今となっては、そうと呼ぶにはあまりにも高尚すぎる感情だったと思う。
 それはとある初夏の日。カレンダーの日付とはおよそ釣り合いそうもないくらいの高い気温。30分おきにやってくる2両編成の電車は備え付けのクーラーが壊れかけていたらしく、これ以上なく活躍の場であるにもかかわらず気休めにもならないぬるい風をぽつぽつと落とすだけで、乗客が少ないことが唯一の救いか、それでも間違いなく地獄の様相を呈していた。 
 死ぬほど暑い、という言葉を今までの人生において何度使用してきたかわからないが、今日こそ最もその言葉がふさわしい日に間違いないだろう。暑さで頭がくらくらする。停車駅でドアが開いても流れ込んでくるのは熱風にほかならず、哀れな乗客は自分の目的地に着くまでひたすら耐えなければならなかった。そして私もそんな不運な人間の1人で、あいにく目的地は終点である。その日うっかり寝坊した私はその時点で既に学校に遅刻するのは確定だったが(とっくに授業は始まっているし)、それでも無駄に教師たちの心証を悪くさせないためにできるだけ早く到着する必要があったので、適当な駅で降りて次の電車を待つほど余裕はなかった。 
 とにかく状況は最悪であった。暑さを少しでもしのげるようなものはなにもない。視界が陽炎のように揺らいでいるようにすら感じられ(実際そうだったかもしれないが定かではない)、実際私の意識は多少朦朧とし始めることを余儀なくされていた。滴り落ちる汗を拭く気力もほどんど残っておらず、額に貼りついた前髪で視界が狭まるのもそのままに、水に溶いた絵の具をかき混ぜるように頭の中身が渦を巻いて汚らしい色に変わっていくのを瞼の裏に映写しながらしばらく俯いてぐったりする。そしてふと数分後に顔を上げてみると、いつの間にかこの車両に私以外に乗客はおらず、ちょうどどこかの駅に電車が停車したところだった。 
 がったん、と車両の動きにあわせて揺れる体。奇妙な調子のついた浮遊感すら漂う車掌のアナウンスが波打ちうねりながら駅名を告げたが、私はそれをまったく聞いていなかった。暑さで朦朧としていたのもその原因の1つではあるが、それ以上にもっと大きなことに私はとても気を取られていたのである。 
 何駅だか存じ上げないが、凄まじい太陽の日差しを逆光に、この電車に乗り込んできた1つの人影があった。 
 いや、それを「人影」と呼んでいいものやら私には判断しかねたが、とりあえず仮にそう呼んでおくとする。 
 人影はゆっくりとホームと電車の隙間をまたいで車両に乗り込み、背後でドアが閉まるのをそこへぼーっと立ち尽くして待ったあと、電車が動き出す少し前に移動を開始した。 
 重心が右へ左へと落ち着かない人影はじりじりと私の向かいの座席に近づき、奇妙な上下運動を伴いながらようやくといった感じでそこへ腰掛ける。 



 人影はとても異様な見た目で――おそらく誰が見てもそれを異様だと言うはずだ――例えるなら「X」のシルエットだった。 
 腰から下しかない2つの人間の体が1つに合わさったような姿。つまり、普通の人間の腰から上に逆さまに足が生えているような状態。 
 2つの体の接続面と思しき部分には同じ大きさのいささか巨大な目と口が1つずつくっついていて、口はひっきりなしに開いたり閉じたりを繰り返しながら何かを咀嚼するような動きをし続け、目は時折白目の範疇を瞳がぐるぐると行き来しつつも、私の顔を無表情に見据えてくる。 


 今思えばあまりの暑さに幻覚でも見たのだろうと思う。 
 あまりにも人間の許容範囲を超越しているレベルの異形であるそれを見て、ただの女子高生である私が何の恐怖も抱かなかったあたりがそれを裏付けているようにも思う。 


 その異形を見て私が抱いた感情は、殺意だった。 



 電車がのろのろとスピードを上げ始めた。異形の向こうに見える窓の外の景色はいつもと何ら変わりのない田舎の風景で、ずっとずっと遠くの方にぽつんと1つのビルが立っているのが見えた。どこかのおばあちゃんが畑で仕事をしていて、彼女の孫か何かか、それを小さな男の子が興味深げに眺めている。電線には雀が等間隔にオリオンのベルトのように3羽。合成着色料のような水色をした夏の空、CGのような具合の入道雲、ブリリアントカットの巨大なダイヤモンドに強烈な光を照射したかのような狂気すら感じさせる輝きを放つ真夏の太陽。最近ようやく舗装が行なわれたために比較的新しいアスファルトの道路の上を、車が通らないのをいいことに斑柄の立派な体格をした野良猫が堂々とふんぞり返って歩いていく。 
 いつもと変わらない穏やかな風景。いつもと変わらない。変わらない。 
 私は窓から少し視線を横に滑らせた。 
 異形と目が合った。 
 私は静かに座席を立って、異形の目の前まで歩いていった。 

 私が右手に持った学生鞄には、学期末テストが近いこともあって教科書や参考書の類がめいっぱいに詰め込まれていてとても重い。 
 とても重いことを私はよく知っていた。 
 よく知っていたが、私はその学生鞄でもって、おもむろに異形を力いっぱい殴りつけた。 

 ぱこん、と気の抜けた軽い音がする。 
 計ったことなどありはしないが軽く見積もって3kgはあるだろう学生鞄を、女子高生の持ちうる最大限の力でもって振り下ろし叩きつけ殴りつけたにもかかわらずである。 
 私は何度も何度も何度も何度も学生鞄で異形を殴りつけた。何度も何度も何度も何度も殴りつけた。そのたびに私を嘲笑うかのように気の抜けた軽い音が地獄のような熱気に支配された車両内に響き渡った。私は何度も何度も何度も何度も学生鞄で異形を殴りつけた。何度も何度も何度も何度も殴りつけた。ぱこん、と気の抜けた軽い音がする。友達とふざけ合って薄い下敷きで頭を軽く叩いたようなそんな音。私は何度も何度も何度も何度も異形を力いっぱい学生鞄で殴りつけた。 
 異形は何も言わずに静かに私のことを見つめていた。 
 どんなに殴っても異形の体には傷ひとつつかなかった。 
 気の抜けた軽い音だけが響き続けた。 


「死ね」 
「死ね、死ね、死ね、死んでしまえ」 
「お前なんて死んでしまえ」 
「死ね、死ね、死ね、死んでしまえ」 
「死ね」 


 振り回す動作で生じた遠心力による負担が大きすぎたのか、何百回目かもわからない殴打の末、私の学生鞄の取っ手は根元からちぎれてしまった。 
 手頃な手段が失われる。最後に思い切り取っ手のない鞄を抱え上げて異形に向かって投げつけてみたが、鞄は異形の体に触れるとぱこんと鳴り、ほんの少しだけ跳ね返ったあとそのまま垂直な動きで床に落下しただけで、やっぱり傷ひとつつけることはできない。異形の一ツ目が私の顔をじっと見上げている。咀嚼するような動きをし続ける口は何かを喋ろうとしているかのようにも見えたが、そんなもの理解する必要なんか感じられなかった。 
 私は制服のポケットを探った。数日前に使ったマニキュアの除光液の小さなボトルが出てきた。私はすぐさま乱暴な手つきでボトルの蓋を開け、引き剥がすように中蓋を外したあと、異形の開いた口の中に中身をすべて注ぎ込んだ。 


「飲めよ。飲め、全部だ」 
「全部飲んで食道爛れて死ね」 
「口ん中も舌も喉も食道も胃も全部爛れて焼きついて死ね」 
「早く」 


 そもそも異形は人間の上半身の形状を一切省いた構造だったので、実際それを飲み込むための器官があったかどうかはわからない。それでも異形は同じ瞳で私のことをじっと見つめて、そして次にその大きな口を開けたとき、注ぎ込んだはずの除光液たる液体の類は綺麗さっぱりそこから姿を消していた。 
 私は空になった除光液のボトルを異形の一ツ目の表面に密着させて強く強く強く押し込んだ。どんなに力を込めて押しても異形の瞳は岩のように硬くびくともしなかった。異形がまた何かを喋ろうと口をもぐもぐ動かし始めた。私は除光液のボトルも投げ捨てて、いよいよそこで立ち往生した。 
 ポケットを探ってももう何もなかった。鞄の中にも教科書や参考書以外には何もなかった。 
 私は立ち尽くした。そこへずっと立ち尽くした。 
 視界の端で動く窓の外の光景は穏やかなままだった。いつもと同じいつもと変わらない光景だった。私は異形を見た。異形も私を見た。異形はこの電車に乗り込んできたときと何も変わらなかった。私は異形に傷ひとつつけることもできなかった。こんなに殺意を抱いてこんなに猛攻撃を繰り返したのに傷ひとつつけることもできなかった。こんなに。 
 地獄のような熱気の中で激しい運動を繰り返した私は意識を失う寸前だった。 
 目の前の異形は私を見上げながら口をもぐもぐ動かし続けている。 



 次の瞬間、私は気づいた。 
 異形が私に向かって何を言おうとしているのかということを。 


 そしてそれを待ちわびていたかのように、ずっと無表情だった異形の一ツ目が、吐き気を催すような下品で低俗で気味の悪くて恐ろしいにやにや笑いのそれに変化した。 
 口の動きだけで繰り返されていたその言葉が異形の喉の奥から這いずり回るグロテスクな毛むくじゃらの虫のような響きでもって発された。 



「死ね」 



 私が異形に向かって投げつけた何百回のそれよりも、たった一回のその言葉は私の心臓や脳髄を一思いに握りつぶした。 

 私はよろよろと数歩後ろへ下がった。豹変した異形の表情は筆舌に尽くし難いほどの恐怖感と不快感と焦燥感を煽り、それでも視線を外すことができなかった。思い出したように全身ががたがたと震えだした。ようやく異形が異形であることに気がついた。なんとおぞましい姿だろう。なんとおどろおどろしく、なんと不気味な姿だろう。私は足元に転がった自分の学生鞄を拾い上げた。こっちを見つめてにやにや笑っている異形、その口の下がもぞもぞと動いていることに気づく。凝視してはならないと自分を叱咤したと同時に、私は今まで以上に恐ろしいものをそこに見た。 
 異形の口の真下の皮膚の部分がゆっくり横に裂けて瞼に変わり、見開かれてもうひとつの目が姿を現す。 
 はっと息を飲んだ次の瞬間、異形の全身の皮膚の至る場所に無数の大小様々な大きさの新しい瞼がぎっしりと発生していることに私は気づく。 
 ゆっくりとすべての瞼が私を嬲るように遅すぎる速度で開いていく。 
 にやにや笑いの無数の目が一斉に私を見ようとしている。 


「し」 


 刹那、私は呪縛から解き放たれたか如く弾かれたように後ろを振り返った。 
 いつの間にか電車は停まっていて、開いたドアの向こうには私の降車駅の風景が広がっていた。 
 死に物狂いで走り出し、転げるように電車の外へ飛び出すと、見計らったように背後でドアが閉まる音がした。 
 あの異形を乗せたまま、電車が走り去り遠ざかる音がした。 


 取っ手のちぎれた学生鞄を手に私はその場に崩れ落ちた。 



*** 



 それはとある初夏の日。カレンダーの日付とはおよそ釣り合いそうもないくらいの高い気温。 
 あのあと私はホームで倒れているところを駅員さんに発見されたようで、救急車で病院に搬送され、熱中症であるとの診断を受けた。非常に気温の高い狭い場所で極度の興奮状態にあった上で過度な運動をしたことが原因だと医者は言う。無人の車両の中で何があったのですかと怪訝そうな顔で尋ねてきた医者に私は一言答えた。幻覚を見ました、と。 




 私は今あのときと同じ電車に乗っている。あのときと同じ季節、あのときと同じ車両、あのときと同じ位置の座席。あのときより乗客は多く、なによりクーラーは壊れていない。快適に作動し快適な気温が保たれる電車内は、疲れの溜まった日々の移動中のちょっとした休息として睡眠をとるのに最適であるように思えたが、残念ながら同じ車両内で小さな子どもが奇声を上げて走り回っているおかげでそれはままならなかった。私は苛々と子どもを時折睨みつけながら聞こえよがしのため息をついたが、子ども本人はまだしも親すらそれに気づかないようで、楽しそうににこにこ笑っている始末である。いい加減怒鳴りつけてやってもバチは当たらないような気がしてきたが、自分の社会的な立場も考慮してぐっとこらえ、そしてもう一度ため息をついた。 


 今でもたまに考える。あれからも何度も同じ電車に乗りはしたものの、以来一度も姿を見ていないあの異形。私があのおぞましい姿をみとめたその瞬間に体の奥深くから沸き上がってきたどうしようもないほどの抑え切れない衝動。そして、それらの名前について。 


 やがて私はうとうとし始めた。遠くで子供の奇声が相変わらず響き続けているが、ようやく私の中の天秤において「眠気」に勝利が傾いたようだった。涼しいクーラーの風に仰がれながら心地良く目を閉じる。 


 やはり今となっては、そうと呼ぶには――殺意と呼ぶにはあまりにも高尚すぎる感情だったと思う。 
 あの感情は殺意だけではなかった。殺意と同じくらい膨大な量が含まれていたのは、いうなれば「被殺意」とでも言うべき凶暴でありながら脆弱な感情。 


 あの地獄のような光景は今でも脳裏に焼きついて離れることはない。 
 私の持ち得る恐怖という恐怖を残らず寄せ集めて投影した異形とその周辺の光景。 


 あの日私が乗っていたあの電車は無人だった。 
 私以外誰も乗っていない無人電車だったのだ。 
 間違いなく。 







「――…」 



 不意に誰かに名前を呼ばれたような気がして目を覚ました。 
 一瞬自分がどこで何をしているのか理解できずに起動しかけた思考が再び停止しそうになるが、すぐに電車の中で眠り込んでしまったことを思い出して弾かれたように眠気が一気に吹っ飛ぶ。思わずその場に立ち上がってしまったが、電車が走行中であることに気がついておろおろと再び腰をおろした。 
 どれくらいの間眠ってしまっていたんだろうか? 今回の目的地は終点ではないので、寝過ごしてしまっていたとしたら非常にまずい。なにせ30分に1本のペースでしか来ない電車なのだから。しかし窓の外の景色を覗き込んでみても、残念ながらそれはどこにでもあるような汎用される「田舎の風景」でしかなく、場所を特定できるような特徴的なものは一切見当たらなかった。ずっとずっと遠くの方にぽつんと1つのビルが立っているのが見えるくらいのもので、地名はまだしも民家と田んぼ以外の建物すら見当たらない。 
 はああ、と深く深くため息をついたところで、ふと、眠りに入ったときと比べてあまりに周囲が静まり返っていることに気づく。 
 見渡してみると、私の周囲にはいつの間にか誰もいない。 


 奇妙な感覚に襲われるよりも先に私は気がついた。 
 クーラーが止まっている。 


 もう考えなくても体が覚えている。薄れもしない記憶が鮮明に脳裏に再上映された。クーラーがいつから止まっていたのか知らないが、準密室である車内の気温は十分「暑い」と表現できるレベルのそれにまで上昇していた。窓の外の視界がゆるゆると滑り、そしてがったん、と電車が不躾に停止する。次いで奇妙な調子のついた浮遊感すら漂う車掌のアナウンスが波打ちうねりながら駅名を告げたが、私はそれをまったく聞いていなかった。 
 今度は誰が乗り込んでくるのか知っていたから。 





 逆光の中、Xのシルエットが姿を現す。




【Xestruct Ganger】
(100712)

(ゼストラクト・ゲンガー/そのうち書き直します)


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