あいつがちょっと、というかそれはそれはだいぶ頭のおかしい奴だってことはよく知っていたけれど、そしてあいつ自身はそれを幾度となく指摘されてもあくまで個性だと言い張って折れないこともよく知っていたけれど、それにしてもここまでとんでもない奴だとは思わなかった。
「海田、滅亡まであと3分だよ」
 23時57分、そろそろ寝るかとベッドへ目配せした俺のその行動をまるでどこかから見ていたかのように、絶妙なタイミングであいつの携帯から俺の携帯へ電話がかかってくることは必然。
 何故ならば今日この日の23時57分は嫌でもやってくるからだ。
 あいつがこんな気を起こした今日この日の23時57分。
「『今日』の滅亡までの最後の3分で」
 楽しそうにひとつ大げさに息を吸い込む電話口の向こうのあいつの表情を想像しながら、俺はあまりにもげんなりした。

「『今日』の保存に挑戦しようじゃないか」

 ああ、じつにわけがわからないとも。
 吐き出した溜息が渦を巻いて、ゆっくりと俺の足元を低空飛行した。




 最後の3分なんだと捲し立てた早口のあいつが掻い摘んで説明してくれたそれをそのまま引用しよう。何故ならばわけがわからないからだ。

「いいか海田、今日はあと3分で死んじまう。よく考えてもみろよ、今日この日ってこれから先もあとも今日しかないんだぜ。あと3分後、明日が生まれて我が物顔をする。明日になれば明日が今日になって、俺たちは平然と明日を今日と呼んで愛する。どんなに今日がいい日だったとしても、もう今日を今日とは呼べない。それってすごく虚しいことだろ。じゃあさ、どうにかして今日を今日のまま生かしておけないかな? 生かしておかなくてもいいんだよ、とっておければいい。好きな時に取り出して、明日も明後日もずっと先も、いつまでも『今日』と呼べるようにすればいいんだ。素敵なことだろ。それにはどうしたらいいか? つまりだ、俺たち生物はずっと前を向いて歩いてる。『今日』であった日が切り離されて消えてしまって手が届かなくなるから『今日』と呼べなくなる。それなら『明日』が始まる瞬間、後ろを振り返ればいいんだよ。23時59分59秒、もっとコンマ何秒レベルの瞬間で後ろを振り返れば、きっとそこに死にかけの『今日』がいる。いや、もしその瞬間になったならもうその時はすでに『昨日』なんだけど…それをこっち側へ引きずりこめばいいんだよ。存在を継続させるんだ。触れることができればいい。それならきっとまだ、それを『今日』と呼べるはずなんだよ。だから海田、俺は今からストップウォッチを持ってそっちへ行く。『明日』が始まる瞬間、一緒に振り返って、『今日』を引きずりこむんだよ。正確には『昨日』になってるんだけどな」

 言いたいだけ言いきってこちらの言葉を何1つとして聞く耳持たず、不躾に通話を切断したあいつの相変わらずの傍若無人っぷりにもう眉を顰めることにもいい加減飽きが来ていたので、とにかく俺は正確な時間を測るための腕時計を付けて家の前に立っておけばいいことだけを理解することにした。両親はとっくに就寝したというのに、インターフォンなんか鳴らされたらたまらない。
 あいつが具体的にいったい何をしようとしているのかはちっとも想像がつかないが、常軌を逸するようなとんでもないことか、或いはサイケデリックなまでの思考回路の賜物である理解不能な奇行か、どちらにせよ普通ではないことは確かだった。何故ならばそもそも常人であれば「『今日』を保存する」などという突拍子もないことを考えないからだ。


 気がつけばもうあいつと出会って5年の時が過ぎている。つくづくとんでもない奴と友達になったものだ。仲良くなったきっかけをまったくといっていいほど覚えていないのは、もしかするとそこには俺の脳が率先して忘れてしまいたがるほどの何らかの恐怖の類が関係しているからなのかもしれない――たとえば初対面にしてさっそく、あいつの狂気にまみれた聞きかじりの呪詛の言葉と腐った卵とライターのしょぼくれた炎でもって、悪魔召喚の儀式に付き合わされた挙句、うっかり生贄にされそうになったとか。


 俺はこっそり自室を出て階段を降り、なるべく音を立てないようにして玄関から外へ出た。
 生温い風が吹いている。頬を撫でられてちょっと身震いした。そういえば春ももう中頃だ、こんなふうに不穏な温度の夜がちょくちょく顔を出すようになった。春の夜のように少し肌寒いそれでもなく、夏の夜のように情熱の欠片が漂う暖かいそれでもない、奇妙な夜。

 あいつが今日の滅亡だとかなんだとか言うから、奇妙な生温さが知りもしない「終焉」の時を思わせた。

 いや、とんでもないことを言うのはあいつだけで十分だ。冗談じゃない。振り払うように首を左右に振る。
 腕時計を見た。あんなに情熱のこもった興奮した調子で捲し立てていたわりには到着が遅い。時刻は23時59分を回ろうとしている。あいつの姿(そのほとんどが色彩感覚がどうかしてるんじゃないかってくらいの変な色使いの服装)はまだ見えない。
 俺の家とあいつの家とはそうそう距離があるわけでもないし、ついでに言えばあいつはまるでトラブルを引き起こしたときにも無事に逃げ切れるように進化したかの如く非常に足が速い。全力で走ってくれば「『今日』の滅亡」の瞬間には余裕で間に合うはずだった。それなのにまだあいつは来ない。


 俺は夜空を見上げた。瞬間、ぎょっとして目を見開く。
 あいつの馬鹿げた考えに侵食され始めた俺の意識、そしてその範疇内の視界の中で、深い灰色にところどころ赤茶を入り交じらせた厚い雲の膜が、やたらと低い空で大きな渦を作ってそこに浮かんでいた。


 冷静に考えてそれはただの「曇天」で、それ以上でもそれ以下でもないはずで――多少の異変は地球、そして宇宙という人知の及ばないそれによってもたらされることとして許容されるはずだった。それでもあいつの奇妙な夢物語、戯言、詭弁にすっかり口説き落とされた俺の頭は、それをまさか、「どうでもいいこと」の類として受け流すことなど到底できるはずもない。
 いつの間にか俺は手のひらに汗をかいていた。心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。そんな自分を馬鹿げていると鼻で笑う自分が存在する一方で、恐怖と不安が大きくなっていった。見てしまった。それはただの珍しい形をした雲の塊でしかないというのに、見てしまった。そう思った。見てしまったのだ。俺は見てしまったのだ。あの雲の渦を――あまりにも不吉な色と形でそこに浮かぶ雲の渦を――明らかにそれでもって何かが「終わる」と言わんばかりの存在を ――この目で。見てしまったのだ。はっきりと。
 それは徐々に高度を下げ、俺に、俺のいるこの世界に、俺の存在するこの時間軸に迫ってくるように見えた。理由のない圧迫感が俺に不穏な確信をもたらそうとその手を伸ばしてくるのだ。俺は数秒間目を見開いた格好のまま雲の渦を見つめたあと、一瞬の隙をついて逃げ出すように目をそらして腕時計に視線を落とした。

 あと40秒。

 今日が弱ってきている。生ぬるい風はもう止んでいて、それがまるで「死にかけて」「息が細くなった」という過程の上のそれのように思えて、そしてそれはもうほとんど俺の中で確信で、そんな俺を嘲笑うように無味無臭の空気が沈黙したままそこに在る。まだあいつの姿は見えない。腕時計から目が離せない。秒針は止まらない。
 本当に今日が「死んで」いくのだ。死んでいくのだ。呼吸を止め、心臓を止め、血液が不要とされ、冷たく固まって、そして腐っていくのだ。まるで生命のそれのように悲観の響きでもたらされる終焉がピリオドを叩きつけるために手を振り上げているのだ。鼓動のテンポが緩やかに減速し、そしてついには全くの無音の瞬間が訪れるのだ。それを「死」と呼ばずして他にどんな名前を与えればいいというのだ。


 今日が死んだら俺はどうなる?
 考えるまでもない、今までがそうであったように、俺は明日に生きるだろう。何も知らないうちに俺の立つ世界は今日から明日へとすり変わる。

 果たして本当にそうなのか?

 もしもあいつの突拍子もない閃きがこの世界の真実だったとして、それに準じて「『今日』の保存」がタブーであったとしたなら?
 消えゆく『今日』に俺とあいつは取り残されてしまうんじゃないだろうか?
 もし、もしも仮にそうだとしたなら、あいつの言った世迷言を実践しないことには俺たちは『今日』と一緒に消えてしまうのではないのか?

 わかっている。何もかもありもしない妄想で空想だ。「『今日』が死ぬ」などという下手な擬人法も甚だしい現象が起こるはずもない。心配しなくても明日は来るし、俺もあいつも明日に生きられる。今日だった日は昨日、そしてそれ以降になって、いずれ記憶から消えていく。そうに決まっている。
 それでも拭い去れない不穏な可能性に俺の体は震えていた。


 すべてはあいつ次第だ。『今日』が死んだとして、その死体が『明日』以降にも保存され、そして俺たちは無事に『明日』へ飛び込めるのか否か、すべてはあいつ次第なのだ。あいつと時計の秒針のレースなのだ。
 あいつはまだ来ない。
 秒針が等間隔に走る。
 あいつは知っているのだ。おそらく本当のこと。そして手段。あるいは希望的観測。そして俺のこの恐怖を否定し時間もはばからず大声で笑い飛ばし、そして「まあいいか」と最高に無責任な響きでもって解放してくれるのもあいつしかいないのだ。
 12へ向かう秒針にあらゆる森羅万象が絡みついて収束しようとしている。
 今日の滅亡まで、あと――




【3分間にて】
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