考えても全貌が見えてこない。思考を巡らせてもまるで分らなかった。
 その時、突然肩を揺さぶられた。
「おい! イノセンスは!」
 神田がすごい形相でこちらを見ていた。
 そしてはっとする。オルゴールの音はもうかすかにしか聞こえない。時計を見るともうみんなが寝始めてから二時間が経とうとしている。もう追うことは難しいだろう。
 何も言えずにうつむくと、神田は掴んでいた肩を乱暴に離して舌打ちをした。


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