彼女は夢想家だった。


 甘い偏頭痛を携えて見知らぬ土地を夢見人のような足取りで進む彼女の背中はいつだって遠くて、限られた正方形の箱の中で誰かに見られながら正しく壁に貼りついて生きる僕の足なんかでは追いつけるはずもなかった。彼女が掲げて、ときには手の中に握りしめ、時にはお尻の下に敷いていたのは喜びと平和と意義を詰め込んだ酔生夢死という言葉。彼女の一番の親友の名前は閃輝暗点といって、彼女とチョコレートとで三角関係を築いていた。もしかしたらどこかの誰かにこの世界を救うことを命じられたのかもしれない彼女は勇ましく何かと戦っていることもあったし、弱々しく何かに脅えているときもある。それでも世界を救うのには少なくとも四人が必要なんだと彼女は主張しては、自分と閃輝暗点と、あと少し悔しそうにチョコレートの名前を指折り数えてから、一人足りないと言って怒っていた。

 あまりにもたくさんのものが、事象が、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられて積み重ねられて、指の先から徐々に宇宙を失ったこの世界の中で、ただ立ち尽くし、片目だけを開けてすべてを正しいものとそうでないものに分類することに疲れてしまった彼女は、やがてその場に座り込み両目を閉じることを知った。たくさんの人々が彼女を無理矢理に立ち上がらせ、目を開けさせようとしたけれど、彼女は頑なにそれに応じなかった。彼女ははっきりと言った。「私は夢想家よ」
 つまり彼女にとって重要なのは人類が魔法を使えるのかそうでないのかということではなくて、それが日常なのかそうでないのかということだけだった。たとえばそれが翼を持つのかそうでないのかとか、圧倒的な科学の力があるのかそうでないのかとか、あるいはそこにいる生き物がロボットなのかそうでないのかとか、そういったことでもまったく構わなくて、彼女は口癖のように繰り返した。「この世界は退屈だけれど、私の夢想のどれもがこの世界にあったとして、それは退屈を解消することにはならないわ」
 彼女は僕に対して好意的だった。僕は彼女に対して好意的でなかったからだ。僕は特に彼女に嫌悪感を抱いていたとかそういったことはなかったけれど、自分から彼女にコンタクトを取ることはめったになかった。遥かずっと遠くを自由に夢見人の足取りで歩いていく彼女が時折こっちを振り返り、あまりにも卵のように柔らかな笑顔で僕に向かって手を振るたびに、僕は正しい正方形の中で彼女に手を振り返した。僕は彼女を邪険に扱ったりつらく当たったり妬んだり恨んだりすることは一度もなかった。結局のところ、僕は彼女に対して好意的でなかったのではなく、好意的でありたくなかっただけで、本当は好意的でいたかったのだ。
 周りがいくら神経質に尖って彼女を怒鳴りつけようとも、二次方程式なんか解けないし解こうともしなかった彼女はそれでも気にもとめなかったし、それよりも言葉や文字の類ではあらわしきれないほどのあまりに大きすぎる数字や、小さすぎる数字をめいっぱい愛した。チープなくらいに記号的に表した自分の運命を黒いブーツを履いた足の下に思い切り踏みつけて、道の淵をつま先立ちで、バランスを取りながら器用に歩く。彼女の行く手を阻むものも、彼女の尻尾を掴むものもここにはなかった。あたかもマシュマロの上を歩いているかのようなふわふわした足取りで、どこまでもどこまでも歩いていく華奢で遠い背中。いつだってずっと遠くで僕を振り返ってはその顔に満面の笑みを浮かべながら手を振る。「見て、ここまで来たわ!」。僕は彼女の嬉しそうな報告に手を振って応える。「見ているよ」。ずっとちゃんと見ているよ、君がかつて抜け出したこの正しい正方形の中で、君がついに消えてしまうことを恐れながらずっと立ち止まって眺めているよ。

 甘い香りのする髪も、夢見がちな暗い瞳も、彷徨うような細い指先も、ずっとここにあるなんて最初から思っていなかった。歪んでしまっていた、初めて出会った頃から既にずっと。だから僕は君が笑っていても泣いていても、等しく同じ感情しか抱いたことはなかったのだ。「一秒でも長く一緒にいられたらいいな」
 振り返りながらも足を止めない彼女を、僕は立ち止まったまま眺め続けていて、ためらうように手を伸ばしてみては後悔して引っ込めることを何度も繰り返した。それはもしかして彼女も一緒だったのかもしれない。僕に手を振ろうと振り返るたび、このまま僕らの方へ、後ろの方へ、引き返してしまおうとつま先を伸ばしていたかもしれない。それでも彼女は僕らの方へ戻ってくることはなかったから、僕ももう手を伸ばすことをやめていた。彼女が振り返って手を振るたび、僕は立ち止まったまま手を振り返した。
 いつでも気丈に笑いながら歩き続ける彼女は弱さを見せなかった。机上の空論でも話すようにしておどけてさえいながら、雨が降っても雪が降っても、槍が降っても隕石が降っても、あるいはもしかすると絵に描いたような恐怖が降ったとしても、笑いながら強く歩き続けるのだ。それは彼女が夢想家だからだった。夢想家であるが故に彼女はどこまでも現実のすべてを夢の類に変えることができた。透明なトップコートだけが申し訳程度に貼りつく飾り気のない大いなる指先を掲げ、立ちふさがるすべてを砂のお城に変えて突き崩し踏みつける。彼女の自由な尻尾を掴もうとするすべての不躾な腕を小さな花束に変えてしまう。彼女のために響くすべての声を夢と解釈することによって、世の中のすべては彼女を中心に都合よく回り始めた。彼女はにわかに世界の女王となって、世界中を好きなだけ放浪するための権利をその手の中にすっかり納めてしまっていたように見えた。
 ように見えた。



 今、彼女は泣いている。夢から覚めた少女のように。自らの足で踏みならした道の上に座り込んで、左手でアリスの絵本を握りしめ、右手の指先はしきりに何か縋れるものがないか探していた。ああ、本当は全部現実だってわかっていたんだ。君も、そして僕も。「お話の続きを教えて」、それでもまだ悪夢のかけらにとりつかれたみたいに彼女は言う。その彷徨う目が僕を探しているのが遠目にもわかって、僕は彼女に向かって手を振った。
 本当は引き返したかったの? 本当はここにいたかったの? 本当は寂しかったの? 本当は悲しかったの? 本当はわかってほしかったの?

 僕はわかっていたよ。君もわかっていたでしょう。

 君が僕を見る。「ねえ」、呼びかける。こんなにもこんなにも遠いのに、君の声はすぐ耳元で聞こえる。そうだね、夢を見ていたのはどっちだろう? 君の夢は覚めてしまった。君の手が縋るように地面を這っている。その手がやがて長い長い彷徨の旅を終えて掴んだのは僕の手だった。僕はその手を握り返して、やっとすべてがあるべきところに収まる、そんな夢を見る。


 君の夢は覚めてしまったから、そんな夢を見る、二人で。


「僕はずっと君のことを見ていたよ。君が僕に君のことを教えてくれるからね。本当は逆かもしれない。でもそんなこともうどうだっていいだろ。君はとびっきり悪い夢ばかり見ている夢想家だ。それでも僕は君の生き方がとても好きだよ。君は決して弱い人なんかじゃない。立ち止まって座り込んでまた立ち上がって歩き出すことを繰り返すよりも、ずっと立ち続けて歩き続けた方がずっと楽だって君は言って、そしてそうした。いつか君がそうやって歩き続けて、遠くへ遠くへ消えてしまうことが怖かった。でも、君も僕もちゃんと知っていた。君が歩いて歩いて歩いた先のその終着点は断崖絶壁だってこと、そして君はその手前でさえも決して足を止めないだろうということ。ねえ、僕の君を引きとめようとする手が君の指先によって花束に変えられて無力になってしまわなかったのは、僕のことを拒まなかったからなのかな。僕に何かを期待してくれていたからなのかな。僕は君を知りたいし、僕は君がいなくなったらとても悲しい。だから僕は君が望むような答えを心からもたらすよ。君はもう歩き続けなくてもいい。立ち止まって座り込んで目をつむって、望むならそのままそこから一生動かずに眠り続けてもいい。そして、誰かが君を責めることを気に病んでもいいよ。誰かが君を貶めることを気に病んでもいいよ。それでも君が平気で笑っていられるように、僕が君の心を守るから。人は数ヶ月前に君を愛したその手で、今君を脅かすこともできるけれど、僕は決してそれをしない。僕は君が好きで、僕の手は何ヶ月経っても君のことを好きであり続ける。大丈夫。約束するよ」




【Dreamed】
(100525)



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