「こんにちは。はじめまして」


 ぼくの言葉に振り返ったその人は、黒い帽子を被り紺色の制服を着て赤い鞄を下げた男の人だった。

 この町の片隅にある廃線になった古い駅の名前はもう誰も知らない。かつてその名前が刻字されていたらしい看板は長年雨風に曝されて今となってはただの薄汚れた一枚の無地の板で、駅の内部のどこにもここに関する情報が記されたものは残っていなかった。誰もが忘れ去ったこの駅はもうただの存在でしかなく、誰かがこれを見つけなければ存在しないことと同じなのだった。
 その廃駅でぼくが何をしているのかというとそれもよくわからない。理由めいたものはある。ぼくは学校に行きたくなかった。ぼくは学生服を着た紛れもない学生であるにもかかわらず学校に行きたくなかった。ぼくは学校に行きたくなかったのだった。けれどもどうして学校に行きたくないのかわからない。何か原因があるはずだと記憶を探ろうとしてみても、そこにはまったく何もなかった。そこにはまったく何もなかった。まったく何もなかったのだ。あまりにも信じがたいことだけれど、本当に何もなかったのだった。そして次に、学校に行かなければならない理由も見つからなかった。大人になったら何をしようとかっていう夢や希望も一切なかった。一切なかったというよりも一切考えられなかった。一切考えられなかった。
 ぼくは正体不明の理由と感情に板挟みにされてぼんやりと廃駅に佇んでいたのだった。時間は過ぎていくけれども、ちょっと前もちょっと先もいっそのこと今も一切わからないので、いつになったら何をすればいいのかもわからないのだった。家に帰らなければいけないのかもしれないけれども、どうやって家に帰ればいいのかわからなかったし、何時に帰ればいいのかもわからなかった。その他に何かすべきことがあるのかもしれないけれども、そんなものは何一つ思い出せないし考えもつかないのだった。ぼくの手元には学生鞄があったけれども、触れてもいないのにこの鞄の留め具は絶対に開かないと信じていた。絶対に開かないと信じていた。信じていた。
 だからぼくは時計などとっくの昔に止まってそれきりのこの廃駅で代わりと言わんばかりにぼんやりと空の色が変わっていくのを眺めながら佇んでいたところ、ふと入り口に赤いバイクが停まったので、そちらへ向かってみたという次第だった。


 そのバイクはなんのバイクかというと、考えるよりも先に見慣れた記号が赤地に白く抜いてあるのが目についたのですぐにわかった。これは郵便屋さんのバイクだった。そしてそれからつい今さっき降りたその男の人は、黒い帽子を被り紺色の制服を着て赤い鞄を下げていたので、これは郵便屋さんに間違いないのだとぼくは頷いた。
 ぼくに突然声をかけられて、郵便屋さんはちょっと大袈裟に肩を跳ね上がらせた。振り返ってぼくの姿を認め、頭のてっぺんから足の爪先まで遠慮がちに、それでも安全確認は怠れないというふうにきっちり眺め回したあと、帽子のつばの影に器用に隠れるようにしてこちらの顔を窺い見てきた。ちらちらと覗く瞳とその視線は脆弱という言葉が似合うまでに気弱で、ぼくはなんとなく、それに見覚えがあるような気がした。
「あれ。はじめまして、ではないのかな」
 だのでそう言って口に出すと、郵便屋さんはちょっと困った顔をした。いや、最初から多少困ったような顔ではあったけれども、それをもうちょっと困らせたような顔になった。そしておどおどと視線をあっちこっちに彷徨わせ、口元でもぐもぐとあのとかそのとか言ったあとに、あらぬ方向を見つめながらとても早口で答えた。
「自分、あの、郵便配達員なので、つい最近あなたの家が担当の区間に…いつも決まった時間に…あなたの家に配達に」
「ああ、そうか」
 言われてみればそんな気がした。毎日夕方の5時――決まった時間にぼくの家にやってくる郵便屋さん。ポストに手紙をねじ込んで忙しそうにバイクで去っていくそのちょっと丸まった背中をぼくはうっすらと思い出した。
「じゃあはじめましてじゃないんですね。いつもありがとう」
「はあ」
 ぼくの言葉に気の抜けた声を返した彼はまた目を逸らした。せわしなく視線だけがあっちへこっちへ行ったり来たりして、とても居心地が悪そうだった。それをなんとなく奇妙だと思ったぼくはふと空を見上げる。ここにいると気づいたときから時計代わりに眺め続けていた空はオレンジ色に染まっていた。
「ねえ郵便屋さん、ぼくの家ってここじゃないんですよ」
「…はあ」
「そろそろ5時くらいなんじゃないですか? 配達の時間。ぼくの家に行かなきゃ」
 それは夕暮れと呼ぶ他に方法がないほどの夕暮れだった。もしかすると4時かもしれないし、もしかすると6時かもしれなかったけれども、ぼくが自分の鞄の留め具が開かないことを信じているのと同じで、今は5時だとなんとなく確信していた。なのでその通りに目の前の彼に言葉を投げてみると、彼は面白いようにそれを手から取りこぼしてあたふたした。
「ええ、でも、意味ないんで」
「意味ない?」
 必死に拾い上げて投げ返されてきた言葉を掴んでやにわにまた投げ返す。郵便屋さんは今度はちゃんとぼくの言葉を受け止めたけれど、それをまたこっちへ投げてくることはもう無かった。
「いいんです。自分、もう」
 自己完結という言葉がそこにあって、頑丈に見えて穴だらけのだらしないバリケードを築いていた。ぼくはちょっとした悪趣味でそれを突き崩してしまおうかとも考えたが、あまりに目の前の追い込まれた小動物のような彼がかわいそうに思えたのでやめておくことにした。
「ふうん。じゃあなんでここにいるんですか?」
「あなたこそ、なんでここにいるんですか」
 新しく投げようとした言葉は空中で叩き落された。突然ちょっとだけ牙を向いて、でもすぐに申し訳なさそうな顔をした郵便屋さんをぼくはまじまじと見て、そしてちょっと笑った。
「すいません、わからないんです」
 わからないんですよねえ、と蛇足のようにもうひとつ付け足してみせると、初めて郵便屋さんが薄く笑った。ぼくはそれを見て、とても月並みに、初めて笑ったな、という感想を抱いた。けれどもその「初めて」という言葉に含まれる範囲は、ぼくが彼の去ってゆく丸まった背中の後ろ姿を記憶し始めた「つい最近」などという狭いものではなくて、もっと昔に跨るほどに広いものであるような気がした。
「初めて笑いましたね」
「はい」
 はっきり返された言葉はおそらく人間における最も汎用の選択肢のうちの一つなどではなく、独立したひとつの独自の単語であるような気がした。
 この局面にあてがうためだけに生み出された言葉であるような気がした。



「どこかで会ったことありますか?」



 ぼくの口から飛び出した言葉が宙を舞って、そのまま無様に線路に叩きつけられてばらばらになった。


 まるで空間が撓んだような奇妙な静けさがあった。ぼくは唐突に漠然ととても大きな胸騒ぎを覚えた。今すべき処置を早急に迅速に行なわなければ何もかもが壊れてしまうかのような焦燥感と恐怖に駆られた。自分の言葉が落ちて叩きつけられてばらばらになった線路の方をちらりと見やって首をぶるぶると横に振った。何かを否定しなければならない気がした。何かに言い訳しなければならない気がした。

 郵便屋さんがこっちを見ていた。

 ぼくはふと、カラスの存在を思い出した。こんなに絵に描いたような夕焼け空のBGMはいつも決まってカラスだった。少し不吉な響きで悪い予感を手当たり次第に絨毯爆撃。ぼくは時折それを鬱陶しく思う。取って付けたようにカラスが鳴き出した。
 ぼくはふと、車の存在を思い出した。確かにこのへんは都心に比べればかなり田舎だけれども、田舎だからこそ車がなければどこにも行けない。エンジン音とクラクションの音、あとはたまに開いた窓から零れ落ちる車内BGMの欠片。鉄の塊たるその在り方はよく考えてみると十分に不思議だ。取って付けたように車が走り出した。
 ぼくはふと、この町の外れにある廃駅の存在を思い出した。ぼくはその駅の名前を知っていて、いつどういった理由でそれが廃駅になったのかも知っていた。取って付けたようにぼくはここから家に帰る道のりを思い出した。

「会ったことあるよ」

 ぼくの問いかけに郵便屋さんは答えた。口調はさっきまでとは打って変わって取り憑かれたように強かった。目は帽子のつばに隠れていて見えなかった。口元が笑っていた。初めて見た笑顔、ではぼくが今まで見ていたものは何だったのか? 初めてという言葉を冠するにはおよそふさわしくないまでの長い長い長い長い間、ぼくが彼の表情として見ていた、笑うべき局面ですら現れなかった彼の笑顔の代わりに長い長い長い長い長い長い長い長い間見続けていたものはなんだったのか?


 ぼくはふと、彼から逃げなければならないことを思い出した。


 ぼくが学校に行きたくなかった理由は? ぼくがちょっと前もちょっと先もわからなかった理由は? ぼくの鞄の留め具が決して開かない理由は? 彼が5時なのにここにいる理由は? 彼がここにいる理由は? 彼がここにいる理由は? 彼がここにいる理由は? 彼がここにいる理由は? 彼がここにいる理由は? ぼくがここにいる理由は? そこらじゅうに転がっていた頑丈な鍵をかけられた箱たちが次々にばたんばたんと音を立てて蓋を開けた。中に閉じ込められていたものがどんどん溢れ出してぼくはパニックに陥った。それは記憶にも満たないきっかけでしかないのに、ぼくはぼくの体の内側で大爆発が起こったような気分になった。思い出した記憶の海に放り出されて、押し寄せる波がぼくを飲み込んで好きなように弄んだ。その海の真ん中にいるのは目の前の彼だった。彼は笑っていた。初めて見た笑顔だった。そんな顔で笑うことをぼくは知らなかった。ぼくは知らなかった。知らなかった。知らなかったのだ。
 知るわけもない。彼から笑顔やその類を根こそぎ奪い、泣き顔と怯えた顔と無表情しか残さなかったのはこのぼくだったから。
 ぼくは彼の名前を思い出していたし、彼がぼくと同い年なのも思い出していたし、ぼくが彼に何をしたのかも思い出していたし、ぼくが高校に通っているのに対して彼が郵便配達の仕事をしている理由も思い出していた。ぼくは――ぼくは、ぼくは今、かつての彼と同じだった。ぼくがかつて彼を陥れた状況にぼくは今深く深くはまり込んでいた。連鎖とそして繰り返し。逃げなければならない。彼から逃げなければならない。彼から逃げなければならない。逃げなければならない。彼から逃げなければならない。どうしても彼から逃げなければならない。
 逃げなければならない理由を思い出したぼくは、ぼくがぼくたる理由すら思い出して、そしてぼくは、ぼくの記憶の中で彼はもう死んでいたのに、彼の記憶の中で死ねなかった自分を恨んだのだった。
 彼の記憶の中で死んでいれば――



「……ああ」



 まあ、結末としては同じことなのだけれど。


 彼がゆっくりと身を引いた。お腹からずるりと金属の薄い刃が抜けていくのを感じて、ぼくは仰向けに倒れた。ため息が零れた。僕のそばに立つ彼は目的を遂行したことに関して満足気で、そしてその目的自体にそれを果たしてしまった今でも畏れ慄いているようで、それはまるっきり狂人の顔であった。変わってしまったなあと思った。とても無責任にそう思った。
 いくらでもそれらしいことは言えたと思う。だからこそもうぼくに逃げ道なんか無かったってわかっているんだ。結末は同じだし、まあ、これもまたひとつのよくあるバッドエンド。残念だ、じつに残念。白々しいくらいに。


 ぼくは皮肉を込めて言う。彼は心の底から吐き捨てるように言う。




「「ざまあみやがれ」」




【ギブアンドテイク】
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