雨が降ったから天気予報は外れたのか、天気予報が外れたから雨が降ったのか、今となってはどうでもいいことだった。事実として雨は降ったのだから。
 まるでぶっ飛んだ悲鳴の中で足下から湧き上がる世界のため息を踏みつぶす。下らないことだと息を巻いて頭を振る。ポーカーに勤しむ二人組には顔がない。マジシャンの指先は蜘蛛の糸になって冷たい水の上を這う。雨と螺旋を描きながら降り注いでいた季節外れの蝉時雨がスイッチを切ったように突然止んだ頃に、僕はまだ雨の降る屋根の外へ傘も持たずに走り出した。
 降水確率10%、晴れのち曇り、波の高さは50cm。天気予報が右へ左へ、耳の中を駆け巡る。最先端の技術でもって神様の機嫌を伺ったわずか数十時間前の人間たちは今やその答えを嘘のように取り下げて、人間同士のいざこざのように粗探しをしたり、言い訳をしたり、突破口を探したりするわけでもなく、ただ降り注ぐ叱咤のような雨に右往左往していた。人々は誰一人それをおのれらのせいだと自己嫌悪することはないし、するべきでもなかった。そして神様に見下ろされた気が遠くなるくらいの一億分の一の整数である僕は沸点の間際で確かに目を開けて、色を変えてゆくアスファルトの上を息を切らして走っている。走っていた。

 嗚呼、偶像。

 雨の音は悲しい。喜怒哀楽を冠するとするならばそれが適切だ。走って走って、僕は僕自身が地球上をぐるっと一周する幻想さえ見た。すれ違った黒い野良猫は青色の水晶のような眼球で僕のことを見上げて、あまりにも呆れたように「これだから人間は」と吐き捨てた。「これだから人間は」「これだから」「人間は」「これだから」。嗄れた声は重力に負けてアスファルトのひび割れに落下したけれど、僕の荒く荒くなる呼吸音は弾かれたように大気圏から宇宙へ、そしてその外側へとどこまでも流れ出していった。黒い野良猫はいつだって自分の声を拾い上げることができるけれど、僕はもう自分の呼吸音に手を触れることも、この目で見ることもかなわないのだった。

 嗚呼、偶像。

 そしていつかその黒い野良猫の申し訳程度に揺れる鉤尻尾が、誰かの大きな足に似た何かとても強大な力に踏みつけられる頃、僕はようやく立ち止まる。しばらく、それなりに長い間、とても久しく、走ることだけに徹していた僕の体のすべてが思い出したように生命活動を再開する。そう僕は一億分の一の整数で、広義では人間といって、いわば生きるために生きている不思議な生物だった。誰の手で作られたのかもわからない血の通った建造物たる存在の僕はどれだけどれだけ走ったとしても、同じ場所にずっと立ち尽くすのだ。雨に打たれながら。叱られながら。ずっと。

 嗚呼、偶像。

 完全な矛盾さえ正論に変えることのできるその圧倒的な指先に翻弄されながら、僕らは限りなく地を這うのに近しい行為でもって日々を越えてゆく。右上に浮かぶ小さな数字を数えることもやめて、それは那由他であって、不可思議なのかもしれなくて、あるいは無量大数にも近いかもしれない、すなわち僕らは、意図的な忘却の中、知っているはずの答えを探して何百年も無駄な日々を過ごしてきたのだ。
「週末は過ぎたよ」
 テレビの画面の中、月曜日の朝のニュース番組で顔のないキャスターが笑いながら言って、その目ははっきりと確かに僕を見ていた。僕は強がって、知っているよと答えた。

 嗚呼、偶像。

 止まない雨。悲しみに打ちひしがれるようにうつむく人々。悪い夢。叱咤を弾き返して聞こえないように僕らの耳を優しく塞ぐ人工物。「褒められたことだろうか?」。反発したところで同じことだ。それでもまだ僕には執行猶予が残されている。そしてあとで償えるだけの時間だって残っている。嗚呼、偶像。あれが外の世界なんじゃなくて、僕らが籠の中なんだ。優位なのは僕らじゃなくて、籠を破った彼らを讃えるべきなんだ。安易なるレジスタンス。空を飛ぶことをやめたパラサイコロジスト。「嗚呼、偶像」。まだ走れるのか。まだ走るのか。まだ走らなくてはならないのか。「急降下」。何を飲み込むのか。何を飲み込めるのか。何を飲み込まなくてはならないのか。「急降下」。鉛筆やシャーペンやノートや万年筆や百科事典や辞書や日記が、にわかには信じられないくらいに僕を笑う。「空白」。


 それは僕に微笑みかけてくれていたのではなくて?


 僕の中に住む確かな僕は、もう僕の腕を引くことを諦めていた。もしかしたら僕が、僕の中に住む僕を食べてしまったり、押しつぶしてしまったり、あるいは従わせてしまったのかもしれないけれど。0347という数字が暗闇の中で光る。その一帯は何かを判断するには敵さない数字だと数百の口が諭す。けど、もう遅かったね。どこか他人事のように僕は思って、立ち止まって口を閉じて深呼吸して、そしてつぶやいた。「嗚呼、偶像」。
 暗闇にいつかのテレビの画面が浮かび上がる。悲しい報せを淡々と伝える陽気なニュース番組で、顔のないキャスターが笑いながら、僕を見てその笑顔を深くする。数字が一つ進む。ついさっき、かつての真夜中誰もいない森の中で誰かが誰かから尊い権利を奪ったと告げたばかりのその口で、キャスターは僕に言う。


「終末は過ぎたよ」


 僕は強がって、知っているよと答えた。




【ブルースプレインガー】
(100525)



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -