――先生、あの花の名前はなんと言いましたっけ。
 ――どれ。ああ、あれ?
 ――そうです、そうです。あの濃い桃色の。
 ――あれはツツジ。
 ――……ああ、思い出した。そう、ツツジですね。漢字で書くと、やたら難しいんだ。
 ――ツツジ、はね、こうやって、書くんだよ。
 ――はあ、なるほど。躑躅。たしかにこんな字でしたね。なんか、ドクロと似てる。
 ―――ドクロ?ああ、ドクロ…髑髏、ね。
 ――さすがは先生ですね。こんな難しい漢字もすらすら書けちゃうんだ。
 ―――ははは。まあ、これが仕事だから。




 自分の書く針金のように細くて角張った文字が大嫌いだった。どうせ草稿はパソコンで印刷活字に打ち直されてしまうし、全世界に発信されることこそ無いけれども、それでも薄黄ばんだ原稿用紙に走る自分の文字という文字を眺めるときには、たまらなく憂鬱で自己嫌悪的な気分になったものだ。まるで神経質に定規を使って直線を引きながら構成していったかのように、寸分のバランスの崩れもなく気味が悪いほどに整列し、原稿用紙のマス目にきちんと収まったそれらは、まるで毒を注射されピンで留められて硝子ケースに仕舞われる文字の標本のようだった。
 私はこんなに自分の文字が大嫌いで、けれど彼はいつも、私の書くこの文字を褒めた。ぼくの字って汚すぎて読めないんですよ、と恥ずかしそうに窓辺で観葉植物に水をやる彼は言う。
 ――そんなに綺麗な字が書けたらどんなに素敵かなあ。画数多い難しい漢字なんか書いたら芸術品みたいなんでしょうね。ぼくに書かせたらもう、線と線同士がぶつかっちゃって潰れて読めやしない。
 彼から与えられる水を浴びて陽の光に輝く観葉植物は、私の手から水をもらうときよりも嬉しそうに見える。



 頭蓋に咲く躑躅は春の生ぬるい風に吹かれて薄く笑う。胃の底に心臓があるかのような居心地の悪い自分の鼓動を全身で感じていた。レールから外れたカーテンが廃墟の光景のように垂れ下がって、この空間を邪魔するように陽の光が埃をまとって室内に差し込んでいる。床に手を這わせて、さっき落としたものを拾い上げようとしたものの、果たして何を落としたんだったかどうしても思い出せなかったので、何を拾い上げていいかわからなかった。とりあえず最後に指先に触れた温度のない細いものを引き寄せてみると、私の手に絡みついていたのは彼がいつも首から下げていたペンダントの紐だった。肝心のペンダントトップが付いていなかった。さてそれがどんな形のものだったか思い出そうとしても、やはり頭の中にミルク色の靄がかかったかのように、何も明瞭に思い出せるものはなかったのだった。
 躑躅は揺れる。赤に近い濃い、濃い桃色。伸びすぎた爪で花弁に痕をつければ、たちまちそこから茶色く腐る。
 頭蓋の白に根を張る躑躅は幻覚のように不穏に揺れる。

「…躑躅髑髏」

 私なら、まるで芸術品のように書くことができるのだ。




 雨が降りだしたのは知っていた。相変わらず差し込む陽の光はそれを気に留めるふうでもない。狐の嫁入りだ、仏滅だというのに。遠くで迷子の老人を探す市役所の放送が聞こえる。あまりに音声が反響に反響を重ねるので、何を言っているのかはよく聞き取れない。
 少しだけお湯の残った電気ケトルも、縁側で勝手に雨宿りする野良猫も、窓際の観葉植物も、この部屋で何が起きたのかまだ知らないのだ。
 原稿用紙のマス目は等間隔で敷き詰められて、そのすべてのマス目というマス目から、彼の無邪気な瞳がこっちを覗きこんでくるかのようだった。私の字が空白を埋めるのをじっと見つめるすべての瞳はときどき微笑んだり歪んだりしながら、私が夜中に暗い部屋でペンを進めることについて何かをしきりに気にしている。ちゃんと見えているから大丈夫だよと何度言っても、瞳という瞳は何かを言いたそうに細められ続けるのを、私は不可解な面持ちで認識している。
 隣の部屋でいつも欠かさず見ているテレビのドキュメンタリー番組を楽しむ彼の、小さな笑い声や感嘆の声、ときには鼻をすすり嗚咽を漏らすすべての束の間の生活音を、私はいくつもの彼の瞳を眺めながら片耳で聞いている。
 今年はいよいよ天候も気温も変で、夏なんてもう二度と来ないような気がしていた。



