88段の階段の下で回る 
痩せ細ったオペラが掻き消える 
北北西の窓から眺めていた 
黒髪の少女が立ち上がる 


「探偵様、人が死にましたの」 


コンクルージョンエメラルド、欠けたサファイア 
客人は疑惑を避けて裏のお堀へ飛び込んだ 

寂れたお庭の老人が踏み潰された花の 
短い寿命を嘆く冷えた11月の夜のこと 

まだ見ぬ快楽殺人犯が弾いたピアノは 
飛び回る黒鍵と名誉の埃と涎に塗れて 
今にも美しいトリックで誰かの喉を掻き切るところ 


寡黙な執事は飢えた狼に変わり、そして 
貞淑な乙女は嫉妬に燃える悪魔に変わり、そして 
車椅子の主人は焼却炉で模型に変わり、そして 


若白髪の探偵が何に変わるのか、黒髪の少女は知っている 
月夜のバルコニーで、輝く石像たちの表面温度を計るように 
薄暗い地下室で、メリージェーンの足跡をつけて回るように 
軽薄な屋根の天辺で、誰が何を告白するのか空想するように 


「探偵様、人が死にましたの」 


空洞の瞳 
忘却の彼方 
星屑の空! 







(――――……、 
若白髪の探偵は神経質に革靴の汚れを気にし始めた。とても些細な汚れで、床を這いずりまわる不潔なドブネズミか、あるいはまだ誰も見ていない悪魔の猟奇快楽殺人犯くらいしかそんなものの存在には気が付かなかったことだろう。異国の青年は民族風の服の袖を捲って、自分の命よりも大切だと断言した右腕の義手が、引っ掛けられた赤ワインを大いに被っても無事に今まで通りなめらかな挙動を可能にするか念入りに確かめている。その横で傲慢な舞台作家夫婦の妻がばつが悪そうに目を伏せて過剰装飾なドレスの裾を指で弄り、夫はおどおどと目を泳がせながらも淀んだ声で自らの行為の正当化に抜かりがない。今やその獰猛で下品で飢えた野良犬のような本性を隠す気もない金髪のベルボーイは、そんな舞台作家夫の醜態に唾を吐いて煙草を取り出した。宝石商のおませなお嬢様はそんな人々を88段の階段の上から静かに眺めたあとに、ゆっくりと赤い絨毯の階段をひとつひとつ降り始める。彼女のぴかぴか光る漆黒のメリージェーンと金色の留め具がどんな些細な嘘も洗いざらい見つけ出して、舞台作家夫婦が馬鹿にした『こどもっぽくて、単純で、低俗で、浅はかで、つまらなくて、反吐が出そうで、そうでなくてもたっぷり30分は笑い転げてしまうことができそうな』たくさんのレースとたくさんのふわふわした布で作られた高貴な黒いロリータドレスが、それらに片っ端から冷たい軽蔑の視線を浴びせるのだった。午前2時のベルボーイの最大の失態によって毟り取られてしまった彼女の背中の人口の翼はもうそこで羽ばたくことはないが、その代わりに彼女の黒髪がそれに引っかかって乱れることはもう永遠にないのである。「なんて、――なんて低俗な」、少女はつぶやいて階段を降り切った。若白髪の探偵はまだ革靴の汚れを気にしていた、――うつむいた彼の顔に紗のようにかかる前髪の隙間から、ちらちらと輝く緑色の瞳が見える。シャンデリアの光をすすんで取り込んでは乱反射するような磨かれる輝きである。「探偵様、わたしだって小説…探偵小説くらいは読みますのよ。宝石の相場にしか興味がないお父様と一緒にされては困るわ」。そのうち異国の青年はちいさくため息をついて、義手の小指がうまく動かないことについて考えるのをやめたようであった。「探偵様。そうね、でも、宝石に興味がないわけじゃないわ。わたし、オペラ美術館に飾られていた宝石なんかお気に入りでしたの、とても。――残念ながら、未解決の8年前の強盗事件で盗まれてしまいましたけれど」。小鳥がさえずるような、鈴を転がすような、少女の声が深夜のホテルのロビーの空気を微かに、しかし確かに震わせ続ける。「ご存知?オペラ美術館には緑色の美術品しか飾られていませんのよ。もちろん盗まれた宝石も緑色でしたわ。かわいそうな小さな美術館、支配人が必死に銃で追撃しようとしたけれど、犯人には逃げられてしまった。でも犯人の片目に弾がかすったから、おそらく片目を失明させるという痛手を負わせることは出来たという話」、年齢不詳の若白髪の探偵は以前までの謎めいて不思議な余裕を持った雰囲気をすっかり引っ込めて、まるで哀れな浮浪生活を送る50歳ほどの初老の男性に見えた。遠隔操作のように瞳があちこちを向いて、まるで眼窩から逃げ出しそうな様相だった。何も言わない探偵を少女はしばらくじっと見つめ、今回の事件で不幸にも殺害されてしまった宿泊客の名前を口にした。探偵の巧みな推理によれば、この事件の犯人は頭のおかしい快楽殺人犯の仕業であって、あくまで無差別なものであり彼が殺されたのは偶然のはずであった。「…探偵様、知らないとは言わせませんわ。被害者が、オペラ美術館の運営に関わる最後の人間であること」。僅かな間のあとに、金髪のベルボーイが目を剥く。探偵は奇妙な息の吸い込み方をして左右の肩の高さをがくんと違わせた。少女は続ける。「頭のおかしい快楽殺人犯なんていないわ。この事件は8年前から仕組まれていたのです。美術館強盗事件を強制的に迷宮入りさせたい犯人によって、ね」。「馬鹿な!」先に声を上げたのは舞台作家夫婦の夫であった。「それでは探偵殿の見事な推理の数々はどうなる?気が狂って理性がないからこそあんな残酷な所業が成せるのだとお前も納得していたではないか!」詰め寄る舞台作家夫に対し、少女は顎に手を当てて、あっけらかんと言い切った。「それに関しては、そうね、気が変わったのよ。探偵様の言うことはなんだか調子が良すぎると思ったの。男の人が女の子を口説くときと一緒だわ」。…若白髪の探偵はもはや革靴の汚れを気にする余裕もなく、今にも暴発しそうな機械のように不気味な挙動を繰り返している。「――まあ、こんな――頭のおかしな人に口説かれたところで、なびく女の子なんていないでしょうけどね」 


・強盗事件と殺人事件の犯人は同じ 
・強盗事件で盗まれたのは緑の宝石 
・強盗事件を誤魔化すための殺人事件 
・犯人は片目を失明 
・追い詰められる男がひとり 


「そう、頭のおかしな快楽殺人犯」 

 おませなロリータドレスのお嬢様は視界の邪魔になる黒髪を払いのける。探偵は、いや、探偵を名乗ることが出来るほどに頭のいい男は、近寄ってくるあどけないメリージェーンの足をただ、呆然と眺めていることしかできない。 

「わたし、見てすぐにわかりましたの。探偵様の右目が義眼だってこと」 

 男の緑色の瞳は諦めたように正面だけを見つめていた。 



「探偵様、その義眼の中で輝く美しい緑色の瞳、よく見せてくださる?」




【メリージェーン探偵物語】
(111007)



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