「私ね、早く大人になりたいって言ったの」
香は唐突に言って、膝を落として地面に生えている草を撫でた。さっきまでハンマーで追いかけていた香は夕暮れにそまる新宿を見て、どこか思い出したようにハンマーを地面に落とした。何が、と遼が問う前に香は昔話をした。

それは中学生の頃、三者面談で親がいない香には兄貴が来てくれた。担任から今後の進路について聞かれた香はごく自然に「働きたいです」と答えた。高校進学、と話を進めていた兄貴と担任がぽかんとしてしまったのは言うまでもない。でも香にとって嘘でもなくば、冗談でもない。子供ながらに、家計や家庭。兄に負担をかけていた事も知っていたし、早く役に立ちたかった。兄貴は驚いた顔で香を見ると、首を振った。そして厳しい面持ちで、進学の事を話しはじめた。何故か怒っていると思った香はそのまま口を閉じて俯き、兄と担任の会話を聞き流した。その帰り道、兄貴が振り向くようにこちらを見て、「香、お前は何も心配しなくていいんだ」と言った。私はよくわからなくてただ正直に「私は早く大人になりたいだけ」そう答えてツンとマフラーに顔をうずめた。
兄貴は目を細めた。それはまるで距離があるような遠い目だった。その時、私の心臓は早く鼓動して、何故だかとても悲しい気持ちになった。なんで、兄貴は寂しそうに悲しそうにするのだろうか。

そよ風を感じて私は遼を見た。ぷちっと草花を取って地面から立ち上がった。相変わらず意味がわからないとばかりにこちらを見る遼を横目に私は沈み行く夕暮れを見た。
(本当は早く大人になんてなりたくなかった)
(本当はずっと兄貴の横にくっついて、手を引かれて一緒にいたかった)
目線を下げて風の中に草花をぱらぱらと手放した。

私はずっと一緒にいたかった。将来の夢なんてものの前に、あたたかく私を守ってくれたあのぬくもりを ずっと保存しておきたかったの
その為なら―

香は頭振って伸びをした。もう何を思っても、過去も兄貴も帰ってこない。
「帰ろう」そう言って振り返った香はもういつもの香だった。




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