 ――はじめまして。ぼく、先生のアシスタントです。中卒ですけどよろしくお願いします。
 ――…アシスタントなんて雇った覚えないけど。なんかの業者なら帰ってくれない?
 ――あ、いや、ちょっと待って。こう見えてぼく、先生の出版社のものです、中卒ですけど。
 ――ええ?
 ――名刺ならここに。…先生の編集さんに頼まれたんですよ。身の回りのこと、やってやってくれって。
 ――はあ。あいつが?
 ――なんだったら電話して聞いてくれてもいいですよ。今日からお世話になります。
 ――えっ、ちょっと。ここに住む気なの?
 ――はい。そういう命令ですんで。あ、先生はアシスタント代とか一切払わなくていいですよ。
 ――えっ、え、ちょっと、本気? …はあ、なんだよ急に、参ったなあ。
 ――ぼく今すごくうれしいんです。先生の大ファンなんですよ。まさかアシスタントになれるなんて。
 ――ああ、そう……。



 あれも妙に涼しい夏の夜のことだった。もう二度とあの夏は来ない。そうでない夏も来ない。もう二度と。
 生ぬるい春ばかりが頭の中身を右端から痺れさせて、躑躅の蜜の甘い香りで思考を満たす。



「先生、ご冗談を」



 ふと、足元の躑躅髑髏がはっきりと口を利いた。

「先生、ご冗談を、先生」




 私は躑躅髑髏をじっと見下ろしていた。やっと私がさっき落としたものが何だったのかはっきりと思い出したし、彼のペンダントトップがどんな形のものだったのかはっきりと思い出した。


「きみのこと嫌いだったわけじゃないよ。むしろ気に入ってた。好きだったよ」
「―――ご冗談を……」



 ――ねえ、ちょっと悪いんだけど、電気ケトルの中にまだお湯が残ってたか見てきてくれない?
 ――あ、はい。コーヒーでも飲まれますか?ついでに淹れてきましょうか。
 ――――まあ、とりあえず見てきてよ。
 ――了解です。


「…嫌いだったわけじゃないんだ。ほんとだよ、嘘じゃない」


 ―――……?、! せんせ、ッ!?


「嫌いだったわけじゃないよ。きみのことは気に入ってた」


 ――せん、せ、ちょ、なッ


「うん。気に入ってた。気に入ってたよ……」


 ―――――…………。




 躑躅髑髏が私を見る。原稿用紙のマス目の向こうで、ゴミ捨て場の硝子の破片のように輝いていたあの瞳とは似ても似つかない茶色く枯れた瞳だった。やはりミステリ作家かノワール作家になっていればよかったかもしれない。それともこれから転向したっていい。私の書く小説が好きだった彼はもうここで躑躅の床を曝しているのだから。机に向かって、原稿用紙を広げて、ペンを取った。彼の瞳が現れるより先に、ミステリ小説で使い古された書き出しを文字で書いて空白を埋めた。ペン先から表れていくのは私の大嫌いなあの針金のような文字ではなく、何かの均衡を失ったかのように何も揃わずガタガタに崩れた、小学生が書いたような文字だった。


「先生、ご冗談を…」



 躑躅髑髏が呻くのを背後で聞きながら、私はいつまでも原稿用紙の空白を埋め続けた。




【躑躅髑髏】
(130109[120429])



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