この世界にすべてが記された世界地図はない。秘境も隠された場所も多く、解明されていない所は多々ある。多くの民が王に古い風習も残り、様々な眷族が住まう。
そんな世界でソルトは9歳の時捨てたれた。それを拾ったのが、あるまじない師だった。物腰の柔らかい彼は、ソルトを旅に道ずれに選ぶと共に、弟子としてソルトを迎えた。
あれから数年経ち、ソルトはその燃えるような赤い髪を風でなびかせながら、顔を振った。微かに唇にのった砂つぶを押し出すように手で拭う。
薄い膜のように砂を被ってしまった靴を払って、くせっ毛の短髪で少年のようなふわふわした髪を整えた。ふわ、と欠伸をしてから腰に提げていた、小袋の中から丸い玉を取り出し、口に放りこんだ。
かり、と砕ける音と共に、遥か遠くの砂嵐を越した先に見える雄大な景色に目を細めた。

ソルトは15になる。性格は好奇心が強く、知らないもの興味をそそられたものには多少危険や恐怖が伴ってもとびつく。有り余るエネルギーに師もそれを少し懸念したが、得に咎めることはなかった。ついつい先走ってしまうお調子者のソルトに、「仕方がない。そういう風になりたかったんだろう」と意味のわからない事を言う。
しかし彼は有名なまじない師で各地に散らばった古(いにしえ)の「調べ」を研究するために放浪生活に明け暮れている。
…という少々特殊な男の為、常日頃から物事を冷静に特殊な世界を通して見ているせいか、時々ポツリと達観した(ようするに変な)事を言う。


そんなソルトはある遺跡の原で真っ黒な獣を見つけて、嬉しそうにニッコリと指をさして「先生。あの子、私のお供にします」と言い出した。ソルトはその真っ黒で漆黒の瞳はその存在自体が「夜」を思わせるような狼にそれはそれは気に入り、構った。
一方狼はめんどくさがりやで、そっけなく、ソルトの方を見ない。いつもぷいっと首を逸らす。だが、いつの間にか「ステファン」と名づけて「あのこはとっても照れ屋なんですよ」なんて的外れた事を言っている。
しかし普通の狼より大きく、賢いその狼はご飯を与えてくるソルトになんだかんだと着いてくるようになり、今ではすっかり香のお供?になっている。
小さい時からよく生き物を見つければ、よく「お師匠さま、この子を私のお供にしていいですか」なんて言ってくるのをよく止めたが、今となっては口も達者でしっかりしている為、もう放っておく事にした。それはもちろん、ソルト自身がすべての世話をすると言うことで話しがついた。
そしてとある夕刻、ソルトがその日ついた街で買出しに出て道に迷った時に事だった。
あちこちとぐるぐる回っているうちに、たちの悪そうな連中にぶつかってしまった。
しまった、と思うもぶつかってしまっては、もう遅い。最初は謝っていたソルトだったが、一方的にも怒鳴られ明らかに絡まれてしまった。しかも男たちの頬は赤く染まって、完全に近くの酒場の帰りだという事が伺えた。
「おい、見ない顔だな。どこのよそ者かは知らんが、金だせよ」いい加減いらいらしてきたソルトは拳を握った。
「おっさん、文句あるならかかってきな」ソルトは少年のように瞳を吊り上げさせて、にこりと笑った。

挑発的なソルトの態度に、男たちはすぐに乗せられた。単純といえば単純だが、この状況を収めるのにはソルト自身にかかってしまった。つまり逃げ場はない。
前にいた小柄の男がソルトの胸倉を掴んだ瞬間、ソルト唇を引いて肘をその男の腹に一発入れた。軽い体をあちこちと跳ねさせてまるで兎のようだ。少々の体術なら自信はあったが、しばらくして後ろにいた大男が顔を真っ赤にさせて怒声と共にソルトに殴りかかった。ソルトはその思っていたよりも早い拳の動きに、思わず目をつぶってしまい、(しまった)と頭の中で警報がなった。
その時頬に風がすり抜けて、空気がぴたりと止まったように静止した。次に目を開けた時、ソルトの世界は真っ黒だった。
「あ、」
と言葉を発する前に、それはあっという間に男たちを伸した。ぽかん、としていたソルトは地面にお尻をつけてただそれを見ていた。人、でもそれは明らかに普通ではない人。
動きや身にまとう雰囲気はまじないに通ずるものを感じた。
そしてそれが、ソルトの知る―「…狼なの」考えるのとは先に唇が紡いでいた。胸の心臓の鼓動がうるさい。表情は横向きで前髪になびいてよく見えない。
だがこれだけはわかるような気がした。彼には、目の前にいるこの男は、好青年のような眩しさは一切感じえなかった。むしろ、まるで犯罪者―罪人のように見えた。

「前から思ってたことを言っていいか」青年は息一つ乱していない。砂埃が微かにまう中、ただそう尋ねてきた。ソルトは目はぱちぱちとさせながら、ゆっくりとこちらを振り返るように見た青年に見とれていた。
「な、に」ようやくでた言葉は掠れていたが、確かに聞こえたみたいだ。青年は唇をゆがめて、馬鹿にしたようにソルトを見て言った。
「お前、変な名前だな」数秒後、ソルトは手に召還したハンマーを狼青年に投げた。


その後ソルトは大急ぎで師を探した。町の中心の大きな噴水の広場。見慣れたローブを見つけたので、すぐに師だとわかった。
「先生…!ステファンが…!」ソルトの声で振り返った師は、こちらを見て何かを発する前に、「ああ、やっとお前の前で人型になったのか」とソルトが趣旨を話す前に相槌を打っていた。
えー!と広場で声を響いた。
師によれば、すでに狼が人型になっていた所はよく見かけていたそうで、ソルトだけがその事実を知らなかったそうだ。
「お前は気づかなかったかもしれんが、昨日お前の林檎を食べてたのはあいつだよ。それも人型になって皮むいて食べてたよ」なんて言われ、さらにソルトは叫んでしまった。
しかも一人で皮むいて食べてたなんて…!なんだか面白いが、腹が立った。そしてなんで教えてくれなかったのとばかりに目を向けたソルトに、
「…だいたいこれまで修業をしてきた身なんだから気がつかない方がおかしい」
呆れたようソルトの頭を片手に持っていた分厚い本の角でコン、と叩いた。
う、とばかりに眉をよせたソルトは反論もなく、憎たらしいほど馬鹿にした目でこちらを見る狼青年が浮かんだ。今思えば、次々にと狼にくっついて一方的にじゃれていた自分が恥ずかしくなった。
ちらりと見たソルトの耳は赤く染まっている。ふぅーと息をついて、「そんなことより、助けてもらったんならお礼はいったのかい」

なんで知っているのとソルトが、パッと師を見上げれば、しれっといつものようにすべてお見通しとばかりにソルトの背中を押した。「今日の宿はあそこの青い屋根のある家だ」
耳元でぼそりと言って、早く狼を迎いに行きなさいと、とトンと肩を叩いた。後ろを振り向いて、返事をしようとすれば、すでに師はいなかった。いつものことだけど、本当に不思議な人だ。


すでに空は紫に漂った色の中、粒粒の星たちが煌いている。そう、結局私は狼を迎えに行くのだ。とぼとぼと噴水の広場を出たところで、目の前には漆黒の狼がこちらに向って歩いていた。
「あ、」とばかし、声をあげて足を止めた。「…さっき助けてくれて、ありがとう」と少しぶっきらぼうに言えば狼はただ黙って足を止めた。
「あんた、名前はないの」さっきまでは「ステファン」と呼んでいたが一応とばかりに聞いてみた。
膝を折って狼の首筋をぐしぐしと撫でれば、狼は鬱陶しげに首をぷるぷる回してソルトは思わず手を止めた。すると狼は「ない」とだけ短い返事をした。ソルトは思わず、狼を凝視した。
「お前もソルトは「名前」ではないだろう」唐突に聞かれ、思いもよらなかったので、ソルトは瞬きをした。そう。でも確かに…【ソルト】これは、【名もない私】という意味である。
10歳までの子どもはソルトと呼ばれ、10歳の誕生日に家族から本当の「名前」を付けられる、というもの。これはこの世界の先住民が昔使っていた古い掟で今ではあまり残っていないが、小さな山奥の村で風習として残っている。私はただ名前を付けられる前に捨てられてしまっただけ。名前がない子は不吉とされる。次に生まれ変わる時、廻れないといわれている。廻れない、とは、すなわち生まれ変わる時に良いところに行けないということだ。
でもそれもただの言い伝えで、そんな古い風習を知っている人も少ない。案外「ソルト」って名前も気に入っているから気にしていない。でも、そんな掟の知識を知っている狼には、確かに不自然なのかもしれない。少し、ぼうっと考えこんでいると、「ステファンはやめろ」
狼はいきなりそう言ってソルトを見た。そして、濁しながら言葉を紡いだ。
「生憎俺も名はない。ただの狼でいるのが一番生きやすいし、気に入ってる。おまえもそうだろ」ソルトは目をパチパチして「…あんた、喋ってる方がもっと憎たらしい」
(喋ってなかった時もそっけなくて憎たらしかったけれど)狼の口元をぐにっと軽く引っ張ってソルトも意地悪そうに唇を上げた。
そして(あんた案外良いやつねと)笑って狼の背を叩いた。
とにかく、昨日とは少し、いやかなり関係は変わりそうな気もするが、失うわけではなさそうなので、とりあえず宿に戻ろう、と道を指差した。

すっかり日は暮れ、紺色のカーテンが夜空を飾る。月は満月で異様に輝く。
そしてこれが本当の「出会い」であったのかもしれない。







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