「新世界なんてほんとに来るのかな」 


 捨てられた犬のようにみすぼらしくつぶやいた彼女の横顔は、背景に貼り付けられたテクスチャのように遠近感をなくして動かなかった。行儀の悪い下品な癖毛がこの期に及んで正しい方向へ向かおうとしないのを彼女の右手はもう気にしなかった。俺は彼女が何を思ってそんな馬鹿を口にしたのか理解できなかった。もう誰もいない巨大な基地のような展望台は、上を眺めることを人々に強要しても、誰も相手になんかしなかった。それはきっととても寂しいことだった。
 ――無駄なこととすら思えるほど、俺は昔の色あせた思い出をひとつひとつ思い出して拾い上げては、その埃を払い続けていた。ああ、――そう、いつか聞かせてくれたあまりにも下手くそなこの彼女の歌は、いったいこの世の何を慰めることが出来たというのだろう。何かを罵倒するときだけはいきいきと輝く彼女の眼球はいまではまるで干からびて、うまく踏み潰すこともできそうにない。 
 俺は彼女の言葉に返事をすることもなく足元に視線を落とし続けていた。嘘ばかりつくのは俺も彼女もお互い様で、それでも多少は生産的な人間的行為のはずだった。耳鳴りのように一定の高さでかすかな揺れを楽しみ続ける沈黙がそこら一帯を支配して、それに飲み込まれることに甘んじる俺たちもまた、このまま何の意味もない現象のひとつとして誰かに消費されてなくなっていければよかった。そして、彼女が悲しそうにため息を飲み込むので、俺が代わりにそのため息をついて、言った。掠れた声しか出なかった。


「さあね。少なくとも代わりのものは何か来るんじゃない」 
「今までのものに代わる?」 
「だって隙間が空きっぱなしじゃ困るんだろう」 


 ふたりでじっと夜空を見上げて、爆発した大きな星を眺めていた。まるで鼓膜が消し飛んだかとすら思えるくらいに不気味な無音の中、古い映画のフィルムを回すようにゆっくりとスローモーションで飛び散る星の欠片が四散しては、溶けるように夜空の紺に消えて行くのだった。それはまるで現代に無理やり当てはめて書かれたジョークみたいな聖書の中の、最後の審判の光景のようだった。その姿はあまりに神々しく、禍々しくて、あたりに構わず声を上げたくなるくらいに衝動的だった。青くて綺麗な星。角を有さずとても丸くて、ほんの少し傾きながら回り続けたとある大きな星。誰かが頭の中でその星の名前を仰々しく呼びあげて、でも、もう俺たちにはその言葉は理解できない。 


「そういうことじゃなくてさ」 


 彼女が少しの沈黙のあとに口を開き、そしてまたすぐに何も言わなくなった。そういうことじゃなくてさ。言いかけて短く息を吸い込んだあと何を言いたいかを痛いほど理解していたけれど、そのどの選択肢にも賛同することはできやしない。何も言えない。何も、何も、何も。 
 弱々しいふりをして頑なに保身的なこの忌々しい女はまだ俺の名前を簡単に口にできるというのに。 


「なんで置いていってくれなかったの」 


 白々しく。 


「死ねばいいと思ったから」 
「―――……、」 


 下手くそな歌は今にもまた彼女の口からこぼれ落ちようとしていた。手を伸ばしたらもしかすると拾うことができてしまうかもしれない星の欠片がいつか遠い遠い未来に何もかもの周辺環境を完膚なきまでにぶち壊してくれることを期待していた。いつか適当に繋ぎあわせた彼女の思考回路はいまだにバグっている。あいつは馬鹿なんだ。何においても都合のいい馬鹿で無力な女だった。聞いたこともないような声で呻く出来損ないの声帯を持ったスクラップでしかなかった。 


「ひとりは寂しいよ」 


 結局彼女が吐き出したのはたったそれだけの安っぽい啓蒙だった。 


「ねえ、本当にアンドロイドなのはキミの方なんだよ。知ってる?」 
「知ってる」 
「最初に死ねって言ったのはアタシの方なんだよ。知ってる?」 
「知ってる」 
「でも、ひとりは寂しかったんだよ。し」 
「知ってる」 


 俺は全部知っていた。何も知らないのは彼女だけだった。そうだと信じていた。 


「人類なんてほんとはいなかったよ。知ってた?」 


 否定は楽しい行為だった。 
 それだけ。 


「新世界は来るよ。知ってた?」 
「――知らなかった」 




 勝ち誇ったように彼女は笑った。夜空は銀河のように溶け出して流動し、星々を巻き込んで季節はずれの天の川を形成しながら音もなく静かにどこかへ向かい始めていた。…季節とは何であったか。天の川とは果たして? 思い出すという行動はあまりに骨が折れることだ――、夜空はゆっくりと崩れていき、彼女の笑った醜い顔を縁取りながら薬中患者の幻覚のように気違いじみた点滅で彩っていた。じれったいほどのスローモーションの中で完全な爆発に陶酔する青い星は核さえ残さずに、本来は何もなかったその位置を空けることにすら満足を覚えているかのように見えた。馬鹿な女も、本当はアンドロイドの俺も、この場所がどこであったのかを忘れていくように、ここにこうしていることが間違いであることを否定できなくなるのだった。人類は存在しない。俺も彼女も、とてもどろどろして手のつけようのない何かを内包する全く違う何か同士で、青い星は爆発し、新世界は来るという。 
 ここまで追い縋った理由は何だったか? 


「ひとりは寂しいよ」 


 最後まで飲み込むことの出来なかった大切な智慧は圧倒的な意味を持って融解するのだ。




【トリップホップ・レガシーと錆びついたSF】
(111118)



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -