「なあ、遼。香のテープ受け取ったんだろう」ミックは手に持ったグラスの中の氷を眺めながら尋ねた。そして付け足すように「あれを、俺にも見せてくれないか」と続けた。
ミックはずっと気になっていたことをようやく口にした。酔ってなければ聞けないだろう。どう考えても非常識ではあるかもしれないが、それでも気になった。遼はカラカラとグラスを回しながら、当たり前のように「見せると思うか」と答えた。
「やっぱり見せる気はないか」ミックはそう言って顔をくしゃりとさせ(予想通りだよ)と唇を吊り上げた。
そしてミックは今日の為の本題をようやく口にした。
「遼、俺はかずえと一緒にしばらくアメリカに渡る」
空になったグラスにバーボンを注ぎながら言った。遼は黙っていたが、査定と受けとるには充分だった。それに遼のことだ。どこからか情報を得ていただろう。

「なあ、遼。俺はお前がもっとおかしくなると思っていた」
ミックはそう囁いた。まるで女を口説くような哀愁があった。遼はそれをぼんやりグラスを傾けながら「気が狂うとでも思ったのか」と答えた。ミックはその答えに何も返すことは出来ず、ただ黙ったまま最後の1滴を飲み干した。そして不意に腕時計で時間を確認して、ジャケットから財布を抜き取って札を出した。そして先に支払いをすませた後、かつての相棒の肩を叩いた。「先に帰る。あまり飲みすぎるなよ」そう言って席を立った。
意識は白濁とし、遼は頭を押さえた。これはネットの仮想空間ではない。俺の記憶だ。ずきずきとする鈍い痛みに首を振った。

『冴羽さん。何か電気系統に異常が見られます。その場所を離れて、まっすぐ進んで下さい。すぐにシステムの回復を試みます』
「記憶が…」
『冴羽さん?』
「いや、なんでもない」
遼は息を深く吸って、押さえていた手をどけてそのまま前に進んだ。
さっきから意識の混濁が激しい。仮想空間なのか自身の記憶なのか、何か誤差が少しずつ蝕んでゆくような感覚に陥った。遼は足を進め、一度瞼を下ろして目の上を摘んだ。

そして目を開けた時、そこはまったく違う空間だった。
パパパパパ、パンッ聞きなれた銃の音。鬱蒼としたジャングルに眩暈がした。熱い。日差しが強く、湿気などない。痛いほどの太陽。
汗がじっとりと服に染みこみ、迷彩柄は久しぶりだった。体中泥だらけで、足が重い。
「遼っ危ないっ」
はっとして振り返った時、それは自分よりも大きな男だった。そこで気付く。自分はまるで子ども。少年だということ。銃を持ちなれていない腕と手のひら。「大丈夫か」覆いかぶさった人物は遼の無事を確認すると、微笑んで頭にぽんっと手を置いた。その顔を見た途端を息を呑んだ。――親父

その瞬間、場面は途端に変わり、ぶくぶくと泡が下から上へとどっと流れ、青の空間が出来た。ジャングルは掻き消え、幼い自分も海原も消えうせた。息が続かず思わず目を閉じて開いた瞬間、そこには大きな水槽があった。どこかの水族館のように水色の海を思わせるような大きな水槽。こちら側は暗いのに水槽の中は美しく揺らいでいる。
泡がが下から上へと送られてゆく中には魚は見当たらない。だが、目を凝らした先に、何かがいた。
それはどう見ても人間。肌色のほっそりとした体。髪は揺らめき水の中で静かに立つようにして目を瞑っている。その体を多い尽くすように白い布が巻きつけられている。それが誰かなんて、もはや野暮だった。


『冴羽さん!それは罠です!』

はっとしたように遼は目を見開き、ぐっと唇に歯を突き立て痛みを呼び起こした。
するとぐにゃりと画面が変わり、それと共に頭痛が酷くなった。いや、違う。
「……っ」右目が焼けるように熱い。

『冴羽さん、システムが書き換えられているようです。今すぐ脱出の指示を―…』

そこで直子の声が途切れ、ザ――、ピーとやけに耳につく雑音のような電波障害が起きた。

「…随分早いお出ましだな」

遼は上着の中にあったパイソンを取り出した。

さっきまでの空間は黒く塗り潰れ、どう見ても良い展開でもないようだ。それを動機付けるかのように男が一人佇んでいた。それは確かに海坊主が遼に渡したカードに記された組織―その幹部の一人だった。遼はパイソンを突きつけながら「久しぶりだな」と挨拶を告げた時、何かがブチリと千切れたような音が聞こえた。それはすぐに違和感となって遼の右目に異変を齎した。

そこで遼は舌打ちをした。どうやら、右目を潰されたようだ。男はそんな遼の様子に気付くと愉快気に笑みを浮かべた。
「ああ、シティハンター久しぶりだな。右目の調子はどうだ。本当はもっと他の機能にも触れたがったが、他のは制御したみたいだな」

「しつこいな。女なら構ってやるんだが」
「ほざけ。お前はまんまと罠に引っかかった。良い映像だっただろう。お前の記憶をもっとかき回す予定だったんだが、どんな記憶を見た?現実と仮想空間と記憶、混濁してくるだろう?だが俺は最後の女が一番の力作だ」

「生憎もっと美人な女だったら飛びついてたさ」
皮肉ぶるように遼は答えたが、それがよりいっそ男には愉快だった。
「死んだパートナー(Heart)を取り返しにきたのか?」その不愉快な笑みに遼は眉を顰めた。

「勘違いするな。俺は、お前を捕まえに来てやったんだ」
右目の裏がじくじくと疼く。どうやら仮想空間での擬似神経を潰したのか。本体でなくても、今の常態には必要な視界だったが使い物にならない。そんな遼の様子を楽しみながら男はべらべらと喋った。

「そのパイソンも使い物にならない。システムを書き換えたからな。今日は中々しつこいハッカーの網があったが、この日の為に用意したんだ。別段、問題はない。Heartという後ろ盾のないシティハンターなど、この仮想空間ではただの使えないゴミだ!」

そう男が叫んだ時、遼の右目に鋭い痛みが走った。「…ッ!」
大抵の痛みなら堪えるが、仮想空間の体とは思えないほどの強烈な痛みで遼は片目を閉じたまま手でその瞼を押さえた。意識がぼうっとぼやけた。
遼はもう一度唇を噛み、両目を一瞬閉じた。
その時瞼の裏に突如と古びたマンションの棟が連なり、複雑に入り組む空間に変わった。
(何だこれは。仮想空間なのか。それとも俺の妄想なのか…?)
入り組んだ光景に反して人は誰もいなかった。無音だけの空間はとても耐え難いほどの虚無感を生む。ふとその時、マンションに挟まれた細い細い路地が見えた。その先に何か眩しいものがあるのか、ここの影を照らしている。
そこは光彩の雨だった。そこには独り佇む人がいた。遼をよりいっそう片目を凝らした。だが背中を向けているようで誰なのかはわからない。一つ一つの光彩が目映く光を放ち、眩しくぼやけている。白い人。青、ピンク、黄色、落ちてゆく光彩の玉が降る。

目を開けて

遼はそっと両目を開けた。先ほどまで走っていた痛みはもうなかった。
確かに右目は真っ暗だ。だが、それは違った。線だ。光る線で世界が現れている。確かにこの右目は前に立つ男を光の線で縁取るように捕らえていた。





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